清浄心静観
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西村和志が2018年3月末日で退職しましたので
2018年4月から、本ページを新しく開始します。
2020/7/15 冷戦の終結と達成感
私的愛は、1971年夏で、終わったが、将来の決定を1年、延期し、老舗旅館で、仲居さんより、時には稼いで、宿泊費等を作り。
ソ連の往復旅費を京都JTBから、30万円の銀行小切手で支払って、大変だった。しかし、彼女は、グラーツでは、私とみんなと
一緒にいるだけで、本当に、喜んでいるようではなかった。グラーツでは、一緒にいるところを近所や知り合いに見られたく
なかったのだろう。予定を丸投げしたことを、後悔した。他の国に行けるユーロパスを買っていなかった。
彼女にいろいろ事情があるなら、私は、外国人だし、引き下がるのも容易だ。1976年に行っても、同じことで、私がパリを訪ねて来て、
一緒に帰らないのに頭にきて、帰ると、風呂場に、パンティを20枚以上干しているし、グラーツの男友人を呼び、一緒に、京都のスライド
を写して、私に見させた。さすがに、私も頭にきて、今回は、前回で懲りているので、ユーロパスで、パリに行った。凱旋門で、
そこにいた若い女の子に、写真を撮ってもらった。それは、私のさびしそうなところを撮っていた。
グラーツに帰って、また、ケルンに帰る日、母親と妹は写真に撮ったが、本人は、私のカメラを自分の前において、こっちをじっとみる。
撮らない。彼女には、どうも、自分の生活に形があって、男は、その中にいてもらいたいというような、強い意思があるような気がする。
日本人の女の人とは、そのあたりの我の強さが、すごく、違う。彼女は、個人主義だろうが、たまに、自分が太陽だという利己主義と
なるような気がする。帰国後、凱旋門の私の写真と母親と妹の写真を送った。
1982年、再び、行った。今度は、冷戦問題が目的であり、いつまでかかるかわからないが、ソ連を旅して、11年間変化ないので、
そう長い年月ではないだろうと、掛けて、東側に入れる強みと西側は自由なので、各国を訪ねた。活動していると、ファンができるみたいで
確かに、活動に意義は実感できた。これこそ、活動して、喜ぶ人々もいるから、ヨーロッパに、行って良かったと思う。西ドイツ留学中、
兄姉妹は、1986年11月までに、兄姉はそれぞれ、2人子供ができ、妹は修道院に入り、人生が始まっていた。母親も責任が果たせたのか、
本当に喜んでいた。私の論文も見て、喜んでいた。こっちは、まだ、冷戦問題のメドがつくまで、ゲームは降りられなかった。
そして、1989年11月、冷戦は終結を開始した。私の人生も始まった。
2020/7/10 私的愛と広義の愛
コロナ禍をきっかけに、1981年からの全ての活動を振り返った。私的愛は、1970年9月の大阪万博、京都案内を中年の女性に
頼まれたことを果たした時である。多分、原爆に悲惨さを見せて、多分がっくりしている若い彼女に、最初の投下目標地だった京都で、
戦災から残った都市を見せたかったのだろう。1971年6月まで文通していたが、5月頃から、手紙が来なくなったが、旅行の手続き中
だったので、気にしなかった。
ウィーン駅に着いたとき、一見して、私がわからなかったらしい。恋人らしいprivate distanceがとれず、グラーツに着くと、
近くの教会を案内して、バージンロードを2人で歩いて、どういう意味なんと思った。人目のないところでは、private distanceになる。
social distanceのまま、ベニス、インスブルック、ザルツブルクを旅行し、ベニスで、You love me?とき、I don’t
love youといい
、私が、京都で彼女が渡してくれた、身分証明書用の写真の裏に、I love you!と書いてあったのを見せると、むかついた顔をして、
細かくちぎり、パラパラと灰皿に捨てた。「あーぁ~」。私的愛はそのとき、儚くも、ベニスに散った。
結局、ザルツブルグで、教会のミサに出て、音楽会に行って、日本人とさまよっていると、快晴で、どこも美しかった。
You love Europa? と精霊に訊ねられれば、Yes, I love.と答えた。多分、これが、「広義の愛」として、残ったのだろう。
「広義の愛」は、私の残された余命の中で、南北問題を経済・社会の相互依存性を上げることにより、多国間Free Tradeないし、
経済統合に持ち込み、モノ・サービス・カネの流れを効率化、省エネ化、ゼロ・エミッション化する多国間共通政策を実行し、
技術力・財政力の弱い国に対して、支援し、効率化、省エネ化産業構造をその地域において、構築する。
初期の漠然とした南北問題意識では、格差の存在だろう。しかし、2018年から、この研究室を立ち上げて、京都議定書から、
温暖化ガス削減問題が世界共通に登場し、各国の対応は、それを拒否する米国や、実際に、削減が効果的に、毎年、成果をあげている国も
ある。削減せず、放置すれば、自然破壊や人間関係を破壊するコロナ感染症の蔓延になる。
コロナ感染症は、多分、温暖化で、中国でコウモリが繁殖していたから、捕獲され、食べた中国人がいる。昨年の秋、例年より、
多く捕獲されないと、これほど流行しないだろう。聞くところによると、こうもりのレアが、漢方的効能があると信じられていたそうだ。
ヨーロッパでは、イタリア・フランスで最初流行したが、hug,deep kiss,cunnilingus,fellatioなどの性愛表現が盛んな地域だ。
しかし、感染拡大期では、お互いに、親愛の情を交換するには、オーストラリア新様式の、靴合わせぐらいにすべきである。互いのloveの
確認を毎日hug,kissで習慣的にしているところが現在、流行地である。武漢の研究所では、排便、精液からコロナウイルスを発見した
との報告があるから、性愛表現までいってしまうと、現在、東京のホストクラブから、感染者が増加することになる。キャバクラは
大丈夫なのか気になるが、従業員が感染率を下げるには、ラップ・ゴム・ゴム手袋を着用しなさいと、保健所が勧めるべきだろう。
感染率の上昇している国々では、人の接し方を考えないと、感染は広がる。各国とも、性愛表現をラップ・ゴム・ゴム手袋着用で
やっているのか、感染者にしっかり聞き取り調査し、トランプ大統領も「控えていますよ」と言わさなければだめだろう。温暖化で、
来年の冬が暖冬であれば、思いやられる。
「南北問題を経済・社会の相互依存性を上げることにより、多国間Free Tradeないし、経済統合に持ち込み、モノ・サービス・カネの流れを
効率化、省エネ化、ゼロ・エミッション化する多国間共通政策を実行し、技術力・財政力の弱い国に対して、支援し、効率化、
省エネ化産業構造をその地域において、構築する。」という目標は、実行不可能ではないだろう。伝統的な南北問題の所得格差は、
その中で、減少することが望ましい、富める国はますます富めるならば、多国間共通政策はとれない。
これが、私の「広義の愛」を自分の中に、発見し、東西冷戦終結の方が結果が早いと信じ、各地を訪問している間に、愛の宗教である
キリスト教基盤がある、ヨーロッパで、社会運動が発生、1989年から、東欧、ソ連の共産党独裁統治は、民主化され、東西冷戦は終結した。
アジアでは、1986年2月、フィリッピン革命が成功し、1988年2月、韓国軍事政権が崩壊し、ソウル・オリンピック前に、韓国民主化が
成功した。中国では、失敗に終わったが1989年6月天安門事件が起きている。これらの民主化が、東欧にも影響したかもしれない。
2020/7/8 ロシア連邦・モンゴルとアジア経済統合国との関係
1993年、ソビエト連邦が解体して、現在、ロシア連邦とモンゴルが、ウラル山脈を境目にして、ロシア連邦のアジア地域になる。
中国の一帯一路の「一路」は、ロシア連邦のカザフスタン-ロシア-ベルラシ-ポーランド-デュースブルグの鉄路である。
モンゴルも中国の借款で高速道路を建設中である。ロシアは、ナホトカからモスクワへと、ウラジオストクからハバロフスク-
モスクワのシベリア鉄道がある。もう一本、南部に、中央アジア鉄道が引かれるということらしい。
現在の中国が中央アジア鉄道を建設することに異を唱える、1帯諸国はない。日本も、一路に反対したことはない。中国から、
それに資金を出せという要請があれば、日本は断るだろう。日本としては、シベリア鉄道が利用できれば良いので、EU向け貨物は、
ナホトカ港から、送っている。ロシア側の貨物は、木材、鉱物資源であり、それを一帯諸国に送ることができる。液化天然ガス施設を
ウラジオスットク近郊に建設し、専用船で一帯諸国に送ることができる。
ロシア連邦・モンゴル・中国東北部では、装置産業の建設ができないから、日本が資本を出し、設備を作り上げるしかない。
こういうことを、プーチン大統領は、関係諸国首脳をウラジオストクに集めたとき、主張していると思うが
他の首脳は聞くだけで、実際に事業を起こすわけではない。
その間に、中央アジア鉄道が完成し、一路は運用を開始している。普通、地政学的に、ロシアを中国の牽制に使うには、シベリア鉄道
の高速化しかない。電気は、ロシア原発に、日本のプルトニュウムを投入し、発電してもらう。
日本の官僚は、固定観念にとらわれ、みすみす、国際的ビジネスチャンスを失うことが多い。相手国の力を利用せず、
国内の核燃料処理の閉塞状態に埋没し、米国すら、核兵器作るつもりかと言われているのは周知のことだ。中国の永久革命路線が、
本気なら、日本として、協力する必要はない。香港の次は台湾で、尖閣諸島に決まっている。西太平洋の軍事的制圧を狙っているのは
明らかである。
中国が今のままなら、アジア経済統合国に、ロシア連邦のアジア側・モンゴルを加えて、中国の一路に、対抗し、彼らの資源
を太平洋に解放させ、西太平洋の軍事バランスを形成するため、ウラジオストクのロシア艦隊を加えることも、中国海軍に対する
牽制になるだろう。
2020/7/7 アジア経済統合による各国間経済格差の平準化が可能か
南北問題は、東西問題が終結し、ヨーロッパの東西各国の間に残った。東欧がECに加盟しても、さらに、EUに加盟しても、
南北問題は残された問題である。東西問題がある時代でも、主に、西側諸国と、北アフリカ諸国および中東諸国のイスラム圏、
東西アフリカ諸国および南アフリカ諸国との南北問題は、ヨーロッパの西側が宗主国であったために、複雑な関係とともに残った。
第2次世界大戦後、1960年代のアフリカ独立時代を経ても、経済格差は解消しないし、独立しても統治能力が欠ける国が多かった。
ヨーロッパ西側宗主国が、植民地から独立させても、ケアがあったわけではない。西側宗主国の政治的立場が、
植民地主義から対等主義に転換があったとは思えない。アフリカ諸国も西側宗主国はいまでも、資源を搾取している。
宗主国側は、人間関係の平等とか、各国に教会を建て、キリスト教を布教したにもかかわらず、
広義の愛はなく、人種的優位性は変わらなかった。
日本政府は、海外に出てみてわかることは、日本人会と在商工会、日本人学校がなければ、彼らを守る公的サービスはない。
大使館はお役所で、困った日本人の申請があれば、帰国手続きをしてくれるだけである。海外の日本人は、自己責任で、
現地の外国人としての義務を果たすことが求められている。
中国がアフリカに進出するのは、大戦後、現在の台湾が中国の代表権を維持していたので、大使館を開設し、中華人民共和国は、
二重に、大使館を開設し、中国の代表権を得た後も、台湾大使館をsweep awayした。そのために要した援助金等の費用もかかり、
宗主国と中国との関係下で、その国の政治交渉も困難だったと推測される。中国は、世界第2の経済大国になり、日本と違った戦略を
もって、アフリカに進出している。興味深いが、建設、鉄道、電力、道路、ニュータウン建設等の公的インフラに集中しているように見える。
日本も、ODAを通じ、アフリカ・中東と関係を構築していくのであるが、世界第2の経済力があるので、継続して、資金は出せたから、
政治・経済関係を深めていくことができた。日本に、アフリカ大陸に何らかの戦略をもって、総合的に、政治・経済関係を深めて
行ったとすれば、その戦略は、アジアで構築していった方法でしかない。
ラオスとか、カンボジアにいくと、フランス文化が残り、フランスパンとフランス植民地風建物がある。私の脳波が飛行機のエンジン音に
同期し、Lady Gaga をもじって、Madame Gagaを、フランスの文化使節としてFrench cancanが来ないか、とかを繰り返していたら、
フランス人の女子中学生が、こっちに来て、私をじっと見つめた。確かに、French cancanは、ビエンチャン、プノンペン、
ホーチミンでは、フランス文化が残っているが、フランスダンスと、こちらの伝統舞踊とは大きな違和感がある。植民地当時でも、
パリの興行師がcancanメンバーを連れて来たわけでもあるまい。カンボジアやベトナムの興行師がそれをまねようとは思わないだろう。
現地にいると、そういう雰囲気がある。ところで、日本では、宝塚歌劇団にラインダンスがあるから、実に不思議な民族である。
スケベなことは、観客を喜ばすために導入し、Frennch kissやcunniもAVでは定着している。
(今回のコロナ禍で、出生率が上昇するだろうと期待している厚労省の担当部署の人がいるが、全国的に、どうなんでしょう。
病院での感染を恐れてそれどこではなかったかも。)
東南アジアは、神仏に捧げる、伝統的女性舞踊は、変わらない。最近は、フランスパンにベトナムコーヒーが追加され自国産文化に
なっている。2001年頃は、そうでもなかったが、ベトナムはコーヒー生産に乗り出した。チョコレートの原料カカオ豆も北限らしい。
生産するかもしれない。日本の農家だと、10数年かけて、コーヒー豆、カカオ豆の品種改良を続け、高級品を作るが、
意外と、ヨーロッパの農業も超保守的で、200年前のりんご、洋ナシを作る。S品で、傷みやすい。オーストラリア産、カリフォルニア産
も同じだ。品種改良は努力すれば、報われるので、ベトナム人も、品種改良に着手するかもしれない。
2018年3月、バングラデシュに行ったとき、ベトナムから、牛皮を輸入か、現地生産するのか、使節団が来て、バングラデシュ政府と
その産業協力を結ぶ一行が、市内を特別車両で移動していた。なかなか、目の付け所が違う。イスラム国では、豚皮はとれないが、
牛皮はとれる。インドでは、牛は聖牛で殺生できないが、イスラム教徒に売却すると利用できる。アジアの次の時代が始まっているのである。
アジアがASEAN加盟国中心に、ASEAN経済統合が始まっている。経済の相互依存性は、今後、進化して行くだろうし、東南アジアの
民族分布を見ると、各国に、さまざまな民族が複雑にからみついて、居住している。経済統合すると、国境の壁がなくなり、
離れ離れの民族が、つながる。経済交流も、国境措置がないから、各民族の経済活動は、当面、活発になり、それらをつなぐ金融がつけば、
その経済活動に、投資もしやすくなる。それが、各国の経済格差を平準化させていく可能性がある。
当面は、1980年代から現在までの、歴史的経済発展経過を見るため、ASEAN加盟国中心に、各国計量経済モデルを推計して、
「富めるものは、ますます富み、貧しいものは、貧しい」と、貧しいものは、結局、仏教でいう「人は泥から生まれ、泥に帰る」
しかないのか、検証してみたい。
2020/7/6 中国共産党と思想・宗教の自由
東西冷戦は、民主主義と共産主義の対決であり、歴史の結果から見ると、ソビエト連邦、ユーゴスラビア連邦が、解体したのは、
それぞれの連邦内で、民主化闘争が激化して、やむなく、東欧の共和国が離脱するのを、ソ連共産党が認めたわけではない。
ゴルバチョフ書記長のペレストロイカから、中央指令型各国分業体制で、やりくりしていたわけで、ソ連は兵站路が長く、
道路は土地なりに、野を越え、丘を越えて引っ張るので、旧式のトラックでは、効率が悪い。原油は、シベリアから、原油タンク車を
鉄道で運び、これを共和国に届けると、各国で製油所がある。
ロシア側からすると、1973年の1バレル20ドル、1980年のイラク・イラン戦争の第2次オイルショックで、高騰するが、反動もあり、
各共和国に配分しているが、湾岸価格が低下すれば、ロシアの資源の損失だと、思うようになっただろう。東西冷戦で、東側経済は
ブロックされているから、西側の技術革新が入ってこない。資源浪費型の生産物が、域内分業で、やり取りされるから、効率が
よくない。需要見込みが、経済法則を反映する仕組みがない。製品、たとえば、冷蔵庫、テレビ、車は、固定価格で、注文待ちである。
ペレストロイカは、経済改革として、中央指令型各国分業体制をやめ、各国へ分権化し、経済の自立化、自主性を求めている。
1983年当時の東欧・ユーゴスラビアを訪問したときの、各国通貨をいまだにもっているが、ロシア連邦はルーブルである。各国の通貨は、
個別に発行できた。西側の通貨と比較して、交換性、計算性はあるが、高額紙幣はない。貯蔵性がない。普通は、ドルに交換して、
保有する。
ペレストロイカで、中国のように、指令経済から個人企業者、企業の自主性によって、市場経済が実現できると考えたようだが、
できなかった。インフレが高進したようだ。共産党は独裁政体から、法的に緩和され、複数政党が可能になった。ここまでくると、
ソ連側から、政治、経済制度が緩和されているから、東欧の民主化が、一気に進むのは、自然な流れだろう。
ちょうどそのタイミングで、私たち夫婦が、1989年7月23日成田から、大連に飛び、大連から、モンゴル通過が8月3日、すべて鉄道で、
8月16日、東ベルリンに到着したのである。9月1日マニラ、9月3日香港、9月4日大阪帰国という、中国、モンゴル、ソ連、東ドイツの
研究旅行と、スイスの新婚旅行、フィリッピンのアキノ大統領に伴う、民主化後を確認したかった。(確か、1986年2月25日People Power革命
のとき、テレビを父と見ていた時、テレパシーを飛ばした。後は、1989年12月22日以降、ルーマニア革命で、メディアが
中継したとき、何か、日本語で言ったと思う。相手は、「日本語が聞こえる」と言っていた。革命に参加していたのだろう。)
1988年ソウル・オリンピックは、東西冷戦の極東の象徴であったが、ソ連のペレストロイカによっても、北と南の経済格差は歴然と
しており、選手団やその報道機関には、東欧各国の政治・経済改革だけでは、格差は縮小しないという印象を与えたのかもしれない。
また、日本は、昭和天皇が体調を崩され、入院された。第2次世界大戦の戦前・戦後をひきつがれた天皇が、1月には崩御された。
東欧諸国に、第2次世界大戦後の共産党体制は、変革する時期がきたと各国民が考えて、社会運動するようになったのではなかろうか。
2001年のホーチミン・シティを訪問したとき、女性ガイドさんが、1985年ペレストロイカにより、ベトナムでも、ドモイ改革が
始まったという。彼女はモスクワでロシア語を習って、仕事をしていたという。ベトナムもソ連経済に取り込まれていたが分かり、
私は、当時を知っているから、なつかしく、ニコニコした。しかし、ソ連解体後、現在は、日本語ですと、ガイドさんもニコニコした。
私も、ソ連の経験およびロシア語研修をしたから、同士みたいなものだが。
そして、日本人会が寄贈した寺の鐘を見せてくれた。ベトナム共産党といっても、
少なくとも、信仰の自由は認められている。他方、中国共産党に永久革命論の信者がいるように、中国では、1割が既成宗教で、
残りは、共産党のなかに永久革命信者がいて、左派にあたるだろうが、以外は、共産党員も含めて、無宗教である。
(日本共産党の党員でも、「現在では、共産主義は信仰のようなものだ」という人がいる。)
かつて、朝鮮自治区のお寺で、中には入れなかったが、その宗教は許されていて、信者は裸になると、ガイドさんは言った。
そういう、エロな信仰の癒し方もあるんだなと、肉感的に感じた。
共産党にとって、現世利益、教育、病気、年金、最低限の生活保障は、国民に与えるから、他の思想・宗教を頼って、心の問題の
癒しをえるなら、それは麻薬だという、認識がある。麻薬となるものは、禁止すべきだということだろう。
人が、宗教に求めるものは、共産党が現世において、もろもろの人の苦しみから解放できるとともに、物的面からも、国民に
今できる最大の支えを与えているという現実主義ではなく、一人の死後の魂の生きる場所、天国に入れるとか、そういう永続性は、
現実主義では、与えることはできない。永久革命論の信者は、中国共産党が、中国史上素晴らしい現実主義政党だから、千年、
二千年、弁証法的に発展段階を経て、太陽系の終わりまで、存在すると主張したいのだろう。これは、現実主義で勢力が相克し、
勝ったものが、統一し、また、現実の変化で勢力争いになり、統一する過程を踏むことを想定している。これは、宗教ではない
権力闘争であるから、個人的救済は一切ない。この闘争で負けたら、処分さえある。
中国流といえば、そうかもしれないが、ソビエト連邦、ユーゴスラビア連邦の解体を見て来た者には、古典思想で、周辺の
民主国家の人々に、魅力ある政治理論ではない。中国国内で、その理論で統制するのは自由であるが、周辺に輸出はできないし、
それに従うわけにはいかない。
2020/7/5 香港との国際商慣行の中国内製化
中国の指導者は、1978年、鄧小平、江沢民、胡錦濤、習近平と、10年ごとに、交代している。習近平主席が、終身指導者の道を
開くかは、未定だが、中国共産党は習近平氏が永久革命論を取っているそうで、毛沢東と同様、10年交代ではなく、終身主席となる
可能性もある。
中国が、共産主義経済から、社会主義市場経済に移行したが、外国資本流入が天安門制裁でとまり、鄧小平の南方講話から、
1993年株式会社制を導入した。深圳、上海に証券取引所が開設され、香港証券取引所も、中国株を取引できるようにした。
資本主義経済化した。金融資産の中核をなす株式が、部分的に、解放された。そうなると、中国株式は、国際会計基準に
収れんせざるを得ない。
日本も、2003年、金融システムが平常モードに回復し、同時に、この国際会計基準に、国内の会計基準に合わす、見直しがされ、
従来の公認会計士、税理士の資格試験は、従来より、2倍内容が増えてしまった。私も退職前、関大会計に進学したゼミ生がいたので
公認会計士短答試験を勉強してみた。金融論の立場から見ると、増えた内容は、金融関係が多い。(余計なことだが、勉強する受験生は、
独学では、合格は厳しく、受験科目が講義されている大学で、受験科目を受講するのが望ましい。)
日本もそうだが、中国も国際資本市場で資本調達する場合、国際ルールに、従わなくてはいけない。その香港株の上場意義が薄れる
こともあり、香港で多分、会計基準がゆるい中国国内株を取得する外国投資家もいなくなる可能性がある。
2001年には、WTOに加盟した。資本主義国家との取引が盛んになり、中国経済は、高度成長に入った。そして、習近平が指導者に
つくと、綱紀粛正で、それまでの政治経済指導者は、ふるいに掛けられ、現在の指導者に連なっている。
コロナの発生源国となり、中国の資金と資本を投入した途上国で、いまだに、深刻な感染者と死亡者が出ていることに対して、
公衆衛生資材と医療関係者を投入する体制になっていない。無知な人々は、中国コロナウイルスと記憶するだろう。
そして、香港に対して、1国2制度を破棄し、香港以外で、「香港国家安全維持法」に抵触する活動する個人、機関にも適用が
およぶという。香港が中国国内であること主張している。
国際取引をする企業機関は、香港の法治で保証された取引環境の利便性を利用しているのだから、それが本土並みになると、
香港人と同じ、政治思想の取り締まりの監視対象になることを意味する。つまり、香港人のA氏は、デモで逮捕歴がある。A氏と取引の
ある日系企業のB氏は、本心から中国共産党思想に賛同するわけがないが、表明したことがない。中国監視機関は、A氏の感染履歴を
把握しているので、B氏は監視対象になる。つまり、思想統制5G1号を香港に投入して、香港を制圧するのである。なにか、
これまでの自由な香港を満喫し、何考えてもええなということはなくなる。武漢封鎖と同じような手法を取るだろう。
さらに、製造物の仕様データ、管理データが、中国国家管理で収集され、それを戦略企業に流され、技術開発に活用する
危険性が5G通信で指摘されている。金融でも、ビットコインの製造が盛んであるのは中国である。この方法は
金融取引の履歴ファイルと同じであり、それが任意のPC上で認識すれば、流通する。中央銀行がデジタル通貨として認めれば
PC上で、通貨として、流通する。すべての金融取引が、デジタル通貨で決済されるようになると、これを管理する
中国人民銀行は、すべての金融取引を瞬時に把握できる。したがって、香港の金融取引は、中国人民銀行にガラス張りになる。
現在、中国の幹部の金融資産は香港にあると言われているし、アジア、アフリカ、中央アジア、中南米の左系政党への
支援金は香港から彼らの口座に入金される。北朝鮮の幹部の口座もここだ。直接、その国に、政治活動資金を送らないでも
いいわけだ。習政権が2022年で任期終わりなら、今、香港を手に入れて、国内の幹部の資産を把握することは、次期幹部の有力者を
落とせるメリットもある。
これで、香港が極東のタックスヘブンの看板を下ろすことは、公正な金融取引を監視するバーゼル銀行監督委員会および
各国財務省にとって朗報である。
国際慣行のある香港を否定するのであれば、香港メリットはないから、仕事は、香港人に任せ、外国人は撤退するのが、安全である。
香港が中国化すると、これまでの、外国資本の直接投資は、増えないだろう。コロナ禍の責任はとらないから、中国が国際社会から
孤立する事例が増加し、先進国中心で、第2の天安門経済制裁になるかもしれない。途上国は中国寄りであったが、コロナで、中国が
何かをしてくれるわけでもないから、やはり、宗主国を中心とした従来の国際支援に頼らざるをえないだろう。
中国の咲かせた赤い牡丹の花は、思惑より、早く、途上国でしぼみそうだ。
2020/7/4 コロナ第2波と、インフルエンザ流行期の重なり
再び、東京で感染者の数が増加中である。夜の町の20代~30代で、検査すると、引っかかるらしい。保健所では、一般的に、
従業員には、性病検査が定期的にあるはずだが、今回のコロナ流行で、各店では、経営者、従業員は、PCR検査、簡易検査で、
チェックしているはずであり(?)、客は、実際の濃厚接触でいやしてもらおうといういやらしい目的で来店しているので、
陰性証明書をもって、入店することが一番、望ましい。
これから、夏を迎え、最低授業日数もあり、学生は、夏休みが短い。飲食店等のアルバイトが、急増することはないだろう。
問題は、秋から、インフルエンザの予防接種と、コロナ第2波対策が始まる。再び、「ウイルスをばらまかない」マスク着用が、
10月から、始まる。この冬を、乗り切れば、第2波対策が成功したことになる。
話は別だが、私は、山口県の小都市に引越し、小さな研究室を作り、太陽光パネルとLED照明、エアコンを替え、エコキュウトにし、
コロナ給付金で、費用を足して、母の居間の旧型Nationalエアコンを取り換え、電動自転車を買った。
研究室の前庭は芝生を張った。環境対策で可能なことは、やった。研究者として、自分でできることは、やらないといけない。
そして、今、母親を介護補助している。母はよみがえってしまって、百歳は超えそう。
昨年は、母の血を吸って、生きて来た蚊、夕方の水やりで、10匹以上たかられ、敏捷に飛ぶので、叩き潰すこともできず、
ひとつひとつ、プクッと膨れ上がって、とにかく、かゆかった。水まきは、帽子に防虫ネットを張り、手袋、ソックス、長袖シャツで
でたが、その上から、蚊は刺してくる。
その子孫が、今年、生き延びて、どうなるかなと思うと、私の血を吸って育ったのか、おっとりして、血を吸う前に、叩き潰せる、
飛んでいれば、手でたたける。吸われても、膨れ小さいし、蚊の毒に体が耐性を付けた。おかげで、昨年のような、蚊の攻撃で、
生活するのが嫌になることはない。
京都の観光地に住んでいた時は、15センチぐらいのムカデ、ヤスデが、毎年いて、はじめて刺されたときは、神経毒で、足はパンパンに
はれ上がり、回復するのに、1週間かかった。夏は布団を這い、私の顔を這っていく。対策の薬がよく効くようになって、ふとんで、
毎年くたばっていた。ムカデの耐性は体にできるもので、庭仕事で、小さなムカデの子に刺されることはあるが、第1回目のようなことはない。
コロナウイルスは、インフルエンザの1種になるか、例年の冬で決まる。免疫性が、無症状感染者、感染者に期待できるので、重症になる
年代の人は、引き続き、出かけるときはマスク着用、帰って、手洗い、うがいは必須だろう。私は、母の介護があるから、介護施設の
県外旅行制限が解除されないので、当面動けないが。
2020/7/3 中国の『1国2制度』の破棄と香港の財産権とくに外貨準備4400億ドルの行方
中国の「香港国家安全維持法」の制定で、中国は、香港の国内化に踏み切った。香港市民の民主化運動は、今後も続くだろうが、
香港の国内化により、市民の財産権は、本土並みになるということだ。課税も同様だ。中国の情報管理機関がすでに、金融情報管理に
着手しているから、外資の金融機関の口座情報、香港―外国との取引情報は、気の毒だが、すでに中国政府にパクられている。
たとえば、香港駐在のCIAの中国活動資金口座、取引履歴と送金相手先は、中国政府は知っているということだ。香港市民の資本逃避は、
規制されると考えるのが順当だろう。
香港の外国金融機関は、中国は本気で、香港を国内化することを決定しているのであるから、1国2制度で、メリットがあった分は
国内化で吹き飛んでしまった。ユダヤ系金融機関では、世界で一番、制度変更に敏感だから、先月末、富裕層の個人資産は、すでに、
香港からシンガポールに移管を済ませている。本土―香港―外国金融取引は、本土並みの管理下に入っていると見るのが順当である。
そこで、香港の通貨制度で、ドル資産に無制限に交換できるというドルペッグ制は、本年中には、外貨準備4400億ドルが、香港ドル
資産から、ドル資産、例えば、米債へ交換され、同時に、たとえば、シンガポールに移管される。香港政庁は、ドルペッグ制は停止させる。
代わりに、人民元との通貨バスケット制である。これで、香港の国際金融市場の機能は失われる。毛沢東時代、外貨がえられず
苦労したのだが、本土でも、コロナで、ドル不足に落ち入ており、香港をつぶしても、香港のドル資産が欲しいのか、わからない。
日本は、本土の日系企業は香港経由で資金の出し入れをし、ドルに交換して、ドル資産を保有しているように見られる。
資産課税も低いから、日本へ利益を送金するのは、決算期ぐらいだろう。日本の富裕層は、100億円以上が多くなく、
ここで、資産運用しているわけではない。世界の金持ちからすると小ぶりであろう。
今回、中国政府が1国2制度を破棄した。習政権を中国共産党内部権力闘争で倒すしか、方法はないから、当面、だれも元へ戻せない。
香港の人口は、2017年9月で745万人だから、中間所得層以上400万人は、今後、1~2年で、移住できる対応をした方が、賢明だろう。
日本も日本語が話せる香港市民、特に、日系企業に勤めた経験がある市民を優先して、最大10万人は引き受けられるだろう。
ドルペッグ制は停止の見込みが近い、資本逃避に規制がかかっていない現在、香港政府も規制法を制定できないから、今のうちに、
資産の送金を担保に、2重パスポートの発行をするという措置を緊急に取るべきだ。低所得層は、深圳の生活者と変わりがないだろうから、
もっと、変化が深刻になってから、世界各国が手を差し伸べるまで、香港で生活しても、変わりはないだろう。台湾、英連邦では、
私のようにせこく、資産担保を取るかどうかわからないが、その引受けの声明をしている。習政権は引き返す道はないから、ますます、強硬に
なる。米国による圧力は、金融で、習政権を落とすしか有効な手段はないだろう。あてにはならないが。
多分、逮捕者が100万人を超えれば、ウイグル収容所と同様な収容所にぶち込まれ、「香港人よ、本土では、市民というような集団意識は
禁止されている。香港で徒党を組んで社会運動するのは、あきらめるんだな。」と、教育をとことんされる。
香港市民の抗議運動は、香港を土日、各通りでone brockごと、市民が一列に並び、手をつなぐしかないだろう。
逮捕されず、市民団結を示すのである。
2020/7/2 東西冷戦後、オーストリアの永世中立、朝鮮半島の停戦永続化
東西冷戦は、1989年11月東西ドイツの統合で、1955年以来の戦後処理が終結した。西ドイツのコール首相は、ソ連軍の東ドイツ
引き上げと、統合等のために、110兆円を費やしたと言われる。朝鮮半島で南北に分裂したまま、停戦永続化になってしまった。
韓国は、その統合費用の膨大さのため、南北統一を避けたようだ。北朝鮮は共産主義ではないが、チュチェ(主体)思想をもっていたが、
そのリーダーは、韓国に亡命した。ソビエト全域で、共産思想は放棄されたのであるから、主体思想も同じ運命をたどった。
現在、国際包囲網で、北朝鮮は孤立し、単なる朝鮮民族が、一方は、軍部が武力統一をめざし、他方は、米軍頼みで、対抗する構図は
変わりない。米軍が引けば、軍事的に勝負するしかない世に思われる。軍部とは政治的に交渉できないのが、世界の通例である。
バルト3国まで、ソ連軍の撤退は進み、ポーランドはドイツから、戦後賠償を受けた。バルト3国、チェコ、スロバキア、ハンガリーにも、
同様な賠償を支払ったはずである。オーストリアはドイツに併合されたのであるが、ドイツは賠償を支払わなかったと思う。ルーマニア、
ブルガリアに対して、ナチス軍が占領したなら、賠償はあったかもしれない。
これらは、日本も、戦後処理の一環として、日本軍によって、被害を受けた国に、賠償をしている。現在、最後に残っている国が、
北朝鮮である。
東欧の民主化により、共産党統治が終わったが、バルカン半島に、伝染し、ユーゴスラビア解体は、第1段階、1991年から1995年まで、
コソボ紛争の第2段階が1998年6月終わっている。セルビア人と他の民族との対決が、武力紛争となり、1995年のNATOの空爆および
1998年のEUの空爆が、セルビア勢力を和平のテーブルにつかせたことになっている。
この空爆方法が、中東でも、IS国掃討、シリア内戦、南イエメンで、もちいられている。中東の文明は、石造りで、過去の遺物は、
跡形もなく、消滅している。これらの地にその時代の文明をもたらすと、神のご加護はなく、建造物はすべて破壊される運命に
あるようだ。ダマスカス、バグダッド、テヘラン、リヤドがそうならないのは、破壊を防ぐ、それなりの知恵が市民に備わっている
のだろう。それほど、中東では、都市を維持するのは至難の業というしかない。
さて、東欧の民主化およびユーゴスラビア解体後、独立した諸国は、戦後復興のマーシャル・プランが、もともと、EU側に、
あったかどうかは、調べないと分らない。しかし、IMFとECの金融財政の支援がないと、独立したとはいえ、国政は混乱しただろう。
1994年家族3人で、フランクフルトから、インターラーケンまで夏季休暇を過ごした。その後、インドアーメダバード、ニューデリーに
行っている。ラジブガンジー首相暗殺から、インドに行くようになったが、ラオ首相とシン蔵相のかじ取りがよかったのか、
インドは安定した。
ユーゴ紛争中、やはり、紛争は、バルカン半島を不安定にする。第一次世界大戦の期掛となった、オーストリア皇太子が
暗殺されたのは、バルカン半島だ。泥沼になると、オーストリアの南部は、難民が押し寄せ、戦争で不安定化する。ヨーロッパに
住んでいるどの国民も、そう連想するだろう。私が、東欧旅行で、べオグラードに行っているので、戦争はやめてほしかった。
NATO空爆は、1995年9月、私が、ウラジオストックで、小学校の女教師にロシア語を教えてもらっている時だった。セルビア人と
いうのは、ロシア人と同じスラブ系である。連邦内は、セルビア人が、力で統治していたのか、平和的に、連邦から離脱は
セルビア勢力にとって、許されなかったのだろう。ロシアがプーチン時代であれば、ダマスカス政府を援護するように、
空爆はできなかっただろう。
この結果、accord over troubled boundaries が成立した。しかし、There
remains hate stronger than love among them.
