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 本ホームページのスケッチ絵は、毎年、年賀はがきに印刷してきましたものです。2026年賀は下の絵を予定していました。
水面下の表現がむつかしく断念、写真にしました。その下に、説明文(追加)を書いています。

                           2026年1月1日防府市向島


左 三田尻港                         向島               三田尻塩田大会所(たいかいしょ)

 私は、5歳まで、この向島と塩田作業を見て育ちました。

 三田尻港は、山口県では歴史ある港です。菅原道真が九州に左遷されたとき、立ち寄ったのが、この港です。防府天満宮まで、遠浅の入り江だった。向島の反対側は瀬戸内海が開け、島の岸は、水深が深く、島が暴風雨の盾となり、帆船の避難港であり、古代の軍港です。
 関ヶ原の戦い(1600年)から、毛利氏は、広島の太田川城下町から、日本海側の阿武川河口に、萩城下町を築いています。
元禄12年(1699年)徳川家光の鎖国政策(1641年完成)後、戦国の世は終わり、領土争いはなく、各藩、藩内産業振興で、繁栄をめざす平和な時代に突入した。毛利藩は、瀬戸内海側の佐波川河口を海を仕切り開田、海岸沿岸を大会所の護岸工事をしました。干潮・満潮を利用、塩田で海水を濃縮する精製塩を製造しました。それを北海道から下関、瀬戸内海を通り、大坂までの北前船を利用して、塩を北海道まで、販売しました。日本海沿岸では、塩は「みたじり」と呼ばれていたと書誌にあります。塩蔵品、家畜の飼料の必需品です。

 『金融論』でふれていた「赤穂浪士事件(元禄14年)」は、毛利藩の開田・塩田着手(1699年)が早かったので、赤穂藩の入り浜式塩田技術は、毛利藩には導入されていた。赤穂藩取りつぶし後、城主の浅野家族は、広島浅野藩に引き取られた。

 明治維新(1868年)となり、日露戦争後1905年、塩は、専売になり、日露戦争後の借金返済に使われたようです。塩の専売制度は、1997年までありました。露西亜から、賠償金が得られず、ユダヤ財閥の外債の返済に、使われたのかもしれません。
 第1次大戦後、ドイツは、賠償金がとられ、この交渉を取り仕切ったのが、「ユダヤ人」であろう。現在も、ウクライナ戦争で、バイデン氏・トランプ氏も、ユダヤ人を交渉人に使っています。
 第1次大戦後、ドイツ人は、賠償に苦しみ、それが、ユダヤ人虐殺につながったと、いわれています。ゼレンスキー大統領は、ユダヤ教徒である。交渉人は、戦争両成敗で、講和条件は、双方の国民生活に負担を背負わせ過ぎると、恨みは、いつまでも続きする。ドイツ人がユダヤ人600万人虐殺を容認したのは、その恨みと言われる。

 2026年、NHKの厳島(宮島)の紹介番組を見ました。厳島神社までの参道は、海岸べりを周回していますが、もとは、山側にあり、毛利藩が、山口県周防大島の花崗岩で、現在の海岸をしきって、参道を作ったと言っていました。広島城の太田川河口、萩城の阿武川河口の護岸を今度、行ったとき、大会所の護岸と同じか、見たいと思いました。