東欧の民主化で、オーストリアはスイスと違って、永世中立とともに、1995年にEUに加盟した。占領軍から、条件付きで独立した
のであるから、東欧、ユーゴスラビアの共産党統治が終わり、これらの国々も、戦後が終結し、オーストリア国民も、永世中立も、
どういう政策手段で、その理念が守れるのか、政治力か、経済力か、隣国との連帯経験か、経験不足なので、国民も永世中立は荷が
重いのだろう。
私は、西ドイツ留学までは、オーストリア基点で活動するつもりだったが、グラーツの家族は、皆独立し、私も、帰国後、
助教授になれたし、1988年夏、トルコ、バルト3国結局デンマークから、帰国して、バルト3国は残念だったが東欧の研究旅行は
終わった。1988年秋、婚活に入り、結婚を決めた。昭和天皇が亡くなって、1989年5月結婚した。
そして、1989年秋、ベルリンのブランデンブルク門は解放された。ブランデンブルク協奏曲があるが、大阪万博で、ドイツ館で、
ちょうど流しているのを2人で聞いた。帰りたいと聞いたら、うなずいた。
この春(2020年)から、家周辺の害音が、私の過去を流すのだが、写真はないし、手紙は処分したし、私にとっては、過去の人である。
ホーム・ぺージがあるから、最近家族を調べると、1986年、母親からの手紙(処分はしていない)に書いてある通りだった。
害音は、脚色して、話しかけるので、よく考えられるものだと感心する。これに反応するのを待っているのだ。
3人兄姉妹もおじいさん、おばあさんになり、私と同じように、それぞれの人生をふりかえっているかもしれない。オーストリアの
永世中立が、今後どうなるか、日本の平和憲法と同じことだが、ともに、占領軍から認められた理念である。日本は、国境はすべて、
海であり、オーストリアは、すべて陸である。ともに、間違った戦争は、今後もする気はないだろう。陸の国境の方が、守りにくい。
東欧の民主化とユーゴスラビア解体で、国境の圧力は、はるかに軽減されただろう。
2020/6/30 社会主義から、公共価値のもとでの個人価値
コロナ禍で、日本における流行の見通しと政府・地方自治体の対策、市民の心がけが決まった段階で、この清浄心静観の
始まりから、現在まで回顧録として書いて来た。
ヨ―ロッパで、東西冷戦は1989年終結し、1993年、欧州連合条約によって、欧州連合(European Union)が設立された。1999年に
通貨統合が実現した。他方、1993年ソビエト連邦は解体された。EUは、キリスト教的価値が個人主義による価値を反映し、
キリスト教の「汝の隣人を愛せ」が、多国間価値、とくに、それを体現した価値として、公共価値を形成している。私の、
「個別的愛と広義の愛が原理的には同一である」という意味に近い。したがって、各国の社会主義は、内容は同一ではない。
それが、1993年まで、バラバラに、各国の理念であり、政権を取った場合は、指導原理だった。
EUを結成し、EU共通政策が、各公共部門、民間部門で。実施されるようになると、EU構成員は、共通公共価値のもとでの
個人価値の最適化を図れるようになる。これは、理論であり、現実を反映したものではないが、私の活動を記録した論文から、
こういう内容を反映するようになってきた。私の原点に至る悩みを1981年4月から、12月までを、ふたたび、振り返ると、東西冷戦が
終結すれば、日本の学界、官界、政界で、共産主義、社会主義の指導原理は影響力が落ちる見通しがあった。宗主国がヨーロッパ
であった途上国では、政治指導者は、ヨーロッパに留学するし、ヨーロッパの共産主義統治、社会主義政党による指導を学んで、
本国に持ち帰る。その意味で、EUの出現は、ASEANにとって、従来の対応で済ませられるのか、問題だったと思う。ASEAN が、
EUに対応して、ASEAN経済共同体を結成するのは、従来の対応で済ませられないのだろう。
確かに、東欧では、共産党統治は放棄されたが、社会主義政党指導に代わっただけである。西側は、社会主義政党による指導が
崩壊したわけではない。したがって、統合効果なるものが期待できない。
Frau Hanna Riehl
から、受け取ったO. Spannに、社会問題には、Individualism versus Unversalismがあるという。彼女も、ベネチアで、
なんか書いてくれと、メモ帳を渡すと、ひとびとは、思い思いに、Individualismで暮らしていると書いた。ザルツブルグの
ユースホステルで、中国人の若い人や、スウェーデン人の若い女性に聞くと、これは詩ではない、見たままを書いたrealだ。
ただし、Individualismだけは、語感が明らかに違うので、印象に残った。日本では、フランス人は個人主義だから・・・
ということをよく聞いた。それで、彼女からなにか影響があったとすれば、Individualismである。
キリスト教的価値が個人主義による価値を反映し、キリスト教の「汝の隣人を愛せ」が、多国間価値、ないし公共価値を形成する
ようになれば、個人主義的価値は資本主義を求めるし、どんぶり勘定的、一つの大釜的に参加する社会主義は、公共価値形成に
限定される。その分、個人価値が増大する。それを、EU構成員が求めているかどうかは、分からないが。
清浄心の原点は、1981年、10月6日サダトエジプト大統領が、軍の親衛隊に入り込んだイスラム過激派によって、暗殺されたことが
きっかけである。テレビの映像は衝撃的なものであった。エジプトは、イスラエルと和平を結んでいた。パレスチナは、エジプトから
距離を置かれ、イラク・イラン戦争中でもあり、サウジアラビアは、ホメイニ革命が脅威であった。
その当時、英字新聞、朝日新聞、日本経済新聞を1時間以上かけて読み、現実の日本、世界の政治経済に関心を移していたから、
サダト大統領暗殺は、中東情勢を混沌に落としいれるリスクが高まると思ったのだろう。
ちなみに、このことを書いたのは、紛争時代1969年高野悦子の日記『二十歳の原点』の「原点」を使って、2001年9月11日、
ニューヨークのツインタワーに旅客機が突っ込む実況をNHKで見た(日本語が入っている音声記録があれば、私のテレパシーである)。
実は、その日の朝、広島の原爆記念碑にゼミ旅行の学生と折り鶴を作って供えた。おたふくソースの工場見学をして、帰宅したら、
実況中継していた。2棟目に、旅客機が突入するが見えた。「あ~あ!」以後、ニューヨークでは、ground zeroというが、
これは、原爆の爆心地のことを意味する。
また、元に戻ると、1981年秋、私は、授業を粛々としていた。本岡学部長が、帰りのバスで、一緒になり、駅で待っていると
「経済学の論文も、Priorityがあるのか。」といわれた。これは、私の秘匿事項だったが、JETのレフェリーの返事がまだだった。
「ばれているのか」と内心動揺した。論文のvon Neumann=Morgenstern Utilityは、意思決定を決める評価関数なので、多人数で
構成する市場システムに導入すると、均衡解が決まる、主体の行動を決定する核心なのである。
本岡学部長は、京都大学の農学部教授を退官され、私の面接試験で、主査で、国際金融論の松村教授と財政学の岸教授が副査だった。
これまでの大学院での就活の経過と、対抗馬に大学院の仲間をぶっつけられていると話すと、パージ(purge)だろうと言われた。
やっとこ、神戸大学大学院を退学したら、3月から、いつも見慣れているのと違って、通行人がおかしい。4月に入ると、付き
まとわれている感じがした。おまけに、バスに、12月の見合いの女性に似た人まで乗っているように見えた。なんか、総羽交い絞め
されている気がした。こっちは、授業は始まるし、その受けを用意していない。学生のレベルが分からないし、授業準備もできない。
4月16日ごろ、食事もとらず、私は、内省状態に入り、これまで、罪深いことばかりしてきたかなと懺悔しだしたが、歯医者で歯を
掃除してもらおうか、と松村先生が、歯をニッとされて、掃除しなさいよという注意だったかと、思い出し、部屋も掃除し、洗濯の
洗い場をたわしで磨きだした。たばこをやめたし、清浄好きの階梯をのぼり始めた。その途中、家庭教師の奥さんが父母に連絡を取り
、突然来た。父は、あきれて、私も、いるはずのない人がいるので、「どなたですか」と聞くと、父は、びっくりした表情だった。
私も、びっくりしたが、現実に、引き戻された。寺に入りたいと父に言ったが。
サダト大統領暗殺以降、本岡学部長との話で、再び、混乱に陥った。しかし、今回は、大学に行けなくなったが、マンションで
籠ったので、春のことを想いだして、そのプロセスを始めた。1週間後、私ができることは何なのかという方向で、最終段階に至った。
私の心の中に、大きな愛があり、それが呼びかけてくるような、痛みを感じて、南を助けるのが自分に課せられた義務であり、
そのために、自分の力を使いなさい、行動しなさいという使命が生まれた。
私の与えられた使命に気づいたころ、同僚3人、訪ねてきて、大学に出勤するように勧められ、学務、教務に再び復帰した。
春休みになり、南北問題、東西問題のための行動を考え、1982年から、1971年第1回目と同じように、再び、横浜、ナホトカ、
ハバロフスク、イルクーツク、モスクワに行った。それから、バクーからトビリシ、レニングラードから、ケルンの語学研修の
家族を訪問、ウイーンを経て、グラーツの家族を訪問した。母親とは、研究上の基本的考えで、イタリアのベネチア、
アッピア街道の終点Brindisi(ペテロ上陸地)をめざし、その後、ナポリ経由でローマに着き、バチカンを訪ねた。バチカンに
伝わるわけもないが、東西冷戦の終結の第1歩は、カソリック教会の認知である。次は、ECに、私の活動が始まることの
認知して欲しかった。東側に入って、「鉄のカーテン」で、私が見えなくなるので、ECに敵対行動を取るのではないということである。
あくまで、個人的活動なので、どこかの官権で引っかかるかもしれない。冷戦の秩序は、完全に保たれている時代である。
本岡教授は、その後、イスラエルの学界出張中、倒れられ、亡くなった。エルサレムが気になった原因でもある。私は、西ドイツの
客員研究用の研究室で、誕生教会の図面をコピーして張っていたが、やはり、エルサレムに行ってしまった。なにか、働きかけるものが
あったのだろう。
2020/6/28 東アジアの経済成長2000年~
2000年中国がWTOに加盟してから、中国経済は高度成長時代に入り、習体制に入り、減速していった。トランプ大統領との
貿易戦争で、対米貿易は、減少している。温暖化ガスについては、中国は、パリ協定で、削減義務を負うことを約束している点は
トランプ大統領よりは評価できるが。
中国経済が減速下にあって、市場を西方に求めて、一帯一路商圏創出に入っている。準備不足もあるが、今回の全大中では、
言及がなかったと言われている。
ASEAN諸国は、すでに、ASEAN経済共同体が加盟10カ国で、2015年に発足し、EC経済共同体のような道を歩みだした。
ASEAN経済共同体が、道路のインフラを整備し、アジアの農業生産様式を改革し、メコン川、チャオプラヤ川、エーヤワディ川の
流域の圃場整備事業を進めつつ、米作を中心とした農業生産をあげ、関連する製造業を立ち上げ、港湾を整備し、農産物・製造物輸出と
製造物・資本財輸入を増加させる。その間の貿易金融をバーツ基軸通貨にして、相場のヘビを管理するASEAN中央銀行を準備する。
日本の立ち位置は、次第に、ASEAN経済共同体に寄り添う形をとるだろう。将来的には、すでに、TPPは発効しているので、
ASEAN+日本+オセアニア経済共同体になるだろう。日本企業が、ASEAN経済共同体に、米中貿易戦争および中国商圏形成に
対抗する日本政府の外交方針があり、中国離れが加速している。さらに、香港の行方によっては、日本資本は香港から引き上げ、
香港ドルは中国元となるので、為替リスクは高まる。日本はこの地域に直接投資を増加させている。バーツと円でリンク決済になれば、
為替リスクも軽減できる。
ASEAN経済共同体に、各国の株式会社が増加すれば、証券取引所が統合され、域外からの資本も流入しやすくなる。株式会社の
公正価値も公認会計士が監査し、投資家への情報開示も、適切に行われる。ベトナム、ラオスは共産党主導の経済ではあるが、
経済共同体になれば、民間の経済活動を規制することはないだろう。いずれ、南アジアも、経済共同体に加盟してもらって、
各国の株式会社が相互に直接投資をすれば、現在のインドのハンドメイド的な生産様式から、現代的機械生産様式に転換され、
インド製品が輸出できるようになる。
東西冷戦が終わり、10年かけて、EUを結成し、共通通貨ユーロを発行するようになったが、東欧と南欧は、中欧との南北問題が、
いまだに、残っているようだ。その原因は、社会主義政党が、選挙で勝利するので、株式会社が、開業する率が低くいためだろう。
日本では、東西冷戦後、1995年日本社会党が消滅した。日本共産党の勢いも止まった。
社会主義、共産主義という、イデオロギー政党が、沈んでしまった。しかし、ヨーロッパでは、フランスで社会党が健在、
ドイツでもSPDが健在である。北欧は社民党が政権を担う。東欧は、共産党は凋落したかもしれないが、社会主義政党は健在である。
その結果、経済成長より、所得の再分配に熱心であるから、資本主義経済が発達しない。ちなみに、オーストリアは、第1次
世界大戦後、社会主義政党が共和国にしてしまった。ヒットラーの国家社会主義とカブってしまっているから、併合されても、
違和感が数ないのだろう。つまり、資本主義はオーストリアでは、育たないから、シュンペーターは、米国に移住した。
ヒットラーはアーリア人優越性を唱える民族主義者だから、ユダヤ人やハンガリー人は優秀な人ほど、米国に脱出する。
つまり、資本主義は育たない国なのだ。創意工夫の技術進歩で、国民生活を豊かにしようとする、革新的人材が開発利益を
独占できる、ユダヤ人的アイデアマンは、報われることはない。
東欧民主化が起きても、東欧民主化の経済効果は、あったのか、なかったのか実証する必要がある。民主主義と言っても、政党によって、
経済に対する考えが違うので、経済成長は止まる可能性もある。今の中国がそうであるし、ロシアがそうである。インドも社会主義である。
ASEAN経済共同体では、宗教的相違は大きいが、西欧の社会主義的政治はなじまない。ASEAN10カ国は、競争的な経済である。
ASEANは、人口の巨大なインド、中国に挟まれて、隷属することなく、独自性を発揮していかざるを得ないだろう。
民主主義でないのは、中国であり、指導部がイデオロギーを優先すれば、もう中国の成長はないだろう。インドは、民主主義だが
経済は、低生産性の農業、家内制手工業の選挙民の票を充てにする政治家が多いいから、成長は期待できないときもある。
私の直接民主主義は、公共政策に個人評価を入れて、満場一致で決まる政策を実施するという市場的公共理論で、
アダム・スミスの小さな政府を直接民主主義で、実現したものである。満場一致でないのが、通常の決議であるから
理論的に満場一致を作って、多数決の場合の優越性を金銭評価しようとするものである。
東欧民主化の経済効果は、あったのか、なかったのか実証するのも、東欧が社会主義政党を選んだならば
ハンガリーの首相が言うように、共産党支配と変わりないという主張になるからである。
私が、東西冷戦問題にかかわって、終結は、日本の政治や学界、官界には大きな影響を与えた。戦後の知識人は
共産主義、社会主義を標榜していた。私の出る幕はない。東西冷戦が終結し、日本国民にイデオロギーが消え去った。
しかし、オーストリアではつい最近まで、社会主義政党が国を指導してきた。一人当たり国民所得は、それでも
ドルベースで、日本より上である。日本は、平和憲法下にあり、私の海外での行動も、平和原則に縛られる。
同様に、オーストリアもドイツ併合禁止、永世中立を選び、領土は最小限に縮小した。優秀な人財は
米国に移住した。日本も例がないわけではないが、帰国している。優秀でも、日本の生活の方がいいのだろう。
東欧の民主化が、オーストリアにとって、プラスの効果があったようには、思えない。東欧諸国にとって
ソ連に逆占領された40年間が、元に戻り、占領時代が終わったのだ。ちょうどそれは、日本でいう
沖縄が米国から返還された1972年と同じことだ。だからといって、沖縄が資本主義経済になったわけではない。
2020/6/27 東アジア諸国の研究
2000年~2018年
オーストラリアから、帰国し、3年間、海外旅行は自粛した。その間、1997年7月、アメリカ短期資金が、ソロス・ファンドに
乗って、東南アジアから流出、IMFによる、東南アジア経済とそれぞれの財政・金融政策に強力なストレスをかけて来た。日本は、
チェンマイ・イニシアチブで、域内の流動性を安定化させる仕組みを作ろうとしたが、IMFにより、つぶされた。このあたりの事情は、
日本金融学会で、報告や日本の元IMFスタッフなどのパネル・ディスカッションで、理解した。東アジアの南問題に、貿易金融と
国内金融の流動性危機を招かない、東アジア通貨融通制度が必要であることが、理解できた。
一方、1997年、秋から、日本は金融システムに、金融恐慌のリスクが最大になり、海外に行けるどころではなかった。
インドではマリア・テレ-ジャ師が亡くなり、ダイアナ妃が亡くなり、この当時の女性の流行カラーは黒だった。行き過ぎて、
黒服に合わせて、赤黒の口紅までつける人が出て来た。これから、一生懸命、春、秋の日本金融学会に参加した。
1995年から、大学でもウインドウズ95が導入され、ウラジオストックの工学部の学生にも、「これからは、インターネットの
時代だ」と話したぐらいで、私も、大学に帰って、研究はウインドウズ95に切り替えた。そして、1999年「ようこそ西村和志
ゼミナールへ」のホームページを、大学の教員ホームページに開設した。日本も、その影響が行渡り、ITブームになっていたが、
アメリカでは過剰投資してたが、2000年に入ると、アメリカのITバブルの崩壊が追加され、日本実物経済に重大な影響が出て来た。
福井日銀総裁が就任し、金融庁も発足し、2003年まで、大手銀行12行は、メガバンク3行に集約、公的資金も資本注入され、
不良債権の山は、3分の1に、減った。日本の金融システムが再出発しだしたころ、また、アメリカの銀行システムと通じて、不動産証券化
ディリバティブが世界にばらまかれた。米軍がイラクから引き、イラク戦費調達のため金融和緩和していたFRBが、手じまいした。
リーマン・ショックが発生した。ふたたび、日本の実体経済に深刻な影響を与えた。
全く、米国は軍事行動を伴う活動で、終結すれば、自国経済に深刻な帰り血を浴びて、ひどい目にあっているのだが、いい加減、
賢くならないと、実力行使のたびに、米国経済の世界的影響力が後退している。これは、1800年代のヨーロッパにおいて、
戦争だらけの帝国主義で、第1次、第2次世界大戦をやらかして、栄光のヨーロッパは輝きを失ったのによく似ている。
パックス・アメリカーナは、現在、コロナとともに終焉し、ロックンロール、ジーンズ、コカ・コーラという、安っぽい若者文化も
すでに、すたれてしまっているが、世界経済の牽引国には、なれないだろう。
ケインズに「“warm heart and
cool head”という言葉があるが、“kind mind and wise head”にならないと、
現代アメリカは混迷するばかりだ。
南問題は、1980年代に、東西冷戦問題の合間に、調査旅行をしたおかげで、1990年代になり、中国からインドまでカバーする
地域で、経済発展を呼び込み、国内でも、ゼミ旅行で、練習していた。つまり、国のハイウエー、明石大橋、しまなみ海道橋、
ダム、港湾、空港とセットで、各県、市が製造業の工業団地を建設、投資資金分、税を減免し、企業群が操業するというセットで、
地域経済を発展させるという流れである。
1993年、天安門事件のあおりで、欧米の直接投資が減少、中国経済の発展計画に支障が出るようになり、鄧小平指導部は、
共産体制にもかかわらず、株式会社に、企業を西側に合わせた。中国は、資本主義の組織を受け入れた。それによって、
中国では、株式会社設立がブームとなり、国内外から、資金が企業に流入するようになった。
現在の中国経済が世界第2位のGDPをたたきだすのは、これが原因である。南問題の一つの出口は、株式会社を、企業部門に
導入することである。世界経済史で、中国の成功は、資本主義の組織を国内で制度化したことで生じた。
国営企業が開発途上国では多いが、非効率な運営で赤字垂れ流し、対外的にわいろを要求、企業内には、ゴーン前会長のように
利益の着服が横行する。資本主義経済は、基本的には、取引所が企業成績、価値を精査し、公正に、市場が決める。国家が
企業価値を決めることはない 。
中国の経験から、南問題においては、社会主義的開発途上国に、株式会社と証券取引所を、設立を支援する。世界各国の
「思惑・ひも付き」援助は、国土計画か、メコン川流域開発計画に合わせてもらい、地方自治体が企業を誘致する
工業団地を建設し、証券取引所に、世界の投資家の民間資金を流入しやすくする。
2000年に入って、ASEANに大きな影響を与えたのは、宗主国がEUを結成したことだ。それで、ASEANにも、EUと同様な、
United ASEANの機運が生まれた。東西冷戦の帰結から、ロシアから離脱した東欧諸国がECに加盟すると、組織改革が必要になった。
EUが結束すると、対外影響力も強くなるから、ASEANにも、その影響が強くなる。あのオーストリア人の兄が、モンゴル来襲時、
死守した城を見せたのは、黄色人種に歴史的に強い懸念をもつ人々がいるということを伝えたかったのだろうと直感的に受取った。
確かに、ヴィルヘルムⅡ世は、ドイツにはアジア人ははるかに少ないにもかかわらず、黄禍論を唱えた。実際は、戦争ごとに、
焼け太りするユダヤ人に、反感をもつ一般市民も増える。ユダヤ人に、国家がないので、生命財産は、ユダヤ人教会で、
連帯、団結し、リスクの高い国から、資本を逃避するのは、経済合理的行動であるが、餓死寸前の市民にとって、ユダヤ商人が
まだまだ、インフレは続くと見込み、売り惜しみをするから、テンション高くなる市民が恨み抱く。市民が「いつかやっつける」
となるのも、当然の成り行きだ。実際、アウシュビッツで、ユダヤ人600万人虐殺された。市民の協力でユダヤ人が送り込まれた。
東南アジアの人々で、植民地になった国は、宗主国に出稼ぎする人が多い。EUに統合されれば、ふたたび、形を変えて、
圧力をかけて、来るだろう。宗主国で働けば、感覚的に、白人優越感をもっていると分かる。私が東西冷戦終結の結果、
EU統合に向かい、その力が、東アジアに向かう懸念は否定できなかった。
それで、中国、ASEAN、インドの実態を把握し、東アジアの経済発展段階をあげること、ASEANの経済結合レベルを
上げることをめざすことを着実に実行していくことである。日本ができることは、インフラに援助、企業の直接投資ができる。
国際貿易では、東アジアは、中国、韓国、台湾、香港を含んだ、多国間Free
Tradeは、できていないが、アメリカ抜きの
Trans-Pacific Partnershipは11か国で発効している。
国際金融面では、中央銀行間で、チェンマイ・イニシアチブが発展している。
以上が2020年までの、東アジアの状況であるが、すべてが、つながる、United Asian Nationsへの歴史的流れと、その必要性は、
落ち目の米国と英国が影響力を低下させ、EUはアラブ諸国にふりまわされているので、東アジアまで、
強い影響力を出す余力はない。
この一連の清浄心静観の機縁と、東西冷戦を終え、南北問題が、いまだに、私の使命であり、その後の問題を加えつつ、
まだ、その任務から逃れられないのだと、内省した。
1997年、京都議定書が批准され、その年の秋、京都会館に、日米関係のシンポジウムに参加状が来て、出席した。鶴見俊輔氏の
講演が印象に残っている。東西冷戦問題に1980年代、資金と時間と、命がけで、活動をして、冷戦終結という結果が出て、
日本のマルキストの首を取っている状況の中で、なんで、天敵である自由主義・資本主義・直接民主主義者である私に、
参加状が来たのか、よくわからない。京都精華大学の行事だったように、思い出した。
私としては、世界史を具体的に変える京都議定書の取りまとめ国際会議が、京都国際会館で、開催されるから、参加したのだろう。
実際、2003年から、大学の特色ある教育プロジェクトに応募して、京都議定書にしたがった地球温暖ガスを具体的に削減する
方法をゼミで研究しだした。東アジアの南問題は、環境対策を加えることになる。
On the Collaboration of the Mekong River
Basin(2000)
On the Railway Projects of the Mekong River
Basin (2001)
On the East Asian Bonds Market(2010)
On the Hong Kong Financial Markets(2004), and
Shanghai Financial Markets(2005)
On the ASEAN Monetary System toward ASEAN
Economic and Monetary Union, (2010)
On ADB(2015)
On Trans-Pacific Partnership(2011)
というテーマで、アジア経済研究所で、文献を確認した後、研究旅行に出発した。
2000年から、United Asian Nationsに関する研究課題と訪問国は、次の通りである。
Overseas research activities(2000/3~2018/3/5)
2018/3/5~3/8 On economic affairs and fragility of
national land Dhaka, Bangladesh
2017/3/3~3/8 On economic affairs, Yangon,
Myanmar
2016/2/22~2/26 On economic affairs, Seoul Korea
2015/3/23~3/27 On ADB and special industrial district, Manila, Olongapo, Philippines
2014/8/23~8/25On my Chinese graduates’ courses survey, Wuxi, Shanghai, China
2014/3/14~17 ECO-PRODUCTS INTERNATIONAL FAIR 2014 Taipei, Taiwan
2013/8/28~30 On EU's economy taking off and Mega-cities energy conservation London,UK,
2013/8/30~9/5 Paris, France
2011/2/18~22 On Trans-Pacific Partnership, Hawai'i's Big Island and O'ahu,
U.S.A
2010/3/11~3/18 On the ASEAN Monetary System toward ASEAN Economic and
Monetary Union, Hanoi, T. P. H`ô Chí Minh, Vietnam,
Phnom Penh,
Cambodia
2008/9/1~9/7 On the Railway Projects of the Mekong River Basin,
On the East Asian Bonds Market, Chiang Mai
University, Bangkok, Thailand
2006/2/24~3/3 On the Pension System and the Green
Tax in Sweden Stockholm University, Sweden
On the Mineral Resources in Norway, Oslo University
in Norway
2005/3/13~3/16 On Shanghai Financial Markets, Shanghai, China
2004/8/23~8/27 On Hong Kong Financial Markets, Hong Kong
2001/7/21~8/22 Regent's College, London, United
Kingdom Reid Hall, Regent's College(7/22~8/20)
2001/3/16~3/21 On the Collaboration of the Mekong River Basin, Vientiane,
Luang Phabang and Namgum Dam, Lao PDR
2000/3/25~3/28 On the Collaboration
of the Mekong River Basin, T. P. H`ô Chí Minh and My~ Tho, Vietnam
2020/6/25 オーストラリア農業と国際農産物市場 1997年8月3日~9月18日
海外短期留学の順番が、1996年に回ってきて、南クインーズランド大学経済学部に、書類を書き、1ヵ月半の予定で、
短期留学を申し込んだ。主要な問題は、
1.日本のコメ生産の特徴と、日本の高齢化 2.日豪農産物関税交渉における将来
もう一つは、博士論文の準備であった。1987年「多計画期間をもつ貨幣経済における一時的一般均衡」によって、
金融論をスタートできた。
学部では、金融論講義ノートを毎年、改訂して、学生に購入させた。その内容は、第Ⅰ部基礎編でSNAによって金融構造を俯瞰する、
第Ⅱ部ミクロ編、第Ⅲ部マクロ編であり、パテインキン『貨幣・利子および価格』貞木展生訳、勁草書房、1971年の第1部微視経済学、
第2部巨視的経済学を踏襲していた。この教室の秋からのテキストがその内容である。1989年当時は、内容はひどく、枚数が少ない
コピー印刷だったが、毎年、テキストは、先生であり、自分が唯一の弟子であり、自分のテキストを勉強、研究を続けて来た。
2000年に『金融論講義』を出版した。これは、500部だけで、国会図書館に2部届けた。次は、2005年に『金融論』を出版した。
1200部で、あと少し残っている。
博士論文の研究の流れは、Grandmond と同じモデルの設定だが、ハーバード大学のJ.R.Greenが書いた通常のDebreuの
一般均衡理論を2期間にした、“Temporary general equilibrium in sequential trading model with spot and
futurestransactions,”
Econometrica 41 (1973)を、多期間先物市場にした(1988年、1990年、1993年、1995年)。Greenのモデルは、先物契約はあるが、
貨幣は入っていない。 帰国後、分断化された先物市場をもつ、生産経済における一時的競争均衡“Temporary Competitive Equilibrium
with Forward Markets Segmentation、”Otemon Economic Studies,
No.31,1998年を書いた。経済学部の先輩がこれは大作だという評価を
もらったおかげで、教授になれた。
博士論文については、神戸大学経済学部で、地震後、日本金融学会に入会依頼で、後輩と話したら、「数学はだめですよ。」
と念押しされた。数理経済学の内容だし、後で、調べると1987年3月の論文発表後、神戸大学に1989年頃Grandmontを招いている。
これは、数理経済学ご担当の置塩先生では、通らないということだろう。神戸大学の研究助成課からも、論文博士の審査要項を
送ってもらった。そのうち、その後輩は、自分の博士論文の原稿をパラパラと見せてくれたが、それは蹴られたそうだ。
以降、博士論文なのだが、日本では、数理経済学の伝統はない。私が取っている方法では、すでに証明されたことは事実として
用いるので、はじめから、証明はしない。しかし、私は、一人なので、1から、証明を再考した。模索過程の安定性の吉沢常微分方程式、
伊藤の確率微分方程式もそうである。それで、2015年まで、かかってしまった。ここまで、とことんやる人は、金融論で、
日本にはいない。ただし、証明が正しいか、誤っているかは、記録されているので、私の頭脳の到達記録にはなる。
これが、論理・統計的実証主義(Logical
and Statistical Positivisum)にもとづく実証経済学(Positive Economics)がもっている
普遍性の強みである。
南クインーズランド大学経済学部に留学し、多分、1のテーマで、留学が終われば、研究発表をするだろうと思い、農業総合研究所
の図書館で資料を用意し、埼玉県農業機械化研究所を、出発前に、疑問点を所員の人と面談して、最近の農業機械の傾向を
教えてもらった。昔の日本は、二毛作、二期作で、一年2回勝負していた。米と小麦の二毛作は機械を調整しないと、収穫できないそうだ。
南クインーズランド大学経済学部に留学すると、学部長と農業経済の先生2人に、お世話になった。こっちも、英会話を練習
しているので、コミュニケーションができ、西ドイツのようなことにはならなかった。
東南アジアからの留学生と、韓国からの留学生と、夕食が一緒になり、よく話をした。農業経済の先生は、農業展示会に連れて
行ってくれた。トラクターも大きい。ブロッコリーの収穫を見学し、家庭用の冷蔵庫の製氷が落ちてくる製氷機を見せてくれた。
畑は700ヘクタール。ブロッコリーは輸出用である。牛のとさつ場も見せてくれた。
衛星画像から、成長状態を判定するとか、農業経営もパソコンが使われ、各農業製品輸出業界があり、国際市場動向にしたがって、
輸出されるようだ。現在、「甘ちゃん」いちごが生産されたら、いちご輸出協会が、農家の輸出業務委託を受け、福岡空港の貨物便に、
国際相場で、香港に1トン、バンコックに3トン輸出するというような仕組みのようだった。
日本で言えば、北海道が、国内相場に応じて出荷し、冷凍倉庫に遠洋漁業で捕獲した魚を、冷凍貯蔵し、それを定額で
卸すようなことである。いわゆる、冷凍、保冷で、供給量を生産者がコントロールできるならば、食品は寡占価格を維持できる。
父がお盆以降、調子を崩していたようで、8月22日、父が亡くなった。大学から連絡があり、すぐ、帰国し、家に帰ると父は、
棺に寝ていた。7日後、南クインズランド大学にもどって、 1.日本のコメ生産の特徴と、日本の高齢化、2.日豪農産物関税交渉
における将来を、まとめて、経済学部の先生にセミナー報告した。日本の農業は、政治的に影響力があり、コメの保護主義は、
今後も続くが、やがて、零細田んぼは集約され、高齢者では、維持できなくなるだろうという見通しは、支持された。そして、
最後に、父のことで配慮をいただいたことに感謝し、今回の研究から、オーストラリアの国際商業農業システムに、日本農業は負けた、
日本の消費者のため、今後、狂牛病の対策をとり、遺伝子組み換え作物について、日本市場にできれば輸出してほしくなく、
食品の安全性を重視して欲しいというのが、私の結論だった。
2020/6/24 インド農業と灌漑施設 1996年2月
地震の影響も、落ち着き始め、震災者向けの仮設住宅が、テニスコート、明石城内のテニスコートなどに立てられた。
都市化しているので、空き地が確保できない。家は、借家だが、家主は台湾人で、なんかまずいなと思いつつ、日本の
不動産市況に影響がでないかなとも。バブル後で、地価は急激に下がったが。
西方向は、遮蔽物がなく、もともと台地なので、大陸のように、夕日が水平線上に沈んでいく。西に開放感があって、
気分がよかった。しかし、被災者のため高層の県営住宅が、家から、西方向のJR線に沿った空き地に、建設される。
家族もできたし、山口県か、九州北部に帰るつもりで、九州経済調査会の会員になっていた。ときどき、帰省のたびに、
九州経済調査会に、九州・山口の研究資料を集めにいった。それで、やはり、九州は農業がメインかなと思いつつ、
開発途上国の南問題は、農業だろうと考えるようになった。
20坪の休耕田を借りて、耕し、天気予報(これが一番基本情報だが)を見つつ、種まきした。もちろん、有機農法である。
近所の農家は、ビニールハウスで小松菜の連作だった。地震のあったとき、春の種まきのため、畝づくりを終わっていたが、
地震の影響で、地面がずれた方向に、すじが入っていた。さらに、奇妙なことに、無数の直径1センチの穴が、畑の畝にできていた。
明石は隆起して、台地である。海上に、かつて、赤い石があって、それで、あかしの地名が付いた。その赤い石は、海中に
沈んだという。ダイブして、証拠を発見した人はいない。地下は花崗岩だから、すれるとマイクロ波が発生、私の畑は、ミミズが
入っているので、電子レンジで蒸し焼きになるようなものだから、ミミズどもが「たまらんなぁあ」と外へ出たのかと思った。
数年、小作を続けると、近郊農業の実態が分かるようになる。
私は、日本の農業も文献を読みだし、東京の農業総合研究所図書館(2001年改組、農林水産政策研究所)に出張で通った。
ウルグアイラウンドに関連して、日本の農業市場開放問題を考えるようになった。特に高関税であるのは、米であり、カリフォルニアや
オーストラリアのジャポニカ種と生産者価格で、6分の1の違いがあるだろう。日本は政策価格が標準となるから、金融行政と同じで、
限界生産者をその価格で支える護送船団方式をとっている。
日本の貿易問題で、日本の工業製品への関税と日本産の農産物の高関税を引き下げることが、抱き合わせとなり、通商交渉で
いつもネックになる。現在、広域、多国間FTPである、環太平洋パートナーシップTPPを結んでいるが、農産物は高関税である。
米作で考えれば、アジアの米作も、労働集約的である。灌漑施設は、開発途上国ほど、投資不足である。日本は、農家当たりの
農地は零細である。機械化を図り、兼業収入で、採算を取っている。
開発途上国では、農業労働を他産業に開放し、製造業、サービス業に、労働力を移動させなければ、経済発展は低迷する。
農地は、大規模農家所有になり、農業機械に投資するようになる。その農地を不在地主が所有している場合は、農業労働が
離村するので、経営に行き詰まり、大規模農家に売却する。
1996年2月再び、インド、グジャラート大学経営学部ゴパルクリシュナ学部長を訪ねた。先生に、研究のことを話し、インド農業研究所
の紹介状を書いてもらった。アーメダバードから、列車に乗って、別の駅で降り、リキシャに乗ると、警官が運転手の助手席に乗り、
目的の研究所に着いた。紹介状を見せると、所長に面談でできて、こちらが用意した質問に答えてもらった。灌漑のために、
大きな貯水池があるのだそうで、やはり、乾燥地域は、ため池だ。明石は水が足らず、明石から北方向に、ため池がたくさんあるのと
同じ理由だ。香川県の満濃池を見に行ったことがあるが、同じ理由だ。
インド大陸をみると、パキスタンとの国境沿いに、600キロメートルのインディラ・ガンジー運河がある。この運河が灌漑農業の
用水路で、緑の革命でパキスタンもそうだが、インドもJICAのプロジェクトが並んでいる。ただし、小麦を作ると、塩害が
出てくる。水田を一回通す方が、塩害対策になるが、実証されたわけではない。
アフガニスタンで、中村医師も、水路を引いて、農地を作られたが、水利権がらみの恨みか、襲撃で命をとされた。何もないところで、
資金を投入すると、その地の地主、農民の利害関係者による協定を結ばないと、ああいう事件は起きるのだろう。
ガンジス川流域も、灌漑施設のインフラをきちんと作れば、農業生産性は上がり、労働が解放される。
ニューデリーで、本をトランクいっぱい買って、帰国した。
2020/6/23 ソ連解体後の極東問題1995年8月
1995年1月17日、阪神淡路で、地震が起きた。前夜、セミコンパがあり、新幹線で帰ってきて、ぐっすり、寝ていた。
子供が泣くので目をあけると、途端に、揺れた。家は、南北方向に、ゆれて、たわんだのを、じっと見て、大丈夫だった。
まだ、夜は明けず、また、寝た。明るくなって、台所を見ると、そうめん鉢が、食器棚から、落ちてわれた。そうめん鉢の
被害で、大学から見舞金1万円、貰った。合掌。2階に上がると、本棚が倒れ、博多人形のケースがずり落ちていたが、
被害はない。
明るくなり、起きて外へ出ると、淡路島と明石市の海峡を、ばい煙のような、焦げ茶色の雲が海峡を東西方向に流れていた。
神戸方向から、流れてくるようだった。電気は、家のそばのトランスが壊れて、停電だ。魚の棚商店街に行くと、野菜屋が店を開け、
野菜を処分値で売っていたので買った。なじみのプロパンの燃料店で、茶道の炭があるというので、灰とともに買って帰った。
信楽焼きの火鉢をもっていたので、灰を入れて、湯を沸かした。電話は不通、近くの公衆電話に並んで、実家に電話した。順番を
待っている間も、電線が余震で、ぶるぶるして揺れていた。コンビニで、カップラーメンなどを買った。ここも行列で、
食料品はほとんどなかった。水道も止まっているので、小学校に行くと、屋上タンクに、まだ水があり、トイレ用のためポリ容器に、
入れて帰った。あとで、近くに水道局があるのを聞き、車で行くと、みんな並んでいる。ポリタンクに入れて、帰った。
2日目ぐらいに、電気がつき、地震の被害が分かった。火災が発生していて、海水をヘリで運んでかけていた。長田区が丸焼けに
なった。ここは、ケミカルシューズの産地で、原材料、製品が燃えたので、ひどかった。17日は、テレビがつかなく、テレビの
中継で振動音でコンタクトが取れない。その間、ラジオをつけると、NHKが被害を放送していた。それに、テレパシーを送ると、
アナウンサーはキャッチし、コンタクトが取れた。復旧過程でも、思いついたことは、交通機関の振動音で、対策を
連絡するように、通勤した。
神戸電鉄が六甲山の裏側を、福知山線の三田まで、つながっていて、被害はなかった。大学に早朝の神姫バスで、電鉄駅まで行き、
その経路で、大阪まで行けることを確認した。なんと、翌日、そのルートで、行くと、姫路方面から、通勤者で、満員だ。
みんな根性の仕事人だなと思った。道路は、渋滞で使えない。4時間以上かかった。その間、宝塚から、尼崎までの被災地を電車で
眺めた。「あ~ぁ」と絶句。高松市の大学に就職した後輩に、あとで、高松市の試験会場で偶然であって、近くに住んでいるという。
神戸に住むあこがれが、あのありさまで、消えたと言っていた。
戸建ての一階がつぶれ、二階が一階になっていた。JRが4月前に、部分開通したと思う。一部、代替輸送で、不通区間はバスだった。
ゼミ生は皆無事だった。ゼミ旅行を関東方面に、3月22日に予定していたので、学生3人と出発した。3月20日、サリン事件が
起きた。宿舎は、浅草で、渋谷区神南のNHKに行った。こういう事件でビビることはないけれども、NHKの天気予報の
模擬放送のスタジオで、一番後ろの席に座っていると、心臓あたりを鋭いもので当てるものがいる。殺すなら殺せとしか、
対応できないので、じっとしていたら、女性アナウンサーがこっちを見だしたので、立ち去った。NHKを出ると、渋谷駅までに、
中継カメラ2台が出ていた。学生と坂を下りて、駅に着いた。オームの計画では、NHKは占拠するはずで、実行員が周辺に
住んでいたと思う。こっちは、教団のターゲットにはないと思うが、教団つぶしに出てくると、思っているかも。
オームのテロも、教団にとっては、あの震災は、日本にとっては最大のピンチで、教団にとってはビッグチャンスで、
一気に勝負に出た。だた、首都制圧計画を次々と間髪入れず、実行することはなく、教団は上九一色村サティアンに籠って
しまった。5月頃、教団捜索が開始され、麻原は逮捕された。
このことは、当時、明石市で、英語の個人レッスンを受けていた時、話題になり、教団が、ロシア軍の丸っこいヘリコプターを
保有していたのは、松本事件を起こしたように、サリンを東京に、散布するつもりじゃないかと話した。米人の先生は、父親が
アメリカ軍の軍人だった。ロシア軍のヘリコプターを気にしていると、ウラジオストックの火薬庫が大爆発した。
ソ連解体後、軍律が低下、武器管理がおろそかになっている。米国でも、核兵器関連技術が、軍律が緩んだロシアから、
闇武器市場に流れていると心配していると報道されていた。それで、ウラジオストックに、9月、ロシア語入門で、出張した。
新潟空港から、30分、日本海を渡り、ウラジオストックに着いた。花火をあげて、何かの祝賀であったらしい。ドイツ語会話から
英語会話に切り替えたので、出迎えの人とも、スムーズだった。そこで、ロシア人家庭に入り、2週間、過ごした。
ロシア語会話は、小学校の女教師で、差向えで、初歩を教えてもらった。その人は、じっとみると、1982年当時の最後の彼女の顔に
似ているなぁと思いつつ、色香にとろとろになりつつ、しっかり勉強した。ここは、軍港だ、私のことは、すぐ、モスクワから、
連絡はある。彼女に顔をあわせたかも。ロシア語の文字は、ギリシャ文字と似ているが、先生は1年やれば、会話できると言った。
ポーランド語はスラブ語というのも、教えてくれた。やはり、個人的に、ロシア人家庭に入って、その生活を体験しないと、
その民族は理解できない。中国人も私のゼミに毎年来るようになって、理解が進んだ。その分、その国に幸運をもたらすのかもと、
私の力は、そういうものかもしれないと思うことがある。
帰国前、ハバロフスクに、汽車で、行って、久しぶり、だったが、同じぐらいの年配の女性のマンションに1泊した。ガイドさんは、
極東の情勢を話してくれて、解体以前を保持している、マフィアが暗躍するので、不動産取引は認めないと言っていた。中央政府の
動向がはっきりしないためだろう。日本では、バブルで砂が不足し、海砂も取り尽くしている、アムール川の川砂を売ってくれる
だろうかと彼に聞いたら、なんぼでもあるから、売ると言ってくれた。当時、ウラジオストックは、日用品は韓国品、富士フイルムと、
ラーメン店が日本製だった。帰国後、羅津4カ国開発計画で、北陸経済連合会とアジア経済研究所で、広報の人に、ロシアの話をしたら、
関心はなさそうだった。新潟県は、環日本海経済圏構想があるようで、熱心であるが。
帰国後、ロシアにもオームが浸透していた。武器の扱い方の訓練に、オーム関係者が来ていた。ロ社側では、テロリスト集団として、
教団活動は禁止されただろう。ウラジオストックの原潜は、日本の援助で、放射能が流出しない措置が施されたはずである。
1995年は、こういうわけで、インドにはいけなかった。しかし、開発途上国の農業問題は、経済発展を考えるうえで、重要であると
認識し、農業問題を専門的に、また、休耕田を借りて、耕し、野菜を作って、農業と気候変動を考えつつ、実践していた。
2020/6/22 ユーゴスラビア解体問題(ボッパ-ド、ケルン、インターラーケン)1994年7月
イラクに対して、1991年1月17日、バグダッドにミサイルが飛んできた。多国籍軍のクウエート奪還作戦が開始された。
イラク軍はクウエートから撤退し、イラク空域は、クウエートに基地を置いた米軍に管理される。インド・グジャラート大学を
1992年から3年続いて、訪問したのは、この問題がある。
もう一つは、ユーゴスラビア解体問題である。1983年、ユーゴスラビア連邦を訪問したのは、ベオグラードだけだった。
第一次大戦のきっかけになったサラエヴォは、行かなかった。ベオグラードで本屋を見ると、ギリシャ文字もあるし、
他の文字の本もある。木製の水筒が枠をステンレスで巻いてあって、変な技術だなぁと、土産に買った。例の発展計画を
ホテルの引出しに残したが、どういうわけか、政府の事務所に呼ばれて、女性職員に、この旅行について、質問された。
まさか、東欧冷戦終結で来ているとは言えないが、発展計画が頭に入っているので、答えると、ホテルに帰れた。諸民族が
混ざり合って、ベオグラードが連邦を取り仕切っているのである。南部は、イスラム教徒がいる。
しかし、なんか、いろいろな国で、女性が前に出てくるとつくづく、感心する。女性が、その国の母性を代表して、
話をするようになっているのかなぁと思う。
1992年4月、ボスニア・ヘルツゴビナで、内戦に突入、1993年ソビエト連邦は解体した。1994年、内戦はひどくなるし、
オーストリアの南部がバルカン戦争になってきた。ユーゴスラビア連邦は、侵入したナチス軍と戦ったが、参戦しなかった。
セルビア人の後ろ立てのソ連が解体したので、非セルビア系は、独立機運が増して来たようだ。
1994年7月、親子3人、まだ、おむつ離れが遅い子だったのを、ドイツまで、連れて行った。フランクフルトに着いて、
ボッパ-ドまでいった。ホテルは、ルーマニア大統領が宿泊した部屋に泊まり、おむつが取れた。インド航空で来たので、
費用も掛かったが、金貯蓄を続けていたので、売却して、費用に充てた。きれいな金を旅行費用にしたのだから、
魔除けになったと思っている。成長して、3人で、ロンドン・パリを旅行した時も、同じようにした。
ケルンの聖堂と動物園に行った。プラットフォームで、老人が、私を知っているのか、日本語で「ありがとう」と言って頭を
下げられた。東西ドイツの統一が成立したお礼なのだろう。それほど、老人には、嬉しい歴史的出来事だったのだろう。
そこから、新婚旅行の地、インターラーケンで、アパートメントホテルに宿泊して、日本料理を作り、ごはんを炊き、
買い出し、調理するのは私で、Servantみたいなものであるが、二人とも生き返って、満足した。
1995年、NATOが空爆、合意が成立した。次は、コソボ紛争になる。第1次世界大戦になるのは、汎セルビア主義をオーストリアが
抑えられなかったことだが、オーストリア皇太子も、情勢分析が甘かった。軍事に疎かったかもしれない。日本は、中国のドイツ分を
占領し、捕虜は、徳島に収容所を作り、ドイツ人捕虜は、徳島にドイツ文化、パン、ハム・ソ―セイジ、音楽を伝えた。
次の第2次世界大戦は、ドイツ・イタリアと軍事同盟を結び、国際連盟を脱退した、全権大使松岡洋右は、山口県人で、
その息子は、父と友達だった。日本軍部は、ヒットラーの全体主義的統制に圧倒され、たぶらかされたというのが、
底流にあるようで、ヒットラーはそういう魅力があった。ヨーロッパでも、たぶらかされた人々は多い。日本の上層部は、
ヒットラーと面談していないので、松岡大使が連盟を脱退したのに「やめてきた。」と意外だった。日独伊軍事同盟、
日ソ中立条約を結んだのも、この人で、日米間の交渉はない。日米間の交渉は、まだ間に合う時代だったし、
ルズベルト大統領は、ナチス軍さえ、米国に宣戦布告を先行することはないのに、日本軍が無謀な開戦をするとは思っていない。
当時、松岡および軍部は情緒的で、ヒットラーにたぶらかされるぐらいだから、理不尽な戦争を引き起こすわけである。
どの軍事大国も、100%勝利間違いないから、戦争するのであり、日本開国以来、第1次大戦までそうだった。全面降伏
間違いない戦争をするのは、だれも、正当化できない。
セルビア側に、ソ連解体で、軍事援助が期待できず、持たなかった。次のコソボ紛争もひどかった。ともに、内戦で、
長期間続くと、終わっても、憎しみが長く続く。
帰国は、インド、アーメダバードを訪問し、グジャラート大学経営学部のゴパルクリシュナ学部長と面談した。
この地方も、イスラム教徒と民族派との抗争が波及していて、学部長も、対策で、ひげを生やしたとか言われた。
グジャラート大学では、女子学生が2,3人、子の周りに来て抱き上げてくれた。1991年、家に招いた女子学生との約束は果たせた。
ニューデリーで、動物園に行った。ラオ首相の時代だが、国内も不安の種はあったようだ。自由化政策がメインで、
この国の発展を考えていたが、中国の農業人口80%と同じ状況で、農業を安定させると、インド経済は成長する。1960年代では、
確か、ビハール州で干ばつにより、食料生産ができず、餓死者がでたはずだ。自給率がアップして、この時代では、
そういう事態は生じない。したがって、インドの農業と土地制度の多様性に目が行かざるを得ない。南問題は、工業化より、
まず、インドの農業、日本の農業、オーストラリアの農業、東南アジアの農業に、関心が変わった。
2020/6/21 南問題の実践アプローチ インド(バンガロール、マイソール、マドラス)1993年2月
1993年、日本は、バブルがはじけ、不景気が始まる。これまで、1980年代は、低成長だったが、いわゆる右肩上がりで、
不動産価格も、同様で、日本では、利用可能な土地は、稀少性の限界があるから、土地価格は下がらないという土地神話が
あった。それが、最高に上昇すると下落に転じた。日本の企業は、土地は取得原価で評価していて、いわゆる、含み益に
依存した経営をしていた。たとえば、戦前からの繊維会社は、広大な工場用地をもち、取得原価は当時の価格で10円である。
1992年まで、その土地は、帳簿価格で10円だが、時価では、500億円である。それが、半値に下る。さらに、グループ企業で
株の持ち合いをしていた。株式市場は暴落したから、株式の評価は、取得原価でも、半値に下がる。すなわち、投資目的の株式と
固定資産が下がり、銀行から借り入れた、当時では高金利の借入金は、評価価値は下がらない。債務超過に陥る。高値で購入した
投資目的の土地があれば、さらに悲惨になった。固定資産税は、遠慮なく、取得原価に税率を掛けくる。
わたしは、ゼミ旅行で、国の中部整備計画にしたがいつつ、各県を回り出していたが、1993年、バブル崩壊で、東京に
ゼミ研究旅行をした。親類の大手銀行員の話では、このバブル崩壊により、大手銀行12行が、3行になるということが、銀行業では
内密に構想されているという。その当時学界は、理論・計量経済学会と日本統計学会に所属していた。必ず、大会には
出席していたが、東京で開催されるとは限らない。開催は、地方大学が多い。そこで、神戸大学の金融論、国際金融論の先生に
頼んで、日本金融学会に入会することにした。大会は、年2回開催で、必ず、東京がある。日本銀行、大蔵省の講演もある。
金融政策、金融行政の最新の情報に接することができる。金融システムについて、最悪の場合、日本金融恐慌が発生する。
1992年2~3月に、アーメダバードで、グジャラート大学の経営学部で、こちらの考えを伝え、先生方は、欧文紀要が毎年、
グジャラート大学に送られているので私の考えは分かっておられたと思うし、ドイツに留学していたこともご存知のようだった。
東欧民主化が終わり、”Foundations of Collective Choice
under Uncertainty,”O.E.S.,No.22,1989, ”Foundations of Collective Choice
under Uncertainty Ⅱ,”O.E.S.,No.23,1990において、インド人経済学者A. K. Sen、Collective Choice and Social Welfare,1970、
から民主主義公理をとりいれ、民主主義下における集団的意志決定論を書いた。実際に生じた、東欧の平和的な民主化集団意志決定が、
強く影響している。私が選択した理念は、自由主義、民主主義、資本主義であり、これらは、社会・経済システムを運営していく
基本理念である。経済システムの研究は、完全自由市場の一時的一般均衡論であるが、「多期間先物市場における価格形成について」
追手門経済論集第XXV巻3号、1990年を書きだした。要するに、現在の資本主義経済が完全自由市場で運営されていて、その多期間の
予想価格は、経済主体は、現在の経済システムを前提に、多期間を予想して最適化する。それらの期間の先物市場において、
均衡先物価格を決め、将来の生産、消費計画を、一時的に確定するのである。社会主義経済では、財・サービス価格が
公的に独占的に決定されるので、先物市場はない。
東欧民主化が、各国に、自由主義、民主主義をもたらしても、経済システムが社会主義では、経済的な成果、果実は得られない。
西欧全体の民主主義・社会主義政党が1990年代、政治・経済を支配していくことになる。あのポーランドのワレサ氏も、
ソビエトから自立しても、社会主義経済からの改革ないし資本主義化は、想定外だったようで、経済発展の法則が働かなったと
最近反省しているのを、東欧民主化30周年にちなみ、新聞で読んだことがある。ヨーロッパの西側も似たり寄ったりだった。
ちなみに、オーストリアは、国際政治は中立、永久にドイツと併合しないことが、オーストリア占領政策で苦渋の選択だった
かもしれない。社民党指導で、今日まで、オーストリアは運営されている。1970年、あの子が、デモに行ったと手紙に書いて来たが、
第1次大戦後、社会主義政党が王政を倒している。彼女は社会主義者なのかなと思った。1982年会った当時は、彼女は、政治的活動は
しているようには見えなかった。
1982年、彼女が「日本人と結婚してください」と言ったので、重荷が一つおりた。オーストリアの最終国土と周辺国との関係、
その歴史を考えるならば、東西冷戦の終結は、オーストリアの将来に係わる最重要な課題である。そのままでは、オーストリア封殺
の国際的枠組みは、自由な精神にはすこぶる不健康である。それが永続するとしたら、自由な精神の持ち主にとって、オーストリアに
いることは苦痛であり、アメリカに移民するのは、当然な選択だ。オーストリアの最高の頭脳はアメリカに流出した。
私の研究に関係する、E. von Boehm-Bawerkまでは、国土が失われていないので、流出問題はないが、第1次大戦後Schumpeter
第2次大戦で、von
Neumann、Morgenstern、von Hayekは、国を離れた。数学セミ内―主催者Karl Mengerさえも、
ハーバード大学に行って、1985年亡くなっている。あのBielefeld大学のRosenmueller教授が、ハーバード大学に出張中だったが、
ハーバード大学にゲーム理論があるのは、担当者がいるわけだ。また、John RawlsのA Theory of Justiceは、格差原理で、
von
Neumann=Morgenstern 効用を使っているので、退職後、経済哲学に研究を移そうと、フォローしているが
Schumpeterが呼び寄せた数学セミナーメンバーがハーバードに招かれていたのだろう。John Rawlsはその影響でを受けったのだ。
別なことだが、追手門学院大学は、経済学部は大阪大学経済学部からの教官が構成して、発足した、私の効用理論等から、
John RawlsのA Theory of Justiceに行きあたることは、連想する先生がおられて、30年たったら、大学になると言われた。
また、フランス文学の先生に、1990年代、声をかけられて、マロニエの花は、咲くのに時間がかかる、咲くまで頑張りなさいと励まされた。
本当に時間がかかっているが、それだけ、学問の領域は、拡大し、確かに、「宇空和大学経済学部」になっている。
1982年帰国以来、全人生をかけて(I bet my future)、大学の給料と公的資金を投入、東西冷戦問題に集中し、ヨーロッパ、
周辺イスラム国を実際に見て回った。1982年のときは、仏蓮は、futurunとローマ字を充てていた。つまり、「将来が走っている」
という意味である。
1985年から、ゴルバチョフ書記長がソビエト政治・経済改革を実施しているため、1989年8月、東欧諸国民は、軍事介入は
ないだろうと踏み、東欧民主化デモを開始したが、やはり、ゴルバチョフ書記長は、平和的に、東欧民主化を承認した。
1992年2~3月は、ボンベイから、アーメダバード、ニューデリーの旅程で、ニューデリーで数日滞在し、ホテルの人が
バスツアーを勧めるので、周辺の観光をした。首相はラオ首相で、「自由化」を推進するということで、確か、シーク教徒の
シン蔵相の時代だった。国内では、イスラム教徒の聖地が、ヒンズー教徒の聖地と重なっており、ヒンズー教徒がイスラム教徒を
そこから、排除しようとする運動が発生する。
イラク戦争で、インドは湾岸地域に出稼ぎをしており、戦争の影響で帰国し、出稼ぎの外貨が入らなくなる。日本にいるよりは、
イラク動静は、敏感に、報道されるから、アーメダバードに来る意義はあった。ここは、パキスタンとは、砂漠を挟んで
対峙しており、イスラム教徒も一緒に住んで、砂漠から、商売に、らくだとともに来る。
1993年2月、1年間、インド経済概説を読み、アジア経済研究所の本も購入、インド紙も1997年まで、購読していた。
アジア経済研究所にいって、インド啓示と日本の関係について、広報の人と話したことがあり、かつては、インド研究は
多かったが、現在、東南アジアに研究がシフトしているということだった。当時、この研究所は移転問題があって、千葉に
移転したが、なんと、市ヶ谷の防衛庁のそばの崖に建っていた。戦前からそうなのだろうが、旧軍がアジアを蹂躙して
戦後、まだ、アジア経済研究所があるのも、反省しているのかと思った。
とにかく、研究体制はできて、デカン高原はイスラム教徒のハイデラバードがあるし、インド南部にいき、バンガロールに行って、
イギリス統治時代が残っていた。ゴルフ場がある。シンガポール人のビジネスマンが、話していた。ホテルで、夜、ドアを
ノックする人がいて、インド人の女性が立っていた。指さきで下を指すし、断って、部屋に帰ると、電話で、男の声で、怒られた。
この旅行は、一応、マラリア蚊を怖れ、東京の赤玉薬局でマラリアの予防薬を購入して、来ている。エイズも流行っている。
ヨーロッパと違って、怖いものが違う。インドでは、毒虫、毒蛇が恐れられているという。人間ではない。
要するに、ここは、インド最大のプログラム開発基地なのである。そういう人材が育っているのだ。シンガポールから
ビジネスマンが来るわけだ。なぜそうなのかは、ここの言語は、プログラム言語と文法が似ているそうで、プログラム言語で
しゃべっていれば、自ずから、プログラムはすぐかけるわけだ。
バンガロールからマイソールまで、汽車に乗り、インド南部の田んぼの中を走った。マイソールは、市街の城のようなホテルでとまり、
そこで、動物保護区のツアーを勧められ、行った。到着したところは、ひどく野生くさいにおいがプンプンしていた。北欧からの
観光客と一緒に、見学バスの檻に乗って、野生動物は鹿とクジャクだった。北欧の女性客と一緒の席だったが、この野生のにおいに、
体が興奮しているようだった。北欧も、自然界があるのかもしれない。
南部インドは、ケララ州に、フランシスコ・ザビエルが眠る教会があるし、7世紀ごろ、インド大乗仏教が生まれた
僧院跡があるはずだ。
マイソールから、航空事務所で、マドラス便のチケットを買った。こっちが、汽車で来たことをしているのか、汽車でも行ける
という。私はそれまで、神妙な顔をしていたが、思わず、ほほ笑んだら、事務員もほほ笑んだ。
タミールナドゥ州マドラスについた。海に出て、海岸まで、出る通りが土産物屋だ。ほら貝を売っていた。1つ買う。空海が中国から
もって帰ったほら貝は、ここのだという研究を見たことがある。向かい側は、スリランカだ。そして、スリランカは、タミールナドゥ
出身者と内戦だ。
夜、ホテルの屋上レストランで、サラダを頼んだら、京都でいう甘長だが、そのつもりで、大きな青唐辛子を食べたら、胃の中が
でんぐりがえった。ボーイがそれを見て、“You love India?”と聞いた。“Yes,
I love.” ここでは、ドラビダ人を見かけ、
その皮膚の色が違う。インド人は、多民族国家なのだが、アフリカから来た人々も多いのだろう。
2020/6/18 南北問題の実践アプローチと旗印 1992年2月~3月
1985年11月30日、ラジブ・ガンジー首相が京都市を訪問、私は、その年の年末、年始に、インド巡礼を予約、旅の練習を
してた。日本で、修験道の行者さんや、延暦寺の千日行が、有名であるが、山岳信仰の伝統が、伝わってきたものである。
平安京の貴族は、行者に、加持祈祷を頼み、もろもろの罪穢れを払ってもらうという、ご利益を期待されていた。西洋で言う、
悪魔祓いのような、悪霊退散の方法がある。
ちなみに、最澄、空海によって、小乗仏教から大乗仏教時代に、日本は入ったが、修験道はすたれなかった。明治時代になり、
政府の廃仏毀釈の宗教政策により、仏教の国家庇護はなくなった。明治天皇は、東京に遷都されたが、修験道は気になったようで、
修験道は禁止され、実際、封印された。要するに、皇族および公家族に、加持祈祷されて、呪われても困ると考えたのだろう。
インドは、宗教の競争関係があり、医療、教育が途上国であり、中国と同じ、農業人口が80%以上で、日本の修験道のような
修行者は、無数にいる。当然、超能力者もいて、インド社会で、それが売りで生活できる。私のインド巡礼は、その彼に出会うだろうと
考えていた。確かに、ベナレスから、ニューデリー間の列車では、テレパシーで、互いに日本語会話ができる彼にあった。
例の振動音で、同調するのは、相変わらずだったが。別に危害が私に及ぶわけではない。
年が明けて、留学に出発し、ブッダガヤにつづいて、ルクソール、エルサレムと聖地巡礼ができた。南北問題おいて、
南の国々は、国際宗教によって、日々の生活が律されている。1986年に宗教問題の根源を訪問できたとは、よかった。
そして、1989年11月、東欧の民主化革命は終わった。ソ連に、占領され、そのまま、共産党統治を1945年から1989年まで
強制された東欧において、東欧の人々が、自主的に、戦後処理を清算したことを意味し、同様に、1993年ソ連の解体は、
ロシアと関連諸国との間の清算である。
1991年1月子供が生まれ、小市民生活に入っていたら、1991年1月、多国籍軍がイラクに開戦した。1991年5月、ラジブ・ガンジー
首相が暗殺された。当時、追手門学院大学は、インド グジャラート大学と交換留学生制度があり、毎年、2人、3カ月相互に
留学し、それぞれの国の文化、芸能を鑑賞するようになっていた。また、タゴール夫妻が、教員として、教えておられた。
1991年10月、Business Manegement Faculty からの女子学生が私の金融論を受講し、年末、自宅に、招待した。そのとき、
私たちがインドに来てくれと、誘われた。1992年2月、Business Manegement Facultyを訪問し、インドの金融論を紹介してもらい、
図書館も見せて貰った。1993年、1994年、1996年と、2月3月にかけて、全国のポイントを訪問しつつ、グジャラート大学を訪問した。
1994年は、ユーゴスラビア解体で、分裂戦争が利あり、NATOから、空爆をしていたときで、家族3人で、ヨーロッパに行った後、
アーメダバードを訪問した。
学部長家族に招かれた。ここも、民族派とイスラム教徒が争っていて、町は、緊張していた。ガンジーのアシュラムを訪ねった。
当時、妻は、インディラ・ガンジー夫人と同じく、少し、白髪が束になっていて、それに気が付いて、「まいったなぁ」と内心思った。
宇空和のマークが付いた、ナップサックは、ボロボロになったので、南北問題のために、新しい旗印を考えた。
中心は太陽であり、小円は各国を表す。同じ色は、共通の理念を表す。U. A. N.はUnited
Asian Nationsを意味する。
このマークの新しいナップサックを背中に背負っていると、私の後ろには、誰もいなかった。いま、いちかなと思った。
しかし、南北問題は、これから、始まった。非同盟会議とか、ASEANとか、いずれ、理念が揃えば、まとまってくると
いう願いを込めていた。
2020/6/16 南北問題アプローチ(個人研究旅行)ハルピン、大慶、撫順、長春1990/7~8
1989年7月、中国東北部を通ったとき、鞍山製鉄所を訪問したが、その続きを計画した。1990年7月・8月、北京から、
ハルピンに行き、市内を観光した。覚えているのは、チェコの商館、日本人商店、ロシア正教会などである。ここは、ロシアの町だ。
冬、氷祭りがあるから、ぜひ来てくださいとガイドさんが言った。
帰るときのハルピン駅は、伊藤博文がロシアと交渉の帰りか、この駅で、安重根に暗殺された。護衛の兵士がいて、射撃距離が
取れる範囲に近づけるものだ。まあ、爺様だから、とられても、問題はないが。安重根を英雄にしたのは、歴史的に、旧日本軍
の失策である。山口県人としては、気になる駅であった。
大慶で、外交部の日本語がしゃべれる人が、例の石油をほる、やじろべーのような油井ポンプのある所をみせてもらって、
展示場に連れて行かれた。ここは、満鉄調査部の探鉱師が、必死でボーリングしたが、出なかったようだ。重質油のせいで、
自噴泉で噴出しなかった。ここを発見したら、南方作戦はなかったかもしれない。
中国政府は、この重質油を日本に輸出して、ドルを稼いだ。ここをほった人々は中国の英雄になっていた。ただ、
その当時、採掘量が減少して、地下水を入れているという話だった。ただ、アメリカから、くみ上げ技術は、
輸入したそうだ。
別に、中国人が、最近、当地のおみやげに、アクリルの毛布が人気だという。その工場を見せて貰った。織機は日本製、
糸も日本製だった。川上の石油化学工業から、川下の、糸を生産するということはできないようだ。
撫順、露天掘りの、事業説明案内所で、中国人の団体といっしょに説明を聞いた。高校の教科書で、見たことのある、
渦巻き状に、道路が走っていて、トラックが、石炭を積んで運び上げるのは同じだ。強いて言えば、トラックは古いし、線路上の
貨車に載せるところは見なかった。
長春、ここは、森しか自慢できないとか、松江川、日本人が建設した建物、自動車工場、映画製作所、漢方薬品店、フライドチキン、
小学校に連れて行ってくれた。自動車工場は、すでに、トヨタの工場を見学していたので、ひどくのんびりと、つくっていた。
工場長から、生産台数などを丁寧に説明していただいた。映画製作所は、日本人観光客もいて、北朝鮮の団体、韓国の団体で、
国際会議すれば、南北問題は解決するのではないかと、司会の人が言った。長白山があり、漢方薬の材料が取れると言っていた。
長春は、人工都市で、関東大震災後の都市計画の見本都市だった。東京では、結局できなかった。ガイドさんは、今のところ、
森しか自慢できないと言っていた。
その後、北京に行って、ホテルに泊まったら、テレビで、フセインイラク大統領に似たアナウンサーが、クウエート侵攻を
話していた。1988年、イスタンブール訪問のとき、イラク・イラン停戦が成立して、それから、2年たったばかりだ。
帰りの飛行機は、福岡空港行きだったが、登場して、私は、マニ法典を読んでいたら、エンジンが反応し、法文「われはかみにして
・・・」を言いだし、調子がおかしい。そのうち、コークを手にしたアメリカ人の整備士が、後部ヘ走った。結局、出発できなくなり、
全員下りた。後ろの座席の人が、「のりとが効いたなぁ、飛べば落ちたかもしれん。」と話していた。空港の待合で、代替機の準備を
待った。向こうの方に、北朝鮮機が駐機していた。えらく背の高い、ニンニクか高麗ニンジンか、強烈なにおいをぷんぷんさせて、
搭乗口へ行った。
2020/6/14 東西冷戦終結へ ユーラシア大陸横断旅行1989/7~8
大連(旅順)鞍山 瀋陽 北京 ウランバートル イルクーツク モスクワ 東ベルリン ライプチヒ
私は、5月結婚した。新婚旅行は長野県に行った。夏休みは、東西冷戦終結はまだ、だったが、結婚報告を、東西両陣営にした方が
いいと思った。それと同時に、東西問題の活動はやめ、アジアの南問題に、すでに、南北問題アプローチのスタイルを実践して
いるから、海外出張は、その方向で、進めることにしていた。
私は、研究室にいて、データ加工する、思索する研究者ではなかった。あの就活期1971年春、私の将来プラン①大手商社②大学院
③留学の順位では、大手商社が1位であるように、大学に就職しても、机を前に、思索する研究者であろうとは思っていなかった。
大学院在学中、京都と大阪・神戸の3都市を通学した。車窓から、この3都市の構造変化を洞察していたから、経済を俯瞰的に見るし、
通学で長距離移動の行動力を満足させることができた。
もう、すでに、私は、研究資金を投入し、アジアの南北問題に、といっても、日本が北で、他は、南であったが、参考文献を
買い始め、特に、留学帰国後、方針を行動に移している。国内も、南を成長させれば、国内市場と国際市場両ににらみで、日本も
成長しなければ、市場経済の論理から、日本企業は退出するようになる懸念もある。ゼミ旅行を通じて、企業訪問をし、
工場見学をし、国内市場とアジア市場、特に中国進出、両ににらみで、企業経営しているのか、質問していった。
2000年以降、アジアの南側に卒業生が出てきて、中所得国に格上げされるようになる。南北問題は、温暖化ガス対策が2000年から、
国際的に叫ばれるようになってきて、環境技術で南北格差がある。南は、経済成長だけでなく、温暖化ガス削減にも取り組まなくては、
国土が失われる。日本は、気候変動の被害が年々増加しているし、北も、温暖化ガス削減に取り組まざるを得なくなっている。
ユーラシア大陸横断旅行は、1989/7~8で計画した。日中友好旅行社とインツ―リストをつないで、中国→ウランバートル→
イルクーツク→モスクワ→東ベルリン→ライプッチヒ→ミュンヘンをバウチャーとチケットを作ってもらった。
新婚旅行の目的地は、スイスであった。
帰りは、ジュネーブから、フィリッピン航空で、マニラに泊まるようにした。ジュネーブの公園で、私が余計なことを言ったので、
マニラ行きは、妻は不愉快だったらしく、どこかに、いなくなった。やっと、みつけた。
マニラに寄る理由は、スペイン語学研修時、1983年のアキノ大統領暗殺である。当時のフィイリピンは治安が悪く、ミンダナオ島
のマレー人との交戦もあった。日本も、犯罪者が逃亡する国に選ぶし、ピストル、覚せい剤は密輸するという闇の世界とも取引が
あった時代だ。韓国も、そういう事件は、あった。日本の警察から派遣されているわけではないが、私が行けば、すこし、彼らの
日本に対する気持ちも変わるのではないかとも思うし、スイスからの帰りにマニラに宿泊した。南北問題で、日本資本が関与
していくようになることもある。
マニラから空港に行くとき、軍隊が装備を付けず、何のデモかわからないが、デモ行進しているのにであった。一人の若い兵士が
私たちのタクシーを通り過ぎるとき、私を見て、簡易ライターに火をつけて、歩いて行った。帰国後、両国とも、効果は
あったように思う。
7月に入って、旅行が、大連から始まった。ガイドの車で、旅順の山地をとおり、海水浴場にでた。日露戦争の激戦地、ロシアの要塞が
みられるのかと思っていたが、今も軍事の要衝で立ち入り禁止地域なのだろう。大連駅には、ロシアの遺物もあり、ここまでロシアは、
来ていたのだ。日本の残したものもあった。
満州鉄道と同じマークの列車で、鞍山に行き、鞍山製鉄所の制御室まで、連れて行ってくれて、石炭の煤煙がひどかった。
日本人住宅も残っていた。なんかこの形、日本の分譲住宅と似ていると思った。日本人が設計したのだから、
当たり前かもしれないが。
瀋陽で、愛新覚羅溥儀が執務していた建物を案内してもらった。日本政府の前の首相官邸に似ていた。いろいろ、写真が飾って
あった。瀋陽故宮を見学した。北京の故宮よりは規模が小さい。
北京まで、北朝鮮に行ってきたとか2人と向い側の席になり、話した。やはり、天安門問題で、弱っているという話が出て、
私は、日本の紛争時代の経験から、「中国軍が制圧に出るのは、やめて、警察の機動隊を制圧に使うべきだ」と答えた。
(武力制圧に、東北部の部隊が先鋒を切ったという話を、後で、報道で読んだ。)
この問題について、1978年開始の中国の経済開放で、まだ、成果がはっきりせず、いきなり、民主化要求は、拙速だし、
中国が不安定することは、西側としても、東アジア全域としても、困るという認識があった。経済発展の中で、政治改革として、
学生の民主化要求が出るのは当然だろうが。
北京に着くと、ガイドさんが公安に連れていき、天安門広場の入場許可をもらい、事件後1カ月の天安門広場を案内された。タイヤ痕が
残っていた。故宮を見学、湖のある庭園、外交官用の湖のある、レストランで、昼食を取った。盧溝橋にも連れて行ってもらい、
爆破の現場のそばに、中国軍の兵舎があったという。旧日本軍は中国側に、その意思を示したのだろう。
北京から、ウランバートル経由で、イルクーツクに行った。モンゴル国境では、事務所に、私が連れていかれ、妻ではないのでは
ないかと言われた。モンゴル人は、私を知っているのだろうが、結婚は5月であり、それは知るわけがない。そのため、列車の出発が
遅れ、妻が見当たらないで、トイレに行くといた。それで、呼び出したら、信用してくれて、その国境警備員が列車から飛び降り、
列車は出発した。
シベリア鉄道で、モスクワにつく。疲れもあり、あんまり、あちこち、歩かなかったが、赤の広場の城の内部を見学した。
モスクワから、レニングラードに行くと、モスクワ・オリンピックの会場だったホテルに泊まった。エルミタージュ美術館を見学した。
レニングラードから、バルト3国を通り、東ベルリンに着いた。銀行で両替していたら、東ドイツ書記長ホーネッカー氏のポスターが
貼ってあった。高齢だ。見つめていると職員はこっちを見ていた。大きなホテルに宿泊し、大使館街だった。通りを歩くと、
ブランデンブルク門に着いた。そこで、写真を取り、向こうが西ベルリンである。いつまで、この壁が続くのか、と思いつつ、
ライプチヒに行った。バッハの教会にいった。出発から、ここまで、列車やホテルで、CD携帯プレーヤーから、
J. S. Bach:ST. John Passion、Karl Richter
Muenchener Bach-Chor、Muenchener Bach-Orchester、1964を聞いてきた。
東ドイツを後に、ミュンヘンについて、西側に入った。妻は、共産圏のひどい食事に、文句を言っていたが、ようやく、食べられる
ものにであってよろこんでいた。1982年から、苦労して、終了、1989年7月下旬で、最後の仕事だったが、無事終了した。
ミュンヘンから、新婚旅行が始まり、スイスに滞在し、面白かった。1989年8月上旬、ジュネーブから、マニラ経由の仕事は入れたが、
無事、帰国した。
1985年、ゴルバチョフ書記長に代わり、ペレストロイカをソ連で始め、1989年2月15日、ソ連軍はアフガニスタンから完全撤退した。
前年は、イラク・イラン戦争が停戦している。ソ連を取り巻く環境は負荷が少なくなってきた。東西冷戦は、西側は、ハンガリー動乱
やプラハの春、東西ベルリンの壁など、ソビエト内部で生じる事件に対して、軍事行動を取ることはなかった。ソ連の内部で、
共産党統治を相対化するには、東欧各国が内部で民主化要求がでなければ、西側では、冷たいようだが、どうしようもない。
そういう冷戦だった。
バルト3国で、人間の鎖が、1989年8月22日、発生する。ゴルバチョフ書記長が中国軍の民主化弾圧を気にしたか、ペレストロイカの
政治経済改革のせいか、ソ連軍がハンガリー動乱やプラハの春のように、弾圧に投入されなかった。1989年11月9日、東ドイツ政府が
「旅行及び国外移住の規制緩和」を発表、その夜、壁は崩壊した。
2020/6/13 南北問題アプローチ(個人研究旅行開始)景徳鎮、南京、武漢、上海1989/3
春休み、始めて、中国旅行を個人旅行で、始めた。日中友好旅行社に頼んだ。まず、中国の南部は、景徳鎮、南京、武漢、
上海である。景徳鎮は、私の趣味が、陶磁器の産地巡りで、ゼミ旅行でも、瀬戸に行った。景徳鎮は、日本にも輸入されて
いる、青色の顔料で、ラーメン鉢、餃子の皿など、日本でも中華料理店でおなじみの食器である。がそれである。里山に、
工房が連なり、小川で水車が回り、陶土を粉砕している。パンツだけの若者が、無心にろくろを蹴り、壺が立ち上がる。日本語を
しゃべる女の人と、別の女の人と工房を回り、過去の官陶の作品展示館を見て回った。皇帝で色が違う。皇帝がいない今は、
どちらかというと、使う色は朱色が多かった。共産党の時代だから赤だ。
大きな壺に、彩色する工房を見せてもらった。高齢のおじいさんを紹介してもらい、その制作中の大壺を見せてもらった。
体制がどうのこうのは、景徳鎮は、あまり影響はないのだろう。帰り際、景徳鎮で、陶器博を開催する予定に
なっていると言っていた。伝統産業の輸出も盛んになるのかなと思った。
南京は、誰もいない、堀のある公園の、休憩所で、おじいさんを紹介され、このおじいさんは、関東大震災時の中華街のことを
知っているらしく、朝鮮人が殺されたと言っていたが、暗に、南京大虐殺のことか、と思った。それで、このあたりじゃない
だろうなぁとも、思った。虐殺はあっただろう。南京は南京政府の本拠地だ。皇族が入城すると言うので、旧軍が過剰反応し、
虐殺に及んだというのを読んだことがある。
中山陵をお参りした。長い階段を下りていると、ナップサックの宇空和は何ですかというので、私が選んだ漢字の組み合わせ
ですと答えた。そういう意味を表しているんですねと分かってくれた。このナップサックは、海外旅行では使っていた。
武漢を選んだのは、旧軍も駐屯し、重慶と対峙していたのだろう。中国の揚子江の中流で、運搬船も行き交い、
コロナで報道されたような都会ではなかった、大きな湖を見せて貰い、揚子江にかかる大橋を見せてくれた。工場見学を
頼んでいたが、無理だと言われた。
上海は、旧日本の企業の繊維工場がまだ使われていた。大学院のとき、戦前の日本の繊維業が上海に進出した、生産の推移を
研究していた院生がいたのを思い出した。のこぎり歯のような工場が並んでいた。もう一つは、蛍光管で折り曲げたような管を
作る工場を見せてくれた。ガイドさんは、障害者も働いてもらっていると言った。工場も設備も古く、きたなかった。ガイドさんは、
途中、ベッド屋さんに立ち寄り、真鍮製のダブルベッドをしきりに、欲しそうに、いろいろな角度から見ていた。結婚するのかなぁ
、やはり、個人生活は、あこがれとずっとふたりで寝ると思うと、選ぶのにも力が入る。中国女性は、実利的である。
2020/6/13 東西問題アプローチ イスタンブール(バルト3国)コペンハーゲン 1988年9月
ソウル・オリンピックが1988年9月17日から10月2日まで開催された。陸上競技場は、3月のゼミ旅行で案内された。
夏休み、予定もなかったが、山口で、1カ月以上過ごした。自転車をもって帰り、周辺は秋穂八十八か所めぐりの順路があり、
自転車で回り、山口まで、椹野川から,入る道と四つ辻から、山道があり、それを下る道と、大内を通る道がある。それで、
山口市内を往復した。婚活で帰ったのである。結婚も体力かなぁと。1ヵ月、自転車で回ると、夫婦と振り袖姿の娘が遠い
ところで、3人並んで立っておられる。なんか、体力で頑張るのも、間違いないなぁと思った。
長岡京市に帰って、オリンピック前に、タンジェのジブラルタル海峡に続いて、ボスポラス海峡を見に行きたくなり、
イランの予約も入れ、トルコ、イスタンブールと、東欧で、訪問してなかったバルト3国を、インツーリストを通して、ヘルシンキ
-タリンの船と3国を2日ずつ回り、また、ヘルシンキにもどる予定だった。飛行機はKLMで、南回りである。8月下旬に出発した。
イスタンブールは、車が走っている通りを、一車線ずつ、車をかわしながら渡っていく命知らずの横断者が多い。信号機は
少ない。私も、まねして、大通りを渡ったら、途中で、車がみんな止まった。素人は、まねはそれこそ命がけだ。アヤ・ソフィア寺院
があって、その後ろに、大モスクがある。ソフィア寺院はモザイク画で、イエスが右手の薬指と親指をつないでいる大きな絵が
壁に描いてある。信仰はできない博物館になっている。この指のサインはなんかなと昔から、美術の教科書で見るたび、思っていた。
渡しフェリーで、対岸に渡り、アジアがここから始まる。連絡橋を渡ってくれというとできないというので、また、ヨーロッパ側に
もどった。モロッコと違った雰囲気がある。トルコ人がアジア系だからかも知れない。航空会社で、テヘラン行きのチケットを
売るように言うと、予約を確認したのか、職員が、びっくりして、アラブのターバンを巻いた男も大声でしゃべって、後ろの
事務所から出てくるし、厳しい顔で、売れないと言う。引き下がった。イラン・イラク戦争は、1988年8月22日国連安保常任理事会の
決議で停戦しているのだが。
帰国して、「先生、テヘランに行けましたか?」と聞いた。
Hiltonホテルが、やはりあり、ボスポラス海峡をにらんでいる。霊媒探知がついているので、軍事的なことは一切考えないが、
両岸細長く迫って、関門海峡みたいだ。ソ連小海艦隊の出口なのである。近年、ウクライナがEU側につく事態になり、
ウクライナ海軍艦を没収し、ささっと、クリミア半島をロシア領にしたのも、ロシア黒海艦隊が軍事的に無力化されるからの
防衛反応なのだ。しかし、東欧が民主化されても、国会の軍事バランスに変更はない。
次は、ヘルシンキに、飛ぶのだが、夜、スウエーデンに着き、そこで、乗り換えで、ヘルシンキのチケットを買い、夜、
23時ごろ、ヘルシンキに着いて、ホテルをh総会してもらい、ヘルシンキで泊まった。ところが、時差がスウェーデンと
フィンランドにあるというのを調べず、しかも、メガネが曲がったので、メガネ屋で直して、タクシーを呼んでもらうと、
運転手がなかなか港に着いてくれない。着いたら、フェリーのタラップが上がりつつあった。こんな状況から、なにか、
いやがっているのは誰でもわかる。係りは明日、また、船は出るといったが、すぐ、空港に行って、デンマーク、コペンハーゲン
に行った。帰国まで、コペンハーゲンの町に滞在した。チボリ公園で、1日過ごした。(このチボリ公園は、のちに、岡山県の
倉敷駅前にできた。私の家族も何回か行った。もう、今はない。)デンマーク、スウエーデン、バルト3国は、デーン民族の仲間だ。
その生活は似たものだろう。軍事的には、バルト海の両岸が、同じ仲間になると、ソ連バルト艦隊は、出入りを常時、両岸から
監視しされ、戦時では、艦隊は、出入りできない。
さすがに、ゴルバチョフ書記長は、オリンピック後、反応して、バルト3国を訪問した。ソ連は、1989年2月25日アフガニスタンから、
完全撤退する。
ソウル・オリンピック中、昭和天皇が1988年9月19日東大病院に入院され、1989年1月7日崩壊御された。
2020/6/13 南北問題アプローチ 桂林、広州、香港団体旅行 1987年8月
帰国後、中国に再び、団体観光ツアーで、8月、水墨画で有名な桂林の川下りをし、広州の旧市街の名所を案内された。
最後は、香港に行き、やはり名所を案内された。中国国内では、外貨獲得のため、ホテルが建築ブームだった。
依然、中国は、共産党独裁国家であり、海外資本の直接投資は活発ではない。ただし、香港資本は、ホテルブームで直接投資
しただろう。建設資材は、中国では生産されない。建物外壁にある足場は、竹で組んであった。経済開放政策で、海外企業の
進出を促し、農村の余剰労働力を低賃金で雇い、資材は、現地調達できないものは輸入して、価格競争力がある製品を輸出する
ようになっていく。ただし、この製品を国内販売することは、許可されていなかった。資本開放は、中国産業を育成するのが
目的なので、中国進出外国資本企業は、合弁形態を取らされ、100%の進出はできなかった。産業も選別され、当時の中国では
、必要のない、西側の消費財製品、サービスは、合弁すら認可されない、全面開放ではない。
これは、共産党独裁ではない民主主義統治を取るインドも、同様の国内産業優遇、スズキが外資の自動車企業であったように、
国内幼稚産業保護政策は、同じである。むしろ、インドの方が、社会主義的経済発展にしたがっていた。しかも、伝統的に、
ソビエトとの関係を維持し、中国に対する、圧力に使っていた。
1991年、日本バブルがまだ、破裂せず、世の中は、株式・債券市場の活況で、浮かれていた。多国籍軍がイラク政権を倒さず、
クウエートを奪還で終結したため、ペルシャ湾の石油産業で、イラクの輸出がとまり、供給量不足を、サウジアラビアと
湾岸諸国で補う形が、イラク戦争で、フセイン政権を倒すまで続く。日本のバブルは、国際情勢要因では、湾岸戦争効果で
破裂した。日本金融システムが復旧するのは、2003年である。2003年、第2次湾岸戦争では、日本も自衛隊が参戦している。
湾岸戦争とは別に、1991年5月21日、ラジフ ガンジー首相が、マドラスで選挙応援演説中、タミル・イーラム解放のトラ
(LTTE)の女性二人に取り付かれ、自爆、3人ともども爆死した。私は、女性隊員もテロリストになるという衝撃を受けた。
1991年1月、イラクと多国籍軍が、湾岸戦争を起こしているから、ガンジー首相の暗殺で、中東地域とインド周辺も不安定化する
危険を感じていた。1991年の秋、追手門学院大学とGujarat大学とのインド交換留学制度によって、二人の女子交換留学生が
金融論の3回講義を選択し、日本の金融制度を講義した。
私の子供も生まれ、明石市に引越していたが、二人の交換留学生を夕食に招いた。インドに来てくださいと言うので、
アーメダバードを訪問すると言った。1992年3月、アーメダバードのグジャラート大学を訪問し、女子学生と再会し、
副学長と面談して、Business Manegement学部長を紹介された。インドの金融制度の本を紹介され、図書館を案内して
もらった。インドの5ヵ年計画とインド経済白書を購入し、日印委員会の会員になり、退職まで続く。1992年から1996年まで、
中東、南インドを観測するようになった。
「南側を助けよ」という重い使命が、始まったのだ。父は、私が結婚しようとしないので、「一人で生涯を過ごすのは、
それでりっぱだが、結婚し家庭を育てるのが、大事だ。」と、留学が終わって、私に言った。中学生の頃、「家庭を幸せにしつつ、
国を幸せにする」というようなことを言っていた。また、「支配」という言葉を話の間に、使ったら、ひどく憤慨して、
「おまえに、支配という言葉は教えたことはない。」と言った。「権力に近づくな」ということだろう。
子供も生まれ、兵庫県物産と四国の物産が流通するところで、明石原人が30万年前、暮らしていたというから、家庭を始めるには、
食料に全く不安はない。物流の中継地で、大手スーパー進出過剰で、日用品衣料も安い。小市民の生活に入っていた。
やはり、聖地エルサレムに行ったことが、ヨーロッパ、北アフリカに伝わり、「南側を助けよ」という使命を背負って、
活動してくれということか、即座に、反応して、活動をはじめた。
ちなみに、1997年7月、オーストラリアに短期留学したら、南クインズランド大学で、帰国前、インド人職員の夫妻に招待され、
アーメダバード出身と言われた。アーメダバードは、ガンジーアシュラムがあり、インド独立運動の発祥の地である。
ガンジーの評伝を帰国後、読んだ。東欧民主化が非暴力で、共産党独裁を相対化するのに成功したことも印象に残る社会運動
だったが、ガンジーの非暴力主義は、英国が国内のイスラム教徒とヒンズー教徒を分断統治して、内戦化させる統治方法を
もっているので、独立戦争になると、多くの植民地で経験しているように、長期内戦状態が続く、多分、ガンジーは、対外的な
非暴力主義より、国内の統一中に、内戦で国民が心情的に引き裂さかれ、憎悪が連鎖し、人殺しが永続する悲惨さを想ったのだろう。
中国が孫文から、国民党と共産党の内戦が始まり、統一はできず、ガンジーの想像する通りになった。中国国民も多くの血を流した。
南側を助ける活動をするのに、ガンジーの非暴力主義は、自力発展を促進しつつ、外部資本を流入させ、その国の産業構造を、
産業連関表のように、技術係数行列の各項が0をなくし、密にすることだろう。アフリカ諸国のように、産業連関表はほとんど
ゼロ項目でみたされ、資源があるだけで、その取り合いで戦争をするようになることは絶対に避けなければならないということを
ガンジーの非暴力主義はいっている。もし、植民地で非暴力主義をとらなければ、死ぬのは外国人イギリス兵ではなく、
インド人が無数に死ぬ。
父は、中国共産軍との最前線、武漢で終戦を迎え、揚子江を下り、引き上げた。軍部は腐りはてていたから、負けいくさは、古来
武家の敗戦の責任の取り方は切腹である。部下は責任は一切問われないという武士道がある。あの岸信介氏は、「負けて
生きて帰って」と母親から叱責されたと山口でだれもが知っている逸話がある。日本の伝統の武士道では
上層部の自決に決まっていると、必死に保身のために学生、優秀な兵隊は最前線に送り、死んでもらうということにしたのは
間違いない。父は、武漢で、戦闘で生き残り、上層部のその手は食わず、運命で、サイパン送りは列車の遅れで乗船できず、
父の預かった兵隊は戦死していないと、長門市の正月の宴会で聞いた。わたしのことは、中国人の占い師が言ったそうだ。
そのとき、中国の将来について、どう思ったかと聞くと、よく中国画の画題で、少年が水牛の上に乗って、無邪気に
遊んでいる図と同じ構図を田園を見たという。中国時間は悠久に続き、子はまた成長していくような印象を受ける。
1997年8月22日に亡くなり、葬儀でオーストラリアから、1週間帰国し、再入国し、予定の研究を報告した。
南北問題アプローチ 韓国ゼミ旅行 1988月3月
これは、ソウル・オリンピックの年で、西村ゼミの3年生を連れて、大阪南港からフェリーで釜山につき、馬山の工業団地、
浦項製鉄所、ソウル証券取引所が、1884年の東南アジア諸国、香港と違うところである。浦項製鉄所は、大阪の連絡事務所を
自分で訪ね、見学許可をいただいた。他は、旅行社に手配してもらった。観光は、慶州、仏国寺、光州、扶余など、日韓の歴史に
かかわるところや、光州事件、国連軍墓地、非武装地帯の展望所など現代史に係わるところを学生に見させた。1985年3月の
ソウル1泊2日は、特急だったが、今回、バスで移動、高速道路がソウルまで、通じていた。(ちなみに、あのホテルのガイドは、
追手門学院大学に私宛にはがきを送ってきて、その切手は、伊藤博文を殺したテロリスト、韓国の英雄 安重根が
貼ってあった)浦項製鉄所は、線路のレールを製造しているところを見せてもらった。プレス機械は日本製だった。
浦項製鉄所自体が、高等教育機関をもって、従業員を育成しているという。国有企業ではないかと思った。ソウル証券取引所は、
上場は400社くらいだった。
韓国も台湾も、日本の企業の運営方法を取り入れて、独自に成長していく。政府、地方自治体も、企業誘致は、盛んで、
投資の回収期間が5年なら、その間、企業は収益を回収に回すので、地方税をかけない、従業員公営住宅を用意するというような、
進出優遇策をとる。
このゼミ旅行のスタイル、国の国土軸開発計画のインフラ計画に沿って、各県の有力企業を2,3社訪問し、工場を見学する、
あとは、セミ生と地元の観光を楽しんだ。
2020/6/12 東欧民主化、ソビエト解体で顕在化した汎欧州のキリスト教共有基盤
私には、今回の留学では、多変数期待効用で、経済の市場均衡問題の設定、均衡を証明すること、東西問題、南北問題に
それぞれ、私のアプローチから、前者は終結、後者は開発途上国に社会主義政体が多いので、インフラ経済発展計画を策定し、
資金をつけ、産業を実業化する、実践活動をするスタイルを作ることが目的だった。特に、南北問題には、伝統的宗教が、
国民の統合理念になっている国が多いので、インフラは政府の活動、実業は民間企業の活動と役割分担し、信長や尾張名古屋の
自由な楽市楽座(自由市場と民間企業の規制緩和)をインフラ環境で、働かせることを想定していた。
ヨーロッパには、キリスト教の共通基盤がある。東西問題の解消は、国民に広義の愛がめざめるとき、民主化要求の
ような社会運動発生すると、共産党独占体制では、多勢に無勢で、体制は持続可能ではなかった。さらに、東西両陣営では、
広義の同士愛が、国を隔てても互いを認め合うつなぎになったとき、互いをへだてる壁が消滅した。東欧の民主化が成功した。
ロシアさえ、ロシア正教会が国民宗教に復活した。
その後、ソビエト連邦の解体によって、キリスト教圏とイスラム教圏に大きく、分離され、それぞれが独立した時代がある。
しかし、ロシア連邦諸国と中央アジアのイスラム教国が、ソビエトの連帯に戻っている。イスラム教は旧約聖書、新約聖書は、
コーランで認めているから、国家を超越する広義の同士愛は、コーランの中で、準用でき、宗教的に矛盾はない。解体後、
また、中央アジアのイスラム教国は、ロシアとも連帯している。
その後、東方教会と西方教会は、互いの呼びかけで、ともに会い、歴史的和解をした。英国の長老教会もバチカンと
和解したかは、日本には、伝わってこない。しかし、EU結成は、キリスト教の広義の愛が、連帯の行動因になっているため、
トルコは、加盟が外されている。
2020/6/12 帰国
イスラエルから帰国して、9月に入り、Rosenmueller 教授と面談した。最初は、ドイツ語だったが、話す力がないと判断され、
途中から、英語でしゃべれといわれた。経過と研究目的を英語で、話をした。その結果、研究をすることを認められた。
研究者の話だから、私が市場ゲームしか、期待効用と関連がないので、自分の市場経済は(プレーヤーの集合、財空間、
選好順序、初期の財保有)で定義すると言われた。その経済の答えは、市場均衡だが、「西ドイツの学界では、ボン大学の
Hildenbrand教授の市場経済と同じ立場であり、市場均衡に、Coreが入ってくる」と定義するようになっている。
私は、これに対して、交換経済だが(プレーヤーの集合、財空間、期待効用関数、初期の財保有)と定義し、
市場均衡の存在を示すことは、Rosenmueller 教授も、ご自分の著書の最終章、CHAPTER 5 MARKET GAMESで示して
おられるので、お見通しだったろう。
そして、それぞれの文献を読み、2本の原稿を書く始めた。Rosenmueller 教授と面談したが、研究発表しろとは言われなかった。
教授も、アメリカから帰国して、新学期も始まり、忙しかったのだろう。
まだ、休みがあるから、大学に会話研修のクラスがあるから出たらどうかと勧められたが、残り3カ月で、ドイツ語会話を
学習するのも、意義はないと思い、行かなかった。
神戸大学の図書館に籠って、長く、研究生活を続けて来たが、Bielefeld Universityの図書館は新設大学で、経済学関連の雑誌が
同じ階にあり、数学、統計学も同じところにあって、文献を調べるのに、時間が節約され、研究者には実に理想的だった。
古いと、専門が分化し、建物が、別れて、2カ月たつと、1981年3月まで、頭にあった研究のテーマをすべて思い出した。
1986年で時間も経過したが、仏経済学者J. M. Grandmont, “On the short run
equilibrium in a monetary economy,”1974と
J. M. Grandmont, Money and Value: a reconsideration of classical and neoclasical
monetary theories, 1983、さらに、その間の文献も調べ、
コピーした。記念論集の原稿「多計画期間をもつ貨幣経済における一時的均衡」追手門学院大学20周年記念論集、経済学部篇
昭和62(1987)年3月15日発行)は、Grandmont
の(1974)に、多変数期待効用を導入したものである。市場ゲームも、Rosenmueller 教授
の著書を読みだした。私の期待効用関数を導入し、市場を設定すし、市場の均衡解がcore(コア)に属する定理にした。その証明は、
帰国後に予定していた。
(帰国して、1987年1月9日提出している“Market Game with Transferable Expected
Utilities,”O.E.S.,19,1986。これらを出さないと、
大学も、金融論担当者として評価できなかっただろう。首がつながった。)
そういうわけで、教授に会うわけもなく、11月に入って、呼び出しがあって、指導できないと言われ、弁明書をかいて、教授も
返事を文書で渡してくれた。教授は帰ってくれと言われた。学生マンションで、研究員も友達を訪ねて、私の研究生活が
どうであるかは教授に伝わっていただろう。
マンションの前の、農家の2匹の羊が、柵の中で飼われていたが、連れ出されてどこかへ行ってしまった。晩秋になり、売られた
のかもしれない。朝、私が羊の柵に近くの草むらから、日本の国鳥、雉の雌が、こっちの方向に近づいてくる。日本が呼んでいる
と伝えに来たみたいだった。木々の枯れ葉は、落ち始め、ヨーロッパの冬は体験したことはない。冬物は買ってなかったので、
これもつらい経験だなぁと思っていたが、その前に帰ることができた。当時の日本の首相は中曽根首相で、1987年の冬、東ドイツか、
バルト3国か極寒のとき、空港で迎えの人とあいさつしていた。とことん、凍える寒さがテレビ画面に伝わってきた。
1987年1月9日、恩師の林治一先生が亡くなった。葬儀には、参列し、焼香させていただいた。1976年、理論経済学に移籍し、
この留学で、博士論文の経済システムに、自分の期待効用を導入することができ、新しいスタートができた。金融論は
Grandmont の(1974)を拡張していき、金融先物市場の均衡に発展させた。集団的期待選好は、EU加盟国の行政需要
の集計と、EUの公共サービスの独占的供給とを均衡させる公共サービス価格を決定する理論に使えるようにした。
2020/6/12 宗教サイクルの実践 イスラム教
モロッコ タンジェ ラバト カサブランカ
学生マンションは、若い人ばかりで、個室だが、男女共同生活である。彼らと話をするにも、年が離れているし、生活や
、市役所、大学では、片言ドイツ語で、要は足りる。これが、ドイツ語会話力が明らかに低下した理由である。その分、論文を
書く準備をするため、夏休みで、学生が少ない大学の図書館に通った。
学生マンションでは、掃除とトイレ・シャワールームの清掃が回ってくる。炊飯器を送ってもらい、夕食は、白米を食べていた。
精進料理も、豚肉抜きも、サイクルが来ると4週間、それぞれの宗教にもとづいた料理を作った。
9月、イスラエルから帰って、イスラムのサイクルに入り、王家はマホメットの血筋であるのはヨルダン王、モロッコ王
であるというのを読んだ。
実は、1981年当時、サダト大統領暗殺後、また、断食状態になった。過去を振り返り、部屋で座敷のテーブルの前で、
しゃべりだした。自分の全てを繰り返し、吐き出して、悪いこと、体裁ぶったことは、懺悔して、終盤に近づき、最後に、
自分の心に閉じ込めていた人を愛する心が解放され、それが残っていたことに気が付いた。それに気づいたとき、胸が
締め付けられるような痛みを感じた。個人的には、グラーツの彼女に対する愛を告白していなかった、自分で封印していたと
思った。それは、忘れた過去であり、片思いのようなもので、愛というのは、自分を捨て、捧げることだから、相手に必要が
なければ、迷惑でしかない。それよりは、人々を愛するから、自分でできることで、社会に貢献したい気持ちがあった。
利己主義で、自分のことしか考えてこなかったということである。
抽象モデルを研究していると、具体性を欠き、それが、経済社会の現実問題でみんな苦しんでいるのに、役に立つの?、
役立つなら、その考えを実践して、少しでも、現実問題を解消し、それに苦しんでいる人々を助けなさいということである。
そこで、星の子ハイツの南側の窓をじっと見て、「南を救いなさい」と思った。だから、終局的には南北問題の解消である。
東西問題はそれよりは小さい問題だが、解決しないと、私は資本主義者だから、市場主義的手法を使うことが、
南で実践できない。
そのとき、ヨーロッパとアフリカが南北問題で、南を助けるのは、北アフリカのモロッコと思い、日本の高校地理の教科書を
買い、付録に経済データあるので、現状分析をし、発展計画を計算してみた。モロッコ大使館に、どうアクセスしたらいいか、
電話をかけ、エアフランスがいいと言われた。
(今回、オーストリア学派は、市場均衡論がある新古典派の一派であるのと、アメリカ型でもない独自の景気変動論、
経済成長論がある。ウイーンに国連の経済開発機構があり、ウイーン学派の影響下にあるだろう。)
1982年、正月過ぎ、修正原稿を書き、アメリカに送って、私も、愛を実践しないといけないので、彼女には、“I love you.”だけ、
タイプで打って、手紙で送った。母親には、経過を書いて、1982年、夏、訪問すると手紙を書き、ケルンの家族にも手紙を
書いた。スペインの下宿の夫人にも、手紙を書いた。
1982年、ソ連をもう一度、同じコースでモスクワまで行った。ソ連は、私たちのツアーをとても歓迎してくれた。ナホトカの
歓迎会で、日本人のおじいさんに、帰化すると200坪借りられるから、どうかと勧められた。まあ、基本的には、人だけでなく、
動植物、海生生物が好きだから、ロシアは、自然だらけで好きであるが、黙っていた。
そして、彼女に会って、愛の決着がついた。もう一つの「無償の愛」が、今も続く情熱であり、まず、1983年から、東西問題に、
はまっていくのである。それが成果をあげれば、開発途上国の社会主義的手法は、計画の合理性、整合性がないから、南側を
市場経済型の手法で経済発展させるということである。
中国に1983年3月、ツアーで、社会主義経済体制そのものを西安・北京・上海をみて、鄧小平の経済開放、市場経済論で、
日本が中国の市場経済化に協力、直接投資をするという図式を、一貫して、推進することになる。中国の経済開放、市場経済論は、
私の立場と矛盾しない方法である。中国は、社会主義的市場経済論が、胡錦濤時代まで続いた。私のゼミにも、中国人留学生が
大学生、大学院生が来た。
イスラエルに行った後、宗教の実践で、すでに、仏教、ユダヤ教、キリスト教の聖地まで訪ねた。エジプト、イスラエルに
行ったので、モロッコを思い出したわけである。ヨーロッパとアフリカの南北問題である。また、町の旅行社のおばさんに、
モロッコのルフトハンザでTangier、Rabat、Casablancaから、帰国するコースで、タンジェ、カサブランカ間は列車である。
タンジェは、ジブラルタル海峡のアフリカ側の港町で、ホテルは予約していた。雰囲気がイスラム世界だ。水たばこと、
ミント・ティの喫茶店がある。スペインに1983年約1カ月に滞在したが、モロッコ側から、軍事的要衝ジブラルタル
海峡見てみたかった。
列車の切符を買い、ラバトに行き、駅前のホテルで、泊まり、町を歩いた。人々が、エジプトとも違う。市内を歩いて、
あれこれ見て回った。水売りがいて、売り方が面白かった。そして、あの映画とカスバで有名なカサブランカにいって、カスバも、
夜中、迷路のような街を歩いた。イスラム教徒の生活を見た。これは、私にとって、イスラム教徒の宗教にもとづいた日常生活が
体験できて良かった。聖クルアーンだけではどう暮らしていくのかは、わかるはずもない。カサブランカで、アラビア語と
フランス語のLE SAINT CORANを買った。イスラム教の実態を経験する、素晴らしいいイスラム国だった。
1988年9月、トルコ、軍事的要衝イスタンブールに行くが、イスラム時間の流れは、モロッコと同じではない。
2020/6/10 宗教サイクルの実践 聖地訪問 エルサレム 東エルサレム
アテネから帰って、1週間、あれこれ考えた。あのホテルは旅行社の手配で、国会議事堂が近く人通りが少ない
あの赤黒く日に焼け、しわが目立つおっちゃんが、そこにいることが不思議なくらいだが。航空会社の女子職員が
自分の心臓に、右手をピストル型にして、指さすから、今考えると、街中は本当にいろんな意味で危なかったのかもしれない。
私はその場の雰囲気が違うとき、抵抗せずリスクをそのまま受け取り、自然体になり、捨て身になるから、やっぱり、
標的になるだけだったかもしれない。アテネは、当時、ヨーロッパの東西のテロリストが集まる町とか言っていた。
原因は、エルサレムを訪問する計画を全く今回の留学で考えてもいなかった。イスラム教のメッカもそうである。
インドとは違う中東の国同士の緊張関係が、よほど適切にtimingを取らないと、一般の者は面倒なことになる。
帰国時には、仕事も終わり、その研究発表も終わって、timingが合えば、エルサレムは行っただろう。それで、また、
Bielefeld、おなじみになった旅行社のおばさんに、テルアビブ行きの往復チケットと1泊のホテルを予約した。
Bielefeld空港から、フランクフルトに出て、出国カウンターで、チケットとパスポートに、係官が質問をし出すと、
すぐさま、うしろから、中年の人が、係りに声をかけ、私の前に出て、小声でしゃべりだした。そして、その人は、
消え、係りは出国許可を出した。
飛行機に搭乗する前に、装甲車が止まっていて、機関銃を手にした兵士が見守る中、乗客は、自分のトランクを指示した。
そして、飛行機は離陸、テルアビブ、ベン・グリオン国際空港に着陸した。イスラエルの旅ガイドは持っていたので、
よく調べると、パスポートに、査証スタンプを残さない方法が書いてあった。これがあると、
アラブ諸国に入国を拒否されるとある。書類を書いて、パスポート・コントロールで、入国許可が出た。
スタンプは押されなかった。
父の友達の息子が、京大にいる間に、日本赤軍に入って、この空港で他の仲間とテロ事件を起こし射殺された。事件後、
父が、射殺された息子の父の悲痛さを見て、「お前はするな」と何度か言ったのを覚えている。
ホテルに着いて、夜、テルアビブの海岸通りに出て、海で遊ぶ人、屋台で食べ、飲む人たちと一緒だった。
次の日、道路に出ると、私は、政府のガイドだ、エルサレムに行くのかという。ぼられるなぁと思いながら、車に乗った。
ガイドだけに、6か国語しゃべれるという。途中、ヨルダン軍の戦車の残骸が残っている。イスラエル軍のヨルダン軍との戦いは、
映画になっていて、テレビで見たことがある。エルサレムのYMCAを勧められと思う。チェックインするとき、見知らぬ韓国人が、
「先生!」と呼びかけて来た。ウイーン駅でも、「西村~」と呼びかける2人もいたし、グラーツでは、日本語を教科書のような
話し方をする女もいたし、北か南か、こっちに干渉してくるものもいる時代だった。なんなんか、いまもわからない。
YMCAは、アメリカが支配しているような存在で、丘の上にそそり立ち、エルサレムでよく目立つ。シアトルに行ったのが
よかったかなと思った。その日、YMCAでチェックインして、昼寝をしていると、真上の階から、ベッドがギシギシと、
リズミカルに音が伝わる。昼間、Hをしている。聖地を訪ねる人もいろいろの目的で来る。音が終わるとしゃべり声が
聞こえ、ふたりは肉体的に癒されたのだろう。この留学では、こういう営みというか、誘惑というか、愛かエロか、
試される場面も多かったなぁ~。宗教サイクルをつくり実践、聖書、聖典を体得しようとしているので、日常の行動には、
どうしても倫理的な自制がかかってくる。
散歩に新市街に出た。エルサレムの新市街は、YMCAの丘の方向になる。メイン通は、何度か歩いた。途中本屋で、
ヘブライ語の聖書を買った。石のレンガサイズブロックを積み上げる独特の兵器面が多い。町も防衛的にできているのか、
通りに面する壁は厚いが。」
夕食時、かなりの年寄りと席がいっしょになった。どこから、と聞かれるので、大阪です。表情がますます柔らかくなって、
大阪は好きらしい。ユダヤ人はアイデアを尊ぶ。大阪も誰よりも、アイデアが先行し、それをすぐ形にし、全国展開を考える
行動パターンがある。 次の日、ガイドは、旧市街と誕生教会を案内してくれた。ガイドは、城壁で囲まれた旧市街の
向い側につれていき、ここが最後の晩餐の山上であり、その向こう側は、黄土色の土地が果てしなく続き、死海方面だと言った。
旧市内を城門から入り、キリストの受難の道順に、ガイドが場面を説明しつつ、処刑された丘にたどりついた。そこから、
近くの、周囲、塀で囲まれた、建物の中に入ると、遺体が置かれたという赤黒い石に置いてあった。さらに、地下の穴倉が
下につながり、途中、黒い服を着た修道士が祈る場所があり、また、階段を上がって、もとの赤黒い石のある入り口に出た。
そのあと、旧市街の城壁の外に出て、途中、ガイドは、知り合いの店で、話し込んでいたが、私は、鳥かごにいる小鳥が、
帽子をかぶったような小さい羽根をもっているのを、珍しく、じっとみていた。そのあと、クリスマスイブで世界中継される
、誕生教会に行った。その中に、暗い地下室があり、馬小屋と言われ、ここで、イエスが生まれた。その場所の壁の方をじっと
見ると、黒いあごひげをもった成人の男の顔が浮かび上がった。だれかわからない。
そのあと、教会の二階に上がると、二つの肖像画が並べてあった。左はドイツ皇帝ヴィルヘルムⅡ世、
右はロシア皇帝ニコライⅡ世であった。この教会の守護者だったのだろう。ともに、第一次世界大戦で起きた革命で排除された。
今、ドイツにいて、ロシアを何度も行くようになり、その前は、この二人が、君臨していた。唖然とした。オーストリア皇帝は
なかった。グラーツに住んでいた、その継承者は、暗殺されて、第一次大戦となり。そして、革命で王政は終わった。
その帰り道、ガイドの人が、金のネックレスを変えるとかで、東エルサレムの住宅街の坂道を、ガイドが先、私が、その後で
下っていると、「パン」を乾いた音がすぐ後ろから聞こえた。私は捨て身だから、ドキッとはしたが、2発目はなく、ふたりとも、
傷はない。後ろを振り返ったのはガイドで、「こらっ!」みたいな声をするどく叫んだ。すると、中学生の子供が私のそばを、
銃身の長い、黒いおもちゃピストルをもって、私たちの坂を走りさった。金商人の店で、ふたりでぼそぼそしゃべっていた。
Hiltonホテルの前で、ガイド料金とタクシー代を払って、相手が満足した額を支払って、別れた。ナイルHiltonの私を知って
いるのか?なんか、イスラエル政府の演出があるような流れだが、できすぎていると思ったが、歓迎していただいたのだろう。
出発まで、旧市街はよく歩いた。ユダヤ人は、親類婚が多いのか、遺伝の人も多かった。他方、パレスチナ人は、黒の装束
の服を着た、パレスチナ人の婦人が通りを歩いていて、私を通りこしていくとき、「頑張ってください」と声が聞こえた。
受け止めたが、せいぜい、オスロ合意までは、うまくいっているなと見ていた。
ひとりになって、嘆きの壁まで歩いて、右側に入ろうとすると、そっちは女性の祈る場所で、左側が男性の場所だと
おじさんが言った。ただし、入るには帽子をかぶって下さいと言う。ユダヤ教ではないので、頭を下げて、嘆きの壁の上
の神殿跡に登った。嘆きの壁の石組を見るを、大きさにばらつきがあり、整然と調子が同じに組んではない。神殿基礎の石
の上にすわった。パワーを体に感じた。
黄金のドームまでいく。中は入れて、岩が石で囲まれている。その岩は、いけにえの岩か、マホメットが昇天した岩だ。
座って、じっとしていると、「ヘイ」と呼ばれ、外へ出た。また、赤黒い石のある建物に行ったら、入り口から入ると、こ
れまで、野郎の声ばかりだが、これまで聞いたことのない、きれいな女性の声で、「あなたは死にます。」とささやかれた。
天使のささやきなど、聖書、聖クルアーンを読むと、啓示がそういう方法でささやかれるというのを、知るものがやっている
のではないかと思っている。私に対して、神から天使を通じて啓示をささやいているという図式をもつものが、やっているのだ
と思っている。啓示妨害だ。
地下室を想像して、まだここでは死ねないと思い、引き返した。それを目ざとく見つけた若者が、「怖かったの」と
笑みを浮かべ言った。そうだと答えた。
写真は撮って帰ったが、大学の現像に出したら、イスラエルの写真は写っていなかった。
2020/6/10 宗教サイクルの実践 聖地訪問 地中海思想
カルナック神殿、王家の谷
1986年3月、準備万端で、エジプト カイロに行った。タイ航空で、バンコックで、トランジットになって、ファーストクラス
だったように覚えているが、私の働きで配慮があるのかなと主観的に思う。上空から、カイロは、砂漠に、雨で、もやっていた。
ナイルHiltonに泊まった。ピラミッドは、黒人のタクシーの人が案内してくれた。らくだやおじさんがいて、乗らなかったが、
写真はとってくれた。私は痩せこけて、疲労した顔で写っているが、私の頭の上に、遠くのピラミッドが乗せて写していた。全く、
どうゆう意味だ?カイロ博物館で、ツタンカーメンの遺品をみた。ホテル周辺は、ナイル川に面していて、散策した。ムバラク大統領
の非常事態宣言下で、夜間外出禁止だったと思う。旅行社で、アスワンハイダムで移設された神殿とカルナック神殿・王家の谷の
ツアーを申し込んだ。1泊2日である。カイロ駅から、ルクソールへ出発した。カルナック神殿は列柱の先に、大きなプールがある。
みそぎしたのか、儀式はやはりここだろうなぁ。ガイドは洪水の後が柱に残っていると説明した。向こう岸に船で渡って、
ツタンカーメンの墓を見学した。その帰り、近くの農家と農民を見ている間に、ツアーは出発して、対岸に渡ってしまった。
他の大きな船に、乗って、向こうに渡してくれたが、ホテルまで相当歩いた。後は、また、列車でカイロに帰った。夜、スフィンクス
とピラミッドに照明を当て、音楽を流し、説明していた。劇場で、アフリカ女性のダンスと、ベリーダンスのショウがあり、
ダンサーが、そばを回ってきて、ささやきと香水のにおいが通り過ぎていった。そのとき立ち寄った、土産店で買った、虫が丸を
崇めている絵文字のキーホルダーはまだ使っている。
旅行社が勧めるので、アレキサンドリアに行きたいと申し込んだら、当日、アレクサンドリアは雨で洪水だから、スエズ運河に
行くという。途中はサバクだ。スエズ運河のトンネル管理所の中を見せてもらい、トンネルを車で抜け、かつてのイギリスの建物が
残っているところでイスラエル軍の壊れた戦車を見せてくれた。中東戦争で、トンネルをほって、イスラエル軍をシナイ半島から
駆逐したと、ガイドは誇らしげに説明した。サダト大統領の暗殺がきっかけだったが、過激派との戦いは続いているのと、イスラエル
とはアメリカの仲介で和平状態にあるのを見せたかったのだろう。私の1981年10月当時の危惧は、こういう状態になっていた。
紀元後に近づくにつれ、王と集団的民の関係で、古代の宗教があり、個人は草であり、泥で、王のための宗教であり、
個別の民の救済はあり得ない時代だったろう。クレオパトラ時代に近づくにつれ、富裕層の顔の墓標が出てきて、イエスの時代は、
個人主義になってきたのかと、エジプト文明展をみるたびに、考えることがあった。
また、石の強大な神像や、王家の谷を見ると、西安の皇帝の墓に技術が移転したのだろうと思った。秦の始皇帝の兵馬俑は
古墳の埴輪と同じ埋設である。
地中海思想・キリスト教 アテネ(Aθηνα)
Bielefeld Universityは、夏休みになった。土日は、旧市内と周辺の砦のような城をみに、バスで出かけた。朝は、近所の農家を
まわって散歩した。オーストリアから帰って、第2次世界大戦の米英とドイツ軍の戦闘映画をよくテレビで見た。必ず、アメリカ軍が
勝って、ドイツ軍は負ける。よく、農家のシーンがある、ここも戦場か、と思うこともあった。表立っては、霊媒が付きまとうので、
内心がばれるので、ぼかしていたが、ドイツ軍の展開を思い浮かべることがある。ヨーロッパは、ポーランドまで、1984年3月
ワルシャワで終わり、ロシアはレニングラードの運河も弾痕がないのかよく見た。ボッパ-ドにいるときは、ライン川にかかる
レマーゲン鉄橋の映画のシーンを思い浮かべた。
地中海思想の12週が始まり、大学近くの旅行社で、ギリシャ神話時代、ギリシャ正教を考えるために、土日でアテネに飛行機で
行った。行く前に、大学近くの美容院で、久しぶりにヘアーカットしてもらった。アテネに着くと、ホテルも予約していたので、
荷物置いた。午後2時ごろ、無警戒に、近くの喫茶店の外の椅子に座って、ぼーっと、通りを見ていると、ひどく、しわくちゃの
海やけした、中年の男が、となりにすわって、話しかけて来た。神戸を知っているという。船員だ。他に人気もない。近くの店が
あるから、一緒に行こうというので、ついていったら、男と女がしゃべって、飲んでいるだけだった。アテネは、治安が危ない
のかなと思いつつ、無防備でうかつだったが、ビールを飲んで、ホテルに帰った。
左翼テロが頻発しているとか、アメリカの議員団が取り締まりを要求したとか、報道されていたが。また、あのおっさんに
捕まって、前よりはきれいで広い、店に連れていて、そばに、女給仕の役目の中年の普通の服を来たおばさんが座った。左手を、
両手でさすってくれた。こっちは、女の人にいやされることは想像もせず、ギリシャ神殿か、ギリシャ正教会だけが目的なのだが。
それだけで、さすってもらったのが効いたか、ホテルに帰って、朝まで寝た。マルクを半分支払っていた。人通りは全くなく、
あのおっさんだけで、不思議だったが、気持ち悪いし、予算は使ったので、ホテルをチェックアウトして、航空会社にいき、
帰国便を手配してもらった。チケット作ってくれて、カウンターの若い女性職員は、胸の真ん中が、ジッパーになっている
胸の心臓の方を手で指し、こっちを横目で見た。「あのね、違うんだけど」と言いたかった。
アテネ市民って、ギリシャ正教、ギリシャ神話、プラトン、アリストテレスで、全く、現物のなにかは、まだ触れていない。
私は外国人だが、まだ、目的もはたしていないのに押し付けてくる。なめられているなぁと憤慨し、エルサレムに本気で行くこと
にした。アテネオリンピックは、ニュースでしか見てないし、ギリシャ国債暴落に際して、全く、助ける気にもならなかった。
行っても、ホット・スポットがあるわけないし、ギリシャ危機のとき、社会主義者の政権で、国家公務員が主要な産業であり、
船主は、資本逃避していた。船員であるおっさんは、社会主義者の神戸を知っているから、助ける必要はない、市民は感謝する
ほどやわな根性は持っていないぞと、おばさんは左手をさすり続け、早く帰りなさいと指示したのかも。ギリシャ市民は、
暗喩、隠喩だらけで、正直山口農協、「山口の橙(ダイダイ)はすっぱいよ!」といってくれんかなぁ~。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教 エルサレム 東エルサレム 86/8
2020/6/10 太平洋側の米国・カナダ旅行 1986年米国とソ連の軍事衝突がないように
長岡京市に6月引越して、学務・教務以外は、米国旅行とインド旅行を計画していた。1985年8月22日~9月、正確な期間は
調べないと分らないが、2週間ぐらいの予定で、当初、ハワイ・サンフランシスコを訪問する予定にしていた。
1985年3月になると、ソ連は、チェルネンコ書記長3月10日に死亡、3月11日ゴルバチョフ書記長が就任した。ゴルバチョフ
書記長は、西側と融和的なスタイルと、国内経済の立て直しで、ペレストロイカを始めた。この改革は、ベトナムでは、私の東欧
視察旅行の手紙とよく似ているが、ドイモイ改革といわれ、ソ連に関係する国々は、ペレストロイカに合わせて改革を始めた。
私の出張中の1982年、1983年、1985年と、書記長の死が3代続き、指導もなかっただろう。ソ連を指導する人物が不在で、
ブレジネフ書記長の方針の踏襲しかできなかったのかもしれない。中国は、鄧小平主席の社会主義市場経済が立ち上がっており、
成果が上がっているので、ゴルバチョフ書記長も研究したのだろう。
しかし、ソ連にはお荷物があった。1978年ソ連軍のアフガニスタン侵攻以来、ムジャヒディンの掃討に、泥沼化していた。
アフガニスタン人は、中央アジアのホテルで、ビンの栓抜きを貸してもらったとき、アフガニスタンから来たと言った。もう一人は、
カフカス山地で、夕方、ホテルの前に出たとき、若い地元の男がいて、日本人かと聞き、柔道の山下をオリンピックで覚えている
という。アフガン戦争に、イスラム系の兵士が投入され、犠牲者が出ているから、戦争が早く終結するのを望んでいると言っていた。
ソ連は、この戦争に、直接介入しているので、軍事費と犠牲が毎年発生し、タリバンが腹の皮をはぐとか、アメリカインディアンと
同じように、ナイフ遣いがうまく、えげつない殺し方をするから、兵士も嫌になるのだろう。こんなところに来る日本人はいないから、
頼めば、なんかの足しになると思ったのだろう。1989年ソ連軍は撤退する。これが、東欧の民主化に、ソ連軍が投入できなかった、
大きな理由だったかもしれない。ゴルバチョフ書記長のぺレストロイカは、経済改革が、中央集権主義より、分権主義の方が、ソビエト連邦
の各共和国に、独自性をもたせ、赤字財政国をあぶりだし、そこだけに資金を投入する方が、連邦財政が効率化する。
1983年9月1日の大韓航空の撃墜事件のように、留学中、東伊アジアで事件が発生するのはまずいと思い、米国がソ連と
軍事衝突がないように、原子力潜水艦基地があるシアトルを選んだ。ここが、普通の人と想像することが違うのである。米国旅行は、
ハワイ・サンフランシスコを予定していたが、日航が墜落後、シアトルに滞在し、バンクーバーに行き、ひょっとして、カナダ大陸
横断鉄道かなと思っていたが、神戸領事館にビザを受取りに行ったら、日系女性館員が、ビザを渡すとき、真顔で「あんた死ぬよ」と
大きな声で言った。やはり、米国への、命がけの旅行が始まっているのだと、観念した。
米国旅行は、日航機の御巣鷹山、墜落事故が8月12日あり、成田シアトル直行便で、ユナイテッド航空機は日航機と同じ型だった。
このころになると、ビジネスマンみたいに飛行機に乗っているので、落ちるのではないかと恐れるようになる。
シアトルは入国したが、トランジットで、バンクーバーにした。黒人の体の大きな女性職員に、ついていって、乗り換えた。
バンクーバーは長い緑地帯のある所のキッチンがあるアパートホテルをかり、船で、ビクトリア・シティに行って帰った。また、
同じコースで帰国した。米国に存在をアピールした効果があったかもしれない。留学中、太平洋でソ連と米国の軍事衝突はなく、
1983年9月1日の悲劇は生じなかった。
東西冷戦下の西ドイツ留学出発
エジプト・カイロから、Boppard Goethe-Institut
出発まで、もろもろの準備が終わり、実家に帰った。留学中の送金口座を作り、父に、万が一、亡くなっても、帰国しないと
言ったので、祖母の見舞に行った。見ると元気だった。万が一となり、5月中旬、祖母は亡くなった。父母の結婚日に亡くなったので、
神力の家に行ってふりかえったそうだ。
カイロを経由して、西ドイツのフランクフルトから、語学研修2カ月をボッパ-ドBoppard
Goethe-Institutで受けることにした。
最初は、ゲッチンゲンGoettingen Goethe-Institutで語学研修を受けたかったが、だめだった。理由は、分からない。私がゲッチンゲンを
選んだのは、大学院時代、後尾先生とKolmogorov=Fomin『函数解析の基礎』岩波書店1968年を後尾哲也研究会で、先生と最後まで
読了した。私は、自分でK. Yosida Functional Analysis,
Springer-Verlag Berlinを参考によんでいた。Hilbert spaceで、D.Hilbertを知って
いたので、数学者を多数輩出しているゲッチンゲン大学で、調べたかった。もう一つは、オーストリア学派のハイエクF. A. von Hayek
との関連である。
カイロから、ボッパ-ドにつき、Boppard Goethe-Institutは、日本人もいて、国際色豊かだった。中級でなんとか、クラスが
決まった。話すのは流暢でなく、いつものとおり、成績が悪い。ここで、ユダヤ人、トルコ人、ヨルダン人、パレスチナ人、
リビアの工事手配をする日本人を知る。5月下旬、チェルヌビイ原発事故が起きた。
6月、Bielefeld大学に行き、数理研究所を紹介され、事務の人と話した。J.Rosenmueller教授は、ハーバード大学に留学中で、
9月過ぎ、帰国という話であった。語学研修が終わり、下宿を引き払って、学生の貸マンションを借りた。市役所で、外国人登録を
した、月1回、報告に来るように言われた。
Bielefeld大学での研究活動
動学ゲームの文献は少ないことがわかった。市場ゲームは、Rosenmueller教授の本から、Chapter 5 Market Game、
2.Transferable utilityに、加法的効用を定義することを考えた。先輩の教授から、論文を20周年記念論集に載せないと
いけないと言われていたので、少なくとも1本(Market Game with Transferable
Expected Utilities, O.E.S,19, received Jan. 9, 1987)
はできた。もう一つは、Granndmontの一時的一般均衡論を、加法的効用を使って、多期間モデルに拡張することだった。これも、
Bielefeld大学は、新設大学のようで、同じ階で、関連の研究論文を探すのも楽で、体系的に、コピーできた。論文は、10月以降、
準備を始めた(Temporary General Equilibrium in a Monetary Economy with Multi-Planning
Periods, in Essays and Studies published
in Commemoration of the 20th Anniversary of Otemon-Gakuin
University, March, 1987)。
この結果、助教授に昇格できるようになった。これらが書けなければ、金融論の担当者としては、金融論への道が開かれず、
講師のままだった。学生マンションで、夕食は作り、大学で、体系的に、研究のための体系的な文献コピーをしていった。
9月Rosenmueller教授が帰られ、これまでの経過をたどたどしいドイツ語では話したが、英語で話してくれと言われるので、
これまでの経過報告をした。大学には、ドイツ語研修過程があるので、参加したらと言われた。ボッパ-ドの研修は無駄の
ようで、英語が話せるほどでもなく、すごく、混乱した。言い訳になるが、研究歴が長く、思索型に慣れているので、言葉を
つい選んでしまうから、日本語でもたどたどしくなる。手紙等、書く方は上達していた。
なんか違うとは、気になったが、結局、研究を中断して、帰国するように要請された。教授とのコミュニケーションがうまく
いかないということが主因のようだが、夏休み、旅行をしたことは言われなかった。これまでの研究経過をドイツ語で2枚、
タイプで書いて、Rosenmueller教授に渡したら、自分で書いたのかと疑われた。
夏、ウイーン大学のHildegard Dierker教授の報告会のように、研究員の報告会にも、誘われなかった。研究員できていて、
滞在費はこっちが負担しているのだが、理由はわからない。
2月まで、市役所で事情を話し、普通のビザに切り替え、学生マンションに踏ん張り、コピーした論文を消化し、2本論文は
書けそうだったが、追手門大学の教務課に、電話連絡し、留学を中断することにした。帰国したら、2本を書き出した。
ところが、1月9日、恩師林治一先生が亡くなったと、新聞の訃報欄に載っていた。びっくりして、葬式に参列した。足立英之先生が
跡を継がれていた。足立先生は、こっちを見て、「帰って来ていたのか」とびっくりされ、「林ゼミに入れる」と言われた。
帰国後、部長に説明し、学長にもお詫びの手紙を書いた。
これで、1971年4月ごろ、私の将来計画について、姉に約束した①大手商社,②大学院、③留学の3つは、達成した。
1986年12月、アエロフロートで、ウイーン・モスクワ経由・成田の航空券を買い、コリもせず、グラーツに行き、母親の
マンションを訪ねたが、留守だった。ウイーンに帰ることにした。中心街のホテルに、はじめて泊まった。1984年3月ウイーンと
雰囲気は変わりなく、霊媒音も聞こえる。母親は、妹は修道院に入った、姉は子供が二人いて、最初の家に住んでいると、
手紙を、Bielefeld Universityでもらった。母親だけ、最後の別れにきた。
この家族と別れるにあったって、私は、一体なぜ、この街に導かれ去っていくのかと、反省してみた。第1はシュンペーターで、
この街のグラーツ大学(1912~1914)で、Theorie
der wirtschftlichern Entwicklung,『経済発展の理論』1912年を刊行している。
邦訳があるが、1971年の時知っていた。第2に、町を回ってみると、地動説のケプラーがグラーツに住んだことがあって、星の
観測をしたとか、案内板に書いてあった。ケプラーの法則があるが、太陽系の運動法則かなと思った。Kolmogorov=Fomin『函数解析
の基礎』岩波書店1968年を後尾哲也研究会で、先生と最後まで読了した。Kolmogorovは、太陽系は動学的安定性を示したが、1981年
の秋、太陽系の終末を太陽がエネルギーを使い果たし、拡散・膨張し、その中に惑星、衛星は飲みこまれてしまうと想像したことと
矛盾がないか、今後考えてみた。これは、資本主義の未来は、最終的にどうなるのかという問題とよく似ている。
Bielefeld Universityでのこの経験で、短期留学は、英語に切り替え、1992年インド、Gujarat大学Business Management学部に
短期留学を以降、1993年、1994年、1996年Business Management学部を訪ねた。1997年、オーストラリア、南クインズランド
大学に、短期留学するようになる。東欧民主化、ソ連解体後、アジアの南北問題の解消に、全面的に、専念するようになった。
たとえば、1995年、阪神大震災後、オーム事件の全容がわかると、ロシア軍ヘリコプターを教団が保有していたのが気になり、
1995年夏、2週間ウラジオストクにロシア語研修に出かけた。ウラジオスットク工科大学の部長さんと話し、ハバロフスクにも
行き、ロシア人の若いガイドさんに、解体後のロシアについて、軽く、聞いた。帰ると、ロシア政府は、アジアにも目配りする
ようになった。オーム教団はロシアにも手を伸ばしていたことも本当だった。
ロシアお土産で、モンゴル・中国・北朝鮮・韓国・ロシア・日本の経済開発協力を形にすることを、北陸経済連合会を訪ね、
そういう経済開発協力UNIDO(ウイーン本部)に、新潟県と協力して、進めたらどうだろうかと話しに行った。プーチン大統領
になっても、この計画は歩みが鈍いが、つづいている。まあ、WHOにしろ、UNIDOにしろ、議論は多いのだろうが、経済開発は、
需要あっての開発であるから、スピードが大事である。2020年たっても、成果が知れているというのは、この開発は無理だ
ということでもある。私のアジア南北問題は、とにかく、資金をつけて、人をあて、インフラ開発を即実行することが、
大事なのである。
スイス、ウイーンで、委員がのんびり、朝のルイボスティを飲んで、インフラ資金の算段をし、開発会議をするならば、25年
たっても実現できない。国際政治をやっている場合ではなく、計画は、資金をつけた実行し、その後、ビジネスにするというのが、
アジア経済だと思う。生き馬の目を抜くようなスピードが、持ち味なのである。現場は実現できれば、町ができ、人が移り住んで
きて、開発目的のビジネスが始まる。
2020/6/9 南北問題へのアプローチ NIES台湾台北・韓国訪問(1985年3月)
西村ゼミ旅行の1984年8月ジャカルタのホテルは、確か、ASEANの会議場であった。ジャカルタ市内、黄金のモニュメントが
あり、ガイドさんは、自慢していた。朝の自由時間、ホテル周辺を散歩し、朝市をみた。日本で懐かしい駄菓子みたいなのもある。
人々の日常が見るのは、面白かった。次は、シンガポールで、観光と自由時間は、英語ができるものがいたので、アポなしで、
進出都銀にグループでいかせた。私は、町を歩き、図書館で、あれこれ本を見た。海のそばに、戦争慰霊碑があり、拝んだ。
旧日本軍が華人を痛めつけた。1976年アジア経由で、帰国便は、シンガポールを経由した。1泊泊まった時、タクシーの運転手が
、徴用工で、こき使われたとか言っていた。こっちはこっちで、覚えているのだ。企業人と帰りの便に一緒になると、インドネシア
でダムを作って、帰るところだと言っていたが、現地の人とまだ苦労している時代だった。
夜、名物の屋台に行った。昼、見晴らしのいいところで、数多くの船が、停船しているのを案内してくれた。中継貿易だったが、
石油化学工業で、製品輸出する。
シンガポールから、列車で、クアラルンプールに行った。ここは、観光で、ヒンズー教の岩山の上に、祠があり、拝む像が
ある。私のゼミ生1人が、階段をのぼりつめて、昨夜の飲みすぎか、突然、祠の入り口で吐いた。掃除させられたと思う。こんな時は、
先生をやめて、係わりたくなかった。ガイドの人がとりなしてくれたと思う。
飛行機で、タイに着いた、まだまだ、経済発展前夜だった。昔のまんまの街並みがあり、朝、托鉢の坊さん、小僧が通る。食べ物も、熱帯特有の香辛料のにおいがする。観光だけだったと思う。最後に、香港にいった。二階建てのバスで、夜の香港を説明してくれた。
工場は、宝石工場とか、土産物の製造工場だ。
ということで、1984年ゼミ旅行は、NIESのメンバーは、シンガポールと香港だ。Newly Industrializing
Economies(NIESニーズ)
新興工業国地域(韓国、香港、台湾、シンガポール)の経済成長が、1985年ごろは、新聞で多く取り上げられるようになった。
それで、1985年3月、一人で、台湾台北、韓国に視察にいった。台北は、総督府近くのホテルに泊まった。霊媒マークはない。
自然音だけだ。市内を、歩いてみると、日本人街もある。ホテルは、しきりと、女性を紹介するというおばさんが部屋に入ってくる。
大学の同僚は、女はやめた方がいいというぐらいで、日本人が行って何しているのか、システムみたいだ。金浦空港に着くと、ホテルから
迎えが来ていた。これも、女性を紹介して、その女性が案内するというシステムだろう。同僚はよく知っている。しかし、それより、
演奏の音が部屋まで聞こえて、寝られない。後の予定はキャンセルし、ソウル駅にいった。駅の窓口で、プサンの韓国語を書いて、
特急の切符が買えた。プサンから、フェリーで下関に帰った。韓国語はしゃべれないが、表情トークのことで、通じるみたいだ。
南北問題は、東アジアでは、この地域の経済発展は、NIESが引っ張る形で、他のASEAN諸国が従う図式が、よく説明された。雁行型
ともよばれる。
南北問題は、NIESと中国から、スタートし、工場見学がメインにしょうと考えた。後は、公共交通網の整備計画である。具体的に、
発展計画を進め、中心産業の代表を見学することができそうだった。
東西問題は、東西の政治・安保が上にあり、東は統治機構の変更を伴うから、終結が難しい。
2020/6/9 宗教実践年間サイクルの実践
聖地訪問 1984年9月~1986年1月
年間サイクルは、12週間ずつ、仏教、キリスト教、地中海思想、イスラム教の聖典と本を読んでいった。
仏教は、空海の十住心は10カ月かけた。その間、仏教の期間は、星も子ハイツから、卍を書き、星の子ハイツを
卍の中心にとり、中心から、東入る、北上がるで、→↑で卍の一部を書き、毎朝、通りをずらして、裸足、ぞうりで
歩いた。この範囲をすべての通りを通ると満願が果たせる仕組みである。1年中、裸足、ぞうりは、学生時代から変わりが
ない。満願頃になると、通りをぞうりで歩いていると、南無阿弥陀仏と聞こえてくる通りもあり、不思議に思った
こともある。京都は、長岡京から、794年遷都した都だから、通りも、生死絶え間なく、起きている、さもありなん。私に手を
あわせる人も出てくる。
聖書は旧約聖書と新約聖書である。イスラム教は、聖クルアーンを読んだ。地中海時代は、アリストテレス、
プラトン、ギリシャ神話である。宗教ではないので、自由勉強になった。学生時代からの勉強の癖で、テーマは組織的に、
全体像を得るように読んでいく。
京都、奈良、和歌山のお寺を飛鳥時代から、江戸時代まで、日本史順に、土日訪ねていった。
長岡京に引越しても、12週間ごとのサイクルは続き、安定してきた。休み中、日本の宗教聖人の聖地を、計画的に
回った。国際宗教の聖地を巡礼する段階に来た。1985年になって、1986年3月出発が決まったので、冬休み、1985年12月
~1986年1月、インド・パキスタンに行き、主に、仏跡を訪ねることを計画した。ニューデリーに着くと、風邪をひいて、
だるく、パキスタンは中止し、帰国した。まだ、戦後の世界秩序が均衡していて、パキスタンに行けるいいチャンス
だったが、残念だった。
長岡京市で、インドへ行くための歩く練習をすることにした。長岡京の西側の山を登り、下って、帰るというコースを
練習した。あれこれ、コースを作り、それらのコースには、平安時代の名残が、数多くあり、極楽浄土を想定して、
西山の中腹に、僧坊も多かったと案内がある。総じて、平安期の大きな阿弥陀仏が多い。京都西山の陵線の北方向に
下る基点に、釈迦岳がある。そこから、なりひら寺に降りてくるコースは、何度も、登山し、大学の同僚とワンダーフォーゲル部員
をつれて、歩いたこともある。最後は、ラジブ・ガンジー首相が京都市を訪問、1985年11月30日、同僚と釈迦岳まで登った。
1985年年末、年始、インドにいくので、遠くから、あいさつしたつもりである。母親のインディラ・ガンジー首相は、1984年
10月31日暗殺された。ラジブ・ガンジー首相は1991年暗殺された。それがきっかけで、インドに毎年、インドが核実験する年まで
、行くことになる。
インド仏跡 ブッダガヤ ベナレス 1985年12月~1986年1月
初めて、カルカッタ(コルコッタ)に着いた。空は、ほこりで舞い上がり、外国人はマスクするものもいた。
車は1950年代の車のようで、ひとひとひとで、それが道路いっぱいに歩くので、ほこりが立つのだろうなと思った。
食事はホテルだけで、ブッダガヤはど田舎だろうし、覚悟しているから、落ち着いていた。三重県の若い人と飛行機が
同じで、ホテルも同じだった。汽車のチケットセンターを探して、ニューデリーまでの切符を買った。次の日、10時頃
チェックアウトし、駅に行き、夕方まで、トランクをそばに、動かなかった。向かい側のインド人が、自分の荷物をばん
してくれと頼まれた。そのくらい信用?ができていた。やっと、夕方、連れが来て、はじめて、小便をしにトイレにいった。
これが、練習の大目的で、大小便を、トイレ以外しないこと。
列車は、木製ボロボロで、灯油缶をのせるものもいる。ブッダガヤは、さぞかし静かだと思ったが、20万人のチベット人
とダライラマが来るという。ひとひとひとで、ガヤはガヤガヤしていた。ニャーランダ川もある。菩提樹のそばに、石造り
の寺がある。周辺は、ビルマ寺があり、日本寺もある。宗教人ばかりが集まっているのだから、願いも同じだ。
宿舎は、死体を置くような、コンクリートの寝台の上で、寝かされた。練習のおかげで文句も出ない。次に、諸転法輪の町
ベナレスに汽車で行った。ガンジス川の川辺で、朝、行水する人々を見た。沖で、死体を焼く柴が山盛りになっている台が
浮かんでいた。人間は泥から生まれて泥の中に死ぬのだという、実感を体験した旅だった。日本では、輪廻思想は、いまいちだが、
インドでは徹底しているというのも、分かるようになる。
仏教の聖地巡礼は、1985年末1986年年始に達成した。旅行中、カロリーメイト、日中水を取らず、
大小便は文明人らしく、駅、宿舎のトイレにした。インドでは、民衆は大邸宅の塀沿いや、線路の上にするものも
多数いて、掃除するのを金持ちが彼らに払っているから、大したことではないのだろう。 合掌。
2020/6/9 東西問題への私のアプローチ模索
・1983年夏、東欧・ユーゴスラビア視察中、ホテルに残した手紙
東欧、ユーゴスラビアは、共産党支配の社会主義経済である国々ばかりである。南北問題で、社会主義計画を
もっている国が多い。たとえば、中国、インドが典型的である。計画の予算割合が高いのは公共インフラで、
先進国の援助金を頼りにして、計画を立てる。多分、ソ連各共和国とユーゴスラビアは、調べたわけではないが、
公共インフラ計画はあるだろう。個別国有産業を育成するのは、多いが、交通、物流の公共インフラ計画は、
産業の投入・産出をスピーディに流通させるために必要である。ヒツトラーも、高速道路網を作り、
軍車両、後方支援物資をその道路に載せたはずである。
経済発展計画 オデッサから出発した1983年東欧視察だったが、南北問題で80年代、東アジアで行動を開始
したとき、ルーマニア、ブルガリア、セルビア(ユーゴスラビア)、ハンガリー、チェコスロバキアを回ったことが
原点である。宿泊したホテルで、経済発展計画を手持ちの、高校世界地図帳の各国の地図と経済統計資料を見て、
車窓から見える風景から、その国の経済発展をレポート用紙に数枚書いて、机の中に残して、出発した。情報員が
ついて回るとは思うし、少なくとも、この旅行の視察目的がその国の経済発展にあることを知らせた方が、私も
安全である。
ルーマニアでは、チャウチェスク大統領の業績が、パネルで紹介され、大統領が外遊した先の贈り物が展示
されていた。内陸は、中世そのもので、観光資源は大きいが、その地域は農業で、黒海側が石油産業と関連産業が
あるようだった。経済発展計画は、内陸の農業生産を増強し、交通インフラで、内陸と海岸をつなぎ、ドナウ川
の輸送を強化する。というようなことを書いたと思う。
ブルガリアは、バラを育て、香料を採取し、輸出するがメインだが、ホテル近くの店を見ると繊維製品の材料店
があり、女性が集まっていた。私も中に入って、柄がいろいろあるのに感心した。繊維原料を生産するか、外国
から仕入れ、反物を作り、デザイン、染色し、製品を国内外に販売する。
ハンガリーは、ドナウ川が流れ、物流はルーマニアとの協力関係で、ドナウ川河川運河を使う。町は、文化
に特色があり、消費財が多様性に富んでいる。首都周辺はすぐ、農地が広がるのが、中欧の特徴で、資源に
依存した工業製品が可能である。その場合、電力、石油製品が必要になる。東欧全体で、共有の電力網を
敷設する。発電源は、バイオかもしれない。帰国後、環境研究で、豚の糞尿のオーストリア製バイオ
発電機をみたことがある。
チェコスロバキアは、プラハに着く前、1人の若い女性が青白い顔し、付き添いの女の子がいた。車掌も心配し、
私は、日本手拭いをあげ、鉢巻きにしてくれた。付き添いの子は、お礼のつもりか、外に向かって、窓に両手を
かけ、すこし乗り出し、ネット網の薄手のセータから、ふたつのおっぱいがゆらゆらゆらしてお返しして
くれた! ハンガリー動乱、プラハの春をしているから、政治的かなと思ったりするが、次の駅で、
運ばれていった。
夜のホテルのバーで、フェンシングの剣を使い、音楽に合わせ、踊っていた。ここは女性が強いのか
と思った。車窓から見る風景は西側と同じだ。東西冷戦が終われば、一番、西側に経済が近づくだろう
と思った。
こうして、各国のホテルの机の中に、経済発展計画を書いて、ウイーン駅に着いた。
チトー大統領後のバルカン半島 私は、資本主義者で、新古典派に属するが、ソ連経済の本は、神戸大学で
読んだことがある。しかも、ユーゴスラビアはチトー大統領が1980年5月亡くなっている。バルカン半島を
第1次世界大戦後、統一し、第2次世界大戦では、隣国トルコとともに戦時中立を守った。東欧と連邦体制は
協調関係にあったと思うが、西側とは冷戦でなく、中立だったのか、今調べないと分らないが。チトー後、
バルカン半島は不安定化するかもしれないという危惧を持っていた。ちなみに、スロベニアは、オースト
リアの隣国である。要するに、オーストリアは戦後、中立国だが、周辺は、東ドイツ、チェコスロバキア
、ハンガリー、ユーゴスラビア{スロベニア}、スイス、イタリアに囲まれているのである。母親がベニス
に二人を行かせたのも、第1次大戦前は、スロベニアから、オーストリアはアドリア海に出られたの
である。Grazは、第1次大戦発端となった、暗殺されたオーストリア皇太子が住んでいた。1971年、
帰国前の夜、母親と同年輩の女性の家に行き、レバノンに仕事で行っているというような話をして
いた。中東とオーストリアはつながりがあるのだと思った。
スペインは、将来の南米対策が一番の目的だが、第2次世界大戦でフランコ総統は中立を守った。
オーストリアが永世中立国を宣言したが、スペイン、ユーゴスラビア、トルコとかつてのハプスブルク
帝国と関係が深い国は戦時中立だった。戦後の反省で、永世中立を選んだのだろう。そのフランコ
総統が、1975年に亡くなっている。ヨーロッパへの不安定性は少ないが、フランスと同様、
社会主義政策を選択する。
私のように、資本主義を選ぶ、経済学者は少ないのだろう。そういう人は、学界より、実業家に
なった方がよいのだ。語学研修はおわり、片言を話す私は、マドリード市民に暖かく迎えていた
だいた。そんなとき、1983年8月21日、スペインとフィリピンとの関係を想い知らされた事件が、
アキノ大統領の暗殺である。大々的に、マドリードでは報道された。私のジンクスが始まった。そして
1983年9月1日ソ連戦闘機による大韓航空機撃墜事件である。私は、語学研修を終え、ケンブリッジ
にいた。やばいと思い、スイスジュネーブに飛んだ。状況が分かり、またロンドンにもどり、
オックスフォードで、帰国を待った。宇空和国の来年が関係する。これを機に、オーストリアと切れるのである。
東欧冷戦の終結後、まとまって、東アジアにヨーロッパ勢が進出してくるのではないかという
危惧があった。兄が、ウイーン少年合唱団の血統主義のような、かたくな美意識をもっている
ことは、兄のチェコスロバキア人の妻が言ってくれた。高速道路を220キロで飛ばし、モンゴル
軍と対峙した城を見せてくれたのも、そう言いたかったのだろう。
オーストリアの優秀な知識人は、ユダヤ人を中心に、アメリカに移住した。著名な学者を輩出
した数学セミナーを主宰した、数学者Karl Mengerもアメリカに移住し、1985年亡くなった。
人口、約880万人だから、過去の栄光はこだわれないはずだが、冷戦終結の意思と、西側と
ソ連への呼びかけ見られないようだ。西ドイツは、戦後伝統的に、ロシアと関係をつねに維持してきた。
私の投資は終結までつづく本気だったが、毎年、ウイーンに来ていただろうし、東欧が解放されれば、
ヨーロッパの南北問題は残っているのだから、オーストリア国境を接する国に、
日本の資本を投入しに来ただろう。私の投資は、モスクワのマルクス研究所がなくなり
日本のマルクス経済学者が表向き、いなくなっり、隠れマルキストになったということで結果がでた。
かつての置塩ゼミなどの先生に学会であったりすると、内心、新古典派批判はやめたのかと思った。
1990年代、幻聴か「死んでしまえ」と私に言った先輩、院生仲間もいたが、2000年代ではそういう者はいない。
こっちは、何のことかわからない、言い返す言葉がないが、相手は当時弱っていたのだろう。
大学の教員仲間で、退職前、研修で集まったとき、仲間がどう評価しているかというと
主義主張をガンガンいうタイプではないが「私がいるといやされる」と皆言う。
これは、神戸大学入学以来、私がマルクス経済学を研究しなくて、これだけ大勢だと学界の立ち位置
がない。だから、計量経済学の方法を使う技術屋になるしかないなと大学院に入ったのだが、
林先生のゼミに戻され、たった一人で正面で戦うことになった。だから、1976年、Grazに、報告に
行ったのは、理論経済学で、新古典派、オーストリア学派の数理経済学の立場をとることをとってように
自分に、マルクス主義と戦う決意を促したのだと思う。東欧冷戦終結で、この対決は、日本でも終結した。
後尾先生と二人で研究会で、読んでいたことが、皆生きた。日本の学界の常として、
外国で生きている学問は日本では消滅することはない。モスクワのマルクス研究所がなくなり、
各国共産党が相対化されから、日本では流行らなくなり、消滅過程に入っている。
1984年3月、ついに、ウイーンで、私の超能力と幻聴の時代がきて、オーストリアは国として、
冷戦側の圧力に反応し、私とはかかわりたくないのだろうと思った。兄は、別れ際、「姉は結婚した。山本。」
といった。山本は山本五十六のことかなと思ったが。この戦いは、そうなるという意味かな、異常な時代は
始まったがソーストリアが手を引いたので、冷戦後のため、研究を南北問題に移し、私の投資を
アジアの経済発展に集中する準備をしないと思った。実際、南北問題で、私は東アジアに資本進出することを
企業に勧めた。経済発展をした国々も海外進出し、公共インフラも、中国、韓国も、建設
に携わるようになっている。
冷戦の終結は、東欧への日本の資本進出を伴わなったので、平和の配当は日本には全くない。何も知らない
海部首相がドイツ統一のお祝いに行っていた。ドイツは花火で「う くう わ」と幻聴で、勝利の気持ちを伝えてくれた。
1981年、就職をきっかけに、私は、経済発展を具体化するように、東アジア、日本国内で実践
してきた。国内でも、想定する手法は同じで、高速道路をひっぱり、明石大橋、しまなみ海道に
橋を架け、そして、企業を訪問して、新製品を開発する努力が大事で、アジア市場の進出を
促してきた。最後のバングラデシュでは、田中角栄が好きなガイドがいたが、現地でも、
交通インフラと工場進出はセットになっている、アジア流経済発展が定着していると思う。
交通インフラと工場進出セットが、私の経済発展論で、しかも、現実に実現するのを見学して
きた。こういうタイプの方式は、ヨーロッパ流ではないようだ。アジアがヨーロッパ勢の
資本を必要としなくなれば、ヨーロッパ勢が1回目植民地、2回目資本進出と人権、経済封鎖
などのアメとムチのアジア政策は通用しなくなる。EUも持続可能な経済発展はコロナで、
2~3年困難に陥っているが、アジア諸国の立ち直りは早いだろう。
アジア諸国は、コロナ禍に係わらず、アセアン経済共同体が結成され、多国間FTAが形成され、
今後も進化していく経済社会関係にしていかなければならない。中国に、『一帯一路』の西方進出は、
私の東西冷戦終結後のヨーロッパのIndividualismは、彼らの基本的信条なので、私のIndividualismから導かれた
Collectivismでないと、受け入れらることは、絶対にありえない。そこを配慮しないと、中国国民の資本蓄積
投資しても、失敗するのは、目に見えてる。そういう構想は、トロッキストだ。投資しても、回収できないだろう。
2020/6/8 研究活動の再開
1976年から、1980年まで
1976年秋、Grazから帰国して、林治一ゼミで、理論経済学は、利子理論と資産市場の一般均衡を研究し、就活のため、
六甲大論集第24巻第1号に『産業間の最適投資政策』(1977,April)、計量経済学の後尾研究会でのDrymes,P.J.、
後尾先生とDistributted
Lags(1971)を読んでいたが、六甲大論集第24巻第4号に『分布ラグモデルのTwo-Step推定量』
(1978,Jan.)を出した。
博士論文予定要旨『資産市場の確率的動学』の審査を受けて、博士課程単位取得した。林先生は、2つの論文で、
富山県の就職を紹介していただいたが、私が即答しないので、「女みたいやな」と言われた。当たっているみたいで、
実は、1974年ごろから、話し相手になってもらった女子大生がいたのだが、博士過程進学で、林ゼミに移籍し、
大学院生で最低の生活だし、研究の先が見通せなかった。彼女は東京に就職してしまった。一瞬、この子に
連絡を取ろうか思った。結局、3年たっているので、連絡しようもなかった。5年間、演習と数学・数理経済学
・計量経済学を指導していただいた後尾哲也教授のところに移籍したら、先生には就活を手伝っていただいた。
10月体調を壊され、明石市民病院に入院され、11月23日亡くなった。最後まで、私のことを心配されていたと
奥さんから聞かされた。私の就活を気にされておられたのだろう。そして、葬儀後、明石市斎場の火葬室の前で、
大学ゼミ生とふたりとご冥福をお祈りした。結婚して、長岡京市から線を引いたら明石でこの不運の連鎖は
死線を超えられると思った。結局、火葬場まえのため池の向こう側だったが、阪神大震災で家財、
家族の命は助かった。これも、命がけの善行を心がけているのをあわれまれて、いのちを
助けて下さったのだと思う。
Grazは、1976年、夜、母親は洗濯物にアイロンをかけながら、「あんた、娘を好きなんと違うの。」
と母親から、言われるので、「彼女は I like you以上は言わないから、だめです。」と答えると、
姉の継母を告白された。「夫は、先妻より、私の方がよかったと言ってくれた」と言われた。
好きな音楽をかけてあげるというので、モーツアルトの晩年の作品、すすり泣くようなところがある、
忘れたが、多分、日本でも有名な弦楽五重奏曲をかけてもらった。なんか、涙を流されていた。
兄姉に、「次、来るときは、Kawasakiで来る」と言った手前、西ドイツ帰国前に、訪ねたのだ。
1971年、兄は、ドイツ軍風のロングコートに、ヘルメットで、単車でウィーンに帰ったが、事故ってしまった。
ウィーンに、姉運転のカブトムシで、2人は兄を見舞に、私は帰国前に、ウイーンに1週間いた。
兄は、古臭い単車に乗っていたので、Kawasakiと言ったのだが、兄は、1983年会ったとき、Kawasakiで
来ると言ったと覚えていた。1971年帰国後、長岡京市のバイク教習所にいったが、旅館の同くらいの板前さんと
一緒に通うつもりだったが、喧嘩をしていきそびれた。明石市は、目の前がKawasaki製造工場で専用教習所もあった。
1971年はみな青春真っただ中だった。
1981年から、1985年まで
就職後、1981年12月になって、Journal of Economic Theory のEditor
Professor Karl Shellから、
コメントが届き、冬休み中、研究は、1982年2月ごろ、JETへ(O.E,S.16,1983)へレフェリーの
コメントを修正して、送ったこと以外できなかった。
1983年、帰国後、JETで審査中だった論文を取り下げ、Multi-variate von Neumann-Morgenstern
Utility and its Additive Representation, Otemon Economic Studies, 16(1983)を出した。
この論文でどんなことが言いたいのかと簡単に紹介する。
不確実性下、株式を売買したい投資家は先の予想を確率分布でもっている。つまり、任天堂は、
1株45,000円になる確率が1/3、43,000円になる確率が2/3とする。売買する量をx1株とする。
予想株価は、45,000円か43,000円である。このとき、投資家は、保有数に個人的好みの重みをつける。
それほど多く保有しなければ、株数が多くなると、対数関数うu1=log x1で評価する。
von
Neumann-Morgenstern Utilityはu1=log x1であり、自分の保有株数の評価関数の
期待値E[U1]=∫u1dp1を期待効用という。
もう一つオリエンタルランド株があり、効用関数がu=log x1x2と2つに増やし、u=log x1 x2
変数を増やすと、ある仮定をみたせば、期待効用関数がE[U]=∫u1dp1+∫u2dp2
と表せるという定理である。
(1)経済の一般均衡理論に適用する場合、この投資家の株価予想分布の組(p1 p2)を仮定するとき、
予算制約式のもとで、期待効用関数を最大化すれば、最適な株数の組(x1*,x2*)を求めることができる。
すべての投資家のこのような組を各市場価格で、集計し、株式市場で、セリ値の中に、0になるものがあると
そこで、株価が決まるとできる。
(2)評価する量に時間をつけると、期間1の消費量x1、期間2の消費量x2とすると、同じやり方で2期間の
最適消費問題を解くことができる。これは、最適貯蓄量を求められる。論文では、Expected Time Preference
under Uncertainty, O.E.S.17(1984),不確実性下の集団的意志決定論、追手門経済論集第XX巻第2号昭和60年12月である。
(3)最後に、公共サービス場合、第i市民がそれぞれ評価関数iu=log ixをもっているとすると、自分が払う
税金で、公共料金のもとで、次期の利用量ixの評価の期待値E[iU]を最大にする公共サービス量が決まる。全市民を集計すると、
均衡公共サービス量が決まる。論文では、Collective Preferences under
Uncertainty,O.E.S.17(1985)である。
(1)に適用する場合、GranndmontのTemporal General Equilibrium Theoryで、C.O.R.Eに研修に行くのがあると思った。
(これは、Bielefeld Universityの図書館に通い、能率的に、文献を収集できた。)
Prof. J. RosenmuellerのThe
Theory of Games and Marketsを読み、西ドイツのボン大学、
Prof. W. HildenbrandのCore
and Equilibria of a Large Economyを後尾哲也先生と読んでいたから、
ボン大学か、ビーレフェルト大学のJ. Rosenmueller教授のところで、市場均衡ゲームの動学ゲーム化を
研究するのがよいと思った。結局、Bielefeld UniversityのJ. Rosenmueller教授に、手紙を書くと研修が認められた。
2020/6/6 宗教実践年間サイクルの実践 秘密曼荼羅十住心論の読了1984年8月まで
1983年9月1日、大韓航空機が、サハリン沖上空で、ソ連戦闘機によって、撃墜された。乗員・乗客269人全員が死亡した。
米国の政治家が乗っていて、ソ連領空侵犯をパイロットにさせたとか、なぜ、領空侵犯したかは、はっきりしない。
英国航空で、ロンドンからアラスカ、そして、同じ航路で、成田だった。冷戦では、成田・欧州便はこのコースだった。
確か、アラスカから離陸したとき、機体がブルブル震えて、「ただいま、機は光に包まれていると、管制塔から連絡がありました。
機体は心配ありません。」と知らされた。私は通路側で、2人の日本人の女の子が、席を他に代わってくれとパーサーに掛け合って、
私は、残された。深夜、落とされなった。しかし、帰国後、安倍晋太郎外務大臣が事故に対応したのを覚えている。
何かが起きるジンクスだ。東西問題が命がけになりそうなことを直感した。ソ連の書記長は死亡している。
また、初めから、1982年から東西問題を実行すれば、その命がけの恐怖で、1971年、1976年の青臭い思い出は
吹き飛ばされ、成功すれば、取るに足らない旅行に行ったという風に考えていた。記憶の記録のリセットを
するしか、結婚もできないだろう。しかし、「あんた死ぬよ」と神戸領事館の女性職員に言われ、骸骨のような男に、
「殺すぞ」と言われていくし、行く手を取り巻く事件は多かった。リセットに成功し、現在、姉の顔は思い出さない。
今回、事実だけ、思いだした。克服したということだろう。こういうやり方を考え付いたのもさびしい話しだが、
人生を前に進めるには、この道しかなかった。
恐ろしい話は多くあった。この事件から、2重スパイのように見られかねない、西側への留学を決めた。
この事件から、私は、1人だけの「宇空和国」の代表となり、日本国を頼るわけにもいかなくなる。
1983年ロンドンから帰国後、留学しようと決意した。大学の海外派遣制度を調べ、最短で3年後、いけるようだったので、
計画を立てた。個人的には、その間、婚活はしたが、結婚はしなかった。
東西南北諸国の宗教をカバーするため、各聖典を決め、読んでいくようにした。1983年10月、月一回土日を高野山の宿坊で、
十住心論を読むことを始めた。宿坊案内所で、予約すると、10月22日、23日で清浄心院を紹介された。第1回目、10月23日
レバノン、アメリカ軍基地自動車テロで241人死亡、フランス空停滞基地で自動車テロがあり、64人死亡した。気分はよくない。
イスラム過激派が、自動車爆破テロの手法を踏襲していくきっかけになったそうだとあるから、なんか感じるものがあった
のかもしれない。清浄心院に通う内、中東テロはなくなり、米軍は1984年2月撤退した。
実は、サダト大統領が暗殺された1981年10月6日暗殺された。星の子ハイツに引越して、現実のリアルタイムでの経済・社会・
政治・国際政治に疎かった。新聞を朝日新聞、日本経済新聞、英字紙を毎日読んでいた。(1982年夏、ソ連と、西ヨーロッパ、
特に、サンマリノ、ペテロのイタリア上陸地とバチカンは行きたかったから、英字紙をとった。)地中海の政治の流れが頭に
あったのだろう。えらいことだなと思った。
事象が発生し、その次に何が発生するかというのは、条件付き確率の考え方で、統計的推計論で、そのような検証法で、実験実証主義のような科学的方法で、
経済・社会・政治・国際政治の予測をする。今も、この方法は変わらない。
結婚して、あなたの事件の捉え方は、統計的だとよくいわれる。普通の人は、個別事象そのものが問題であって、似た事象が何度も起きるけど、確率10%で
大きく広がらないだろうと言い方をしていたようだ。
例えば、1982年のパリで、モンマルトルの丘をめざして、通りを歩いていると、正午ごろ、ミニスカートの若い女性が出ていて、エロい通りだと思った。
この春、あのコロナで亡くなった女優さんのような人が、反対側から、取材かなんかだったのだろう日本人の男性と歩いてきた。この事象は、1回きりで終わりだ。
もう二度と発生しない。しかし、コロナで死亡する人は、統計的現象でとらえる。その違いである。個別性は匿名性になる。
大学に行かなくなった。世界秩序に、変化が起きるのではないかと考えているうち、人事不詳になって行った。これが、
第2回目の原点だった。そのあと、どう立ち直ったかは、先に、書いている通りである。気分がすっきりして、迷いがなくなり、
将来が明確に見えるようになった。広義の愛のみちびきで、東西問題、南北問題を解消することを課題にし、実践、行動する
ことである。宗教の聖典を読み、宗教的実践をして、各国の宗教による日常を体験することである。
サダト大統領の暗殺後、イスラエルと不安定化するかと思ったが、ムバラク大統領になって、アメリカが軍事支援する
イスラエルと協調関係は踏襲され、過激派は弾圧されたように記憶する。これが、きっかけで、1986年3月、古代エジプトの
神殿、死の谷など、古代宗教が具体化されている遺物を見に行くことになる。つまり、聖地巡礼のひとつの実現である。
国内旅行でも、各宗教の聖地を訪ねた。
1984年1月、祖堂のそばの部屋は寒いので、本堂の方の大きな部屋に、泊まった。すこし、風邪気味で、2月は、高野山は
女人禁制が建前だが、女人高野といわれる室生寺を拝んで、橋のそばの宿で、十住心を読んだ。清浄心院での十住心は、順番に
続くのだが、奥の院の方角に、門の上が2階の部屋があり、そこに、泊まり、先祖の供養をされたら都の勧めもあり、お願いした。
私は、十住心をよんで、奥の院側を見ると、弘法大師の特徴のあるお顔が光に包まれているのが、見えた。最澄の方は、最澄廟から、
階段を見上げると、輝く光の玉が見えた。宗教的体験とかは、いろいろあるうちで、輝く光の玉が見えるときがあるのかもしれない。
比叡山延暦寺会館にも、宿泊に行き、十住心を読んだ。朝は、日蓮宗のお坊さんの団体と朝食が一緒だった。会館の人は、
追手門学院大学で、お坊さんの先生が来られことがあると教えてくれた。1984年8月第十十住心は読了した。
草里仏蓮は、個人名なので、使うことはやめて、中国風に3文字、名字が宇、母方が宇佐川、宇佐八幡宮の従者で、神社のそばの
よろず屋であったが、その宇をとった、実際は、宇宙を表し、空は、空海がご縁で、仏教の空を表す、和は、自分の名からとり、
現世、人間の秩序の状態を表す。それで、宇空和が決まった。あのリュックには、これを刺繍して、紺色のナップサックを背負って、
海外旅行に、聖地巡礼に行くことになる。
仏教、キリスト教、地中海思想、イスラム教、それぞれ4週間、読んでいくサイクルを完成したが、あまりひんぱんに、サイクルが
回るので、12週間で、それぞれを読み、実践することにすると、1年間が、うまく収まった。
毎年、カレンダーに、12週間ごとに分けて、それぞれの開始日を記した。とくに、日常生活と、毎日係わるのは、仏教の精進料理、
イスラム教の日の出前の朝食、断食、日没の夕食、豚肉を食べないことを、食事は、私が用意し、精進料理を作った。イスラム教の
時代は、家族も豚肉を食べなかった。精進料理は、1983年清浄心院に1泊すると、夕食、朝食が完全精進料理である。
自分も調理するとき、調味料と材料に注意した。
イスラム教のラマダンは、最初の4週間で、朝食はパン、ヨーグルト、チーズ、果物、夕食の残りなどで、水は500mℓ以上を飲んだ。
日没まで断食したが、講義や会議も大丈夫、腹持ちした。ただ、ゼミは声がかすれてくる。
そういう日常生活に加えて、仏教、キリスト教、地中海思想、イスラム教には、信者の務めとして、教会で集会に参加する義務が
あるが、それぞれに入信していないので、日々の務めはない。地中海思想は、プラトンとかアリストテレスである。仏教は、
日本国内の旅行で、地方の寺院をお参りした。
2020/6/5 南北問題の解消への活動開始
1984年、3月大学の卒業式が終わり、大阪インツーリストから、会場でチケット類を受取る予定だった。
会場で聞いても分からないという。事務所に聞くと、会場で呼び出しをしたという。翌日、チケットを
切ってもらいに、事務所に行った。2月のアンドロポフ書記長の死亡の影響なのか、モスクワ経由、
ウイーンの航空券と、ホテルバウチャー、ウイーン、ワルシャワ、モスクワの汽車の切符などをもらって、
ウイーンの兄に会いに行った。結局、行ってもしょうがなかったが、町の雰囲気は、暗かった。散歩したが、
霊媒を使うようになっているのが、違った。
高野山の清浄心院で、そういう現象が発生し、こっちも予想していたが、始まったのだ。私には、
元、そういう能力はなかったが、神が、ヨーロッパのことを想い、毎年、出かけるようになったので、あわれに
おぼしめし、力を追加してくれたのだろう。望んでもらえる能力でもないので、使い方をうまくすれば、
コミュニケーション手段にはなると思うようになる。逆に、幻聴が聞こえている間は相手がうるさいだけだが、
油断すると、こっちの内心が音声で拡声してしまう。相手が攻撃的になって言ってくると、反撃、意思を
出して、こっちが幻聴を発声することもあるから、どっちもどっちだ。
今回の目的は、③の場所である。1983年夏、兄に会って、話すと、私の①、②、③を姉から知っている
ようだった。私は②を達成して、講師になっているから、③が次の目的だと思っただろう。兄は、電気会社
のエンジニアであると言った。両親はなくなって、継母と姉妹と仲良く暮らしてきて、結婚し、奥さんと、
歩けるようになった子も1983年に見た。兄は東欧研究所を案内してくれた。住所を書き留めた。ウイーンに
留学するかもしれないとは思っただろうし、ソ連・東欧からいつも来るので、ソ連とは関係あるのかなと
思ったかもしれない。1982年夏、姉は私に「日本人と結婚して下さい」と言った。兄が結婚しているから、
姉も付き合っている人がいて、兄夫婦と子供をみれば、結婚を考えていると思っていた。
兄はウイーン駅で私を車から降ろして、別れ際に、「姉は結婚した。」と言った。これで、この家族との
関係は、今回雰囲気で、国が動いているので、終えたほうが、迷惑がかからないので、もう、それ以来、
会ったことはない。兄姉にも連絡はとっていない。母親は最初、60歳は超えてあられると思ったが
時々、夢で横たわっている年寄りの女の人を見ることがあった。もう亡くなられていると思う。
Hanna先生は、聡明なオーストラリアの知識人で、こちらの考えを導かれたように思う。
帰国後、E.von Boem-Bawerkの利子理論をゼミ発表した。理論経済学に方向を変えた。林先生はE.von Boem-Bawerk
のKapital und Kapitalzinsを翻訳下原稿をもっていると言われていたが、出版されなかった。現在も、和訳はない。
E.von Boem-Bawerkは、マルクス経済学を批判しているとかで、関西では、出版する意義がないと思われたかもしれない。
博士課程の単位取得、予定要旨審査では、数理経済学者であり、マルクス経済学者である、置塩信雄教授と
神戸大学入学以来、最後で対面した。不確実性には、市場内と市場外の要因があるのではないかという
質問で、「人災か天災か」ということですかと答えたらそうだと言われた。 そこから、オーバードクターに入り
就活は成功し、JETに採用され、高揚感のある、8年間、純粋悟性を高め、魂の監獄から、出所したが
現実の世界に適応するリハビリが必要であったと思う。 お勤めご苦労様でした。
ふたたび、流行歌を若い者みんなで聞いた場面を思い出す。
1971年第1回目、彼女は、到着の日の歓迎夕食後、カルメン・マキ(姉は、マキがユダヤ人とアイルランド人
の血を引く父、日本人の母、そういう背景が分かっていたのか、勝手に、物語を作るなぁ~と今思う。2020/6)
A面「時には母のない子のように」のレコードをかけて、みんなの前で「歌詞を英語に訳してくれ」、
B面「あなたがほしい」を訳した。A面、Sometimes,as a
child without mother、B面、Want you、のように訳して
いったが、A面母親がいるのに変な?B面は、若いみんながいる前で、want youはどうかと思ったが、訳すと
若いのはワイワイ騒いでいた。ワインも飲んでいたから、全く、姉が選んだ意味は分からなかった。ポルカは
簡単だから、二人で踊ったらと母親が勧めた。下宿で、モーツアルトのレコードは何回も聞き、好きな曲は
覚えるぐらいの準備はしたが。ポルカは踊れない。
(余談だが、1981年6月、中立売通智恵光院星の子ハイツに引越して、大きなスピーカーと音響セットを買い、
ソ連、東欧、中欧、南欧のクラッシクは、しょっちゅう聞いていた。1982年の準備だ。多分、文化の感性が
必要だと思ったのだろう。政治的立場は中立だったが、中立売通智恵光院は当時の考えに合っていた。)
のグランドピアノとレコードのジャケットの所蔵があるし、音楽一家かと思ったら、妹がグラーツ音楽大学
の学生だった。私の娘もピアノを習わせたが、この大学に留学した先生で、グラーツ音楽大「感性」演奏法で
教えてくれた。)
私は何が好きと聞くので、Simon &
Garfunkel“ Bridge over troubled water”をかけてもらった。皆、そのとき
の流行歌だったので、喜んでいた。少なくとも、「国境を超える愛」“Love over troubled boundery”のつもりだったが。
その当時の彼女には、私が“ Bridge over troubled water”の「橋」で分かったかもしれない。
Sound of musicのミュージカルが流行った。それで、この夏、その場面を訪ねる慶応大学生と仲良くなって、
ザルツブルクをしっかり、場面にしたがって、回った。この学生とは、ウイーンで帰国待ちのとき、偶然会い、
京都の家庭教師の高校生に、ベートーベンの第九の楽譜をお土産に買って来てくれと頼まれていたので、楽譜屋で、
ライプチヒの楽譜を買うのを手伝ってもらった。いきさつはすべて話していたので、本人は失恋してきたので、
よく理解してくれた。北アフリカ、中東、東南アジアを回り、京都に帰国し、肝炎で入院しているのを見舞に行った。
アトラスが地球の苦しみと喜びを、背中にかついでいる絵葉書を送ってくれた。買いかぶりだとは思ったが、
地獄の底にさまよっていたのは当たっている。お疲れさまでした。
帰国後、映画を見てやりきれなかった。
ソ連からくると、書記長がなくなるし、ウイーンの雰囲気が緊張しているし、東西冷戦問題を研究するもの
として、ウイーン大学の選択はないと決断して帰国した。
1984年、新学期になり、3年のゼミ生に、夏休み、インドネシア、シンガポール、マレーシア、タイ、香港を
回る、ゼミ旅行を企画した。昨年の中国ツアーをまねて、近畿ツーリストに依頼して、このプランを作ってもらった。
一人当たり、12万円ぐらいだった。父母に、手紙を書き、承諾を得て、学生11名ぐらいで回った。ジャカルタでは、
夜着いたが、熱帯特有の蒸し暑さだった。ガイドさんが、親切で、いろいろ工夫して、観光させてくれた。
シンガポールでは、有志が進出銀行を飛び込みで、対応してもらった。シンガポールは、よく歩いた。私は、
各国、今後の成長の初期設定を頭に記憶した。
1983年、中国ツアー、1984年、東南アジアゼミ旅行で、南北問題の解消を研究することが始まったのだ。
無事、全員、帰国した。9月からの授業は2年目で、西村ゼミの指導も慣れて来た。海外研修制度の申請を
する準備をした。西ドイツに、Bielefeld University数理研究所があるので、そこに、論文とこちらの経歴を
書いて、送った。その間、再び、ドイツ語をゲーテ・インスティテュートで再び習い、1985年6月長岡京市に引越した。
帰国後、留学受け入れ先のため、Expected Time Preference under
Uncertainty, O.E.S.17(1984),不確実性下の
集団的意志決定論、追手門経済論集第XX巻第2号昭和60年12月、Collective Preferences under
Uncertainty,
O.E.S.17(1985)を書いて、Bielefeld University,J. Rosenmueller教授に留学を申し込んだら、許可をいただいた。
2020/6/4 南北問題にある諸宗教への対応
1981年12月、また、大学の授業に復帰して、学業に専念することにした。1982年夏は、
ソ連を再び、旅行し、スターリンの生まれ故郷、コーカサス地方、アゼルジャイバンと
ジョージアに、行くことにした。その後、ケルンとグラーツの家族に、講師になったことを報告し、
イタリア、フランス、ベネルックス3国を回って、ケルンの家族に会い、荷物をもらって、
帰国することにした。東西問題の準備である。
それと同時に、南北問題の宗教である。私には、宗教に頼る必要はないが、宗教を最後の綱に、
貧困の中で生きている人々は、南にすごく多い。共産党は、宗教はアヘンだという言い方もする。
東西冷戦が終結すれば、宗教では、キリスト教であるから、東西の教会はあるが、本質は一つである。
各個別の生活で、愛がそれぞれを固く結びつける。
しかし、南北問題では、北は、キリスト教が多く、南は、イスラム教、ヒンズー教、キリスト教、
仏教、地域宗教で、多様性がある。各個別の生活で、神、仏、崇拝するものがそれぞれを固く結びつける。
しかし、経済社会活動では、南は、所得が低く、失業が多く、北と比べると、レベルが低い。北の各国から、
南に援助がされる図式が、長く続いている。その中で、資本やインフラを流入させると、経済成長が始まる
ことは事実である。
しかし、その成長途中では、人々は、崇拝するもので、生活が律されている。したがって、宗教を、
仏教、キリスト教、ギリシャ思想、イスラム教に分けて、学ぶことにした。やがて、それぞれの聖典を
まず読んでいき、新訳仏教聖典、聖書。ギリシャ哲学、コーランをそれぞれ4週間、読んでいくサイクルを
つくった。仏教は、4週間、純粋精進料理、イスラム教は、4週間ラマダンを65歳までつづけた。若い時は、
本を読んだが、精進料理とラマダンがメインになった。
ラマダンは、春夏秋冬の変化もあり、業務があるときもあり、日出から、日入りまで、飲食をしないので、
厳しかった。他の人は誰もしないので、孤独で、欲望がその間みたされず、兵隊のような気もする。闘争心は
維持できる。太陽の運行も気にするようになる。イスラム圏や、旅行で非常事態に陥るとラマダン状態になるので、
南に行く練習をしていると思って頑張った。
ラマダンは、家族はしないが、精進料理はつきあってもらった。これも、調味料が限られるので、毎日、
同じものになる。乳製品を取り入れるぐらいが、現代風であった。魚肉製品を食べないので、4週間続けると、
闘争心が薄れる。
さて、体力がないのも、1981年4月、失敗した一つなので、1982年2月頃、比叡山の八瀬口から、まだ雪が
積もっているところを、ケーブル沿いに、山登りした。登山道から外れ、やぶは雪で覆われ、3時ごろになり、
やばいので、ケーブル線路に近づき、崖から線路に飛び込み、保線階段を上ってケーブル駅に着くと、駅員が来て、
「乗ってきたのか」というので、乗らないといって、下りの切符を買って、八瀬口に降りた。途中、線路上に私の
歩いた跡があった。しかし、線路の下がなにもない崖になるところがあって、落ちたら死んでいた。
次は、体力がついたので、明智光秀の旗揚げの神社がある愛宕山を嵐山方面水尾から、参道を上った。やはり、
冬で、山頂に近づくにつれ、雪が積もっていた。神社に参って、亀岡の八木方向に駆けて下山し、八木駅まで走った。
また別の日、丹波篠山まで、列車で行き、喫茶店に入って帰ろうとしたら、列車はなく、歩いて笹山を亀岡方面に、放浪し、
途中、自衛隊のフェンスを通ると、銃口をこっちに向けている隊員がいた。私が不審者だったのだろう。国道を
歩き続け、日の出前、山並に朝日が映え、仏陀が上向きに寝ているように見えた。その絵は描いている。田んぼは、
氷が張っていた。ひどく寒かった。しかし、これも練習の一つで、急に、歩く場合もあるし、経験したのはよかった。
これから、日本列島の旅行が始まるのだが、第2次世界大戦が終わり、まだ、農民がしっかり農業、林業をしていた
時代で、手入れがよく、どこも、美しい日本だった。タクシーで亀岡に出て、京都に帰った。体力は十分着くように
なった。こういう予行練習は、東西問題でソ連、欧州、南北問題で、北アフリカ、東アジアに出張する1980年代続いた。
休暇を利用するので、大学の教学には、影響はないように計画した。
1982年3月、高野山で、これも、雪が積もっていた。この寺院群は、どういう構造になっているのか、分からなかったが、
奥の院の杉並木と、戦国からの武将の墓をみて、奥の院までお参りした。帰りに、今も持っている、数珠を買った。
日本では、宗教学習は、仏教から、始まった。
1982年夏まで、宗教関係学習は、比叡山、高野山をお参りし、数珠を買う程度だった。新訳仏教聖典 大法輪閣版、
聖書新改訳 日本聖書刊行会を読むようになった。
デザインして、リュックに刺繍した。
よく見ると、十字架のようでもある。まだ、「宇空和」には到達していない。
1982年の旅行では、グラーツの母姉は、こういう経過から、東西南北問題解決のための基礎調査に来ているとは、知らない。
大学で講師になったことを報告に来たのだと思っていた。使命で、ユーラシア大陸に東西冷戦の調査旅行に来ていたのだ。
イスラム教は、1982年のコーカサス地方で、アゼルバイジャンで、町を歩いていると、丘の上に、モスクがあり、手足を水道で
清めろと、指し示すのでしたら、モスク内はメッカの方向に、老人が座っていて、私は、モスクは初めてだったので、正座して、
神妙に、していると、私の目の前の絨毯の上に、天窓から、光が注がれた。それをみて、頭をその光に下げて、引き上げた。やがて、
大学の同僚に話したら、日本ムスリム教会の聖クルアーン日本語版をいただいた。イスラム教はこれを読むことにした。
1982年9月、帰国後、授業が始まり、教学に追われたが、問題はなかった。教育する情熱が内省の後、生まれたので、学生
とも仲良くやれた。次の計画は、中央アジア、東欧、スペイン語学研修だった。南北問題の開始で、中国のように共産党独裁
のところもあり、統治機構はいろいろである。中国の宗教も多様だ。
1982年11月10日、ソ連のブレジネフ書記長がなくなった。これは、ショックだった。私が渡欧すると、歴史の節目に遭遇する
というジンクスが出て来た。来年の計画が、インツーリストで手配してもらえるか心配になってきた。
中央アジアのアルマータ、タシケント、ウクライナのキエフ・オデッサ、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴスラビア、
ハンガリー、チェコスロバキア、そして、ウイーン、スペインマドリードで4週間のスペイン語研修を計画した。
1983年夏、中欧アジア、東欧に出発した。旅行中は、数珠をリュックに入れていた。アルマータのホテルレストランで、
モンゴル人と同席し、私の数珠をみて、玉の数を数えた。真言宗の数珠は小さめで、余分に玉があるが、108個より多いので、
不思議だといっていた。モンゴルは共産党治下だが、宗教は自由なのだ。数珠は宗教で使うのは同じだ。ソ連、東欧では、教会に
よく入った。マリア像はどこでも手を合わせた。イルクーツクの寒村でも、信仰は厚い、教会はよく手入れされていた。ただ、
その頃は、墓は、赤い星がついているのをよく見かけた。
プラハから、ウイーンに着き、兄一家にあった。医者の奥さんには、赤ちゃんがいて、自分は茶色だが「ブロンドの髪の毛でよかった。」
といった。兄は、ブロンドにこだわりがあるのかと思った。そのあと、兄が帰ってきて、第三の男の観覧車とモーツアルトの墓、郊外の
モンゴル軍との戦いの城を見せてもらった。
疲れ切っていたので、オーストリア航空の事務所で、チケットを買い、マドリードにいった。
兄には、親切にしてもらって、ありがたかった。もう、グラーツに母姉妹に会いにはいかなった。
マドリードは、ユーロセンターで、初級クラスに入り、4週間、勉強し、将来、南北アメリカ問題の準備だった。教会はよく行き、
ポルトガル、リスボンにも、1泊旅行した。ドイツ語より話しやすく、日本に来たイエスズ会は、逆に、日本語は話しやすかったろう。
ドイツと同じで、親しみがわく人々ばかりで、楽しかった。下宿のおばさんとは、1986年まで、クリスマスカードを交わした。
下宿には、ベネズエラの学生がいた。イングレス・コートとかいう、スーパーによく行った。イギリスとは敵対した時代があり、
帰国は、ロンドンからなので、ケンブリッジに滞在し、途中、ソ連がICBMを撃ったので、スイス、ジュネーブに行き、またもどって、
ロンドンから、アラスカ経由で帰国した。帰国したら、握力がついていて、レモンは、片手でつぶせた。
帰国後、聖書を読むようになる。
これで、新訳仏教聖典、聖書、ギリシャ哲学、コーランをそれぞれ4週間、読んでいくサイクルが始まる。
空海 秘密曼荼羅十住心論
1983年9月帰国後、宗教の学習とそれに伴う実践を始めた。10月から、月末、高野山に行き、宿坊を紹介してもらった。
それが清浄心院である。ここは、上杉家が建立した宿坊で、弘法太師が最後にこもられたお堂がある。その前の小さい部屋で、
十住心論の第一十住心を読んで、帰った。これを第十住心まで毎月読むことにした。最終は、1984年8月、山口県の実家である。
最後は、夜四畳半の部屋に寝ていると、外から、「幻聴」か、お経が聞こえて来た。善行を行っているといいことがあるの
かもしれない。 合掌。
清浄心院が常宿坊となり、事務長さんからは、親しく声をかけてもらい、高野山大学の学生が下宿していた。
本職のお坊さんもおられ、地方からの信者さんの祈祷もされ、お堂の前の本堂で、毎朝、5時ごろ、不動明王の前で、
お経が唱えられた。参加するようになる。1月になると寒い。風邪をひいてしまった。室生寺のそばの宿に変えた
1984年2月、留学の下見に、ウイーンにいくと連絡すると、母親は来ない方がよいという手紙が来た。1983年6月ソ連では、
ブレジネフ書記長のあと、アンドロポフ書記長が就任し、1984年2月、突然亡くなった。さすがに、モスクワの空港で
いわゆる、「勇気旅行だな」というものがいる。ウイーンに着いて、同じ便でついた外人たちが迎えの車に乗っていた。
超能力者が登場するようになるのはこのごろだ。もう私に対して、オーストリアのマークがついているのか、市民の動きが
なんか緊張していた。予約したホテルではうるさくて寝られないし、兄の家で、母親が来て、10人ぐらい集まり、静かに
しゃべっていた。なんかあったのかもしれない。こっちは疲れていたので、ソファーで寝て、兄に駅までおくってもらった
ワルシャワ行の夜行に乗った。兄は、別れ際、姉が結婚したと言った。これで、グラーツの家族は今日まで
会っていない。しかし、ヨーロッパの雰囲気が、東欧の民主化が起きると、人々が感じていたかはわからない。
列車に乗ると、女性客が2人、寝台車にいたが、車掌が「殺すなよ」と日本語で言った。こういうのを
「幻聴」ということらしい。ワルシャワに2泊し、アウシュビッツに行くつもりだったが、ワルシャワ市内を散策し、
モスクワまで列車で行った。インツーリスト手配のホテルに泊まり、赤の広場まで歩いた。
レーニン廟の反対側で、頭を下げた。
1984年4月チェルネンコ書記長に交代したが、1985年3月、ゴルバチョフ書記長に代わった。
それで、東西冷戦問題研究は、1986年3月、私が留学した、西ドイツ、コブレンツ、ビーレフェルトに移る。
2020/6/4 東西問題と南北問題の研究を課題にした経緯
1981年4月、追手門学院大学経済学部に、就職し、入学式、教授会に出席し、新任紹介があり、金融論と
外書購読と演習1が担当だったと覚えている。毎日、通勤しているうち、涙が止まらなくなり、阪急で
話している人が私のことを言っている気がした。4月15日ごろ、大学院の後輩を下宿に呼んで話をした後から、
家の周りは、見回ったりした。彼我の境界がなくなってきた。金融論の講義をして、使う教科書と年間の
予定だけでそれ以上はしなかった。そして、ノイローゼになり、家庭教師の奥さんが郷里の父母に連絡して、
二人が下宿に来て、次の日、入院した。3月から、引越準備と禁煙、4月から、教員側の業務に対応が
ついていかなかった。研究に力を注いできたオーバードクター3年間だった。12月論文が採用の通知は来るし、
見合いは断ったし、院生を京都に招き送別会をするし。
2カ月で退院して、大学に復帰、秋から、授業科目を変えて、授業を開始することに決めてもらった。
ただ、人事不詳の状態になったことは、理性が飛んでないので、よく覚えていた。
反省点は、業務課題を前もって十分用意することであった。教員時代、業務課題を前もって十分時間を
取って、教材等を準備するようになった。
食事をとらず、憔悴した結果、思い浮かぶことは、清浄が気になり、水場を一生懸命たわしで洗った。
夢で、父母を殺すような離別の場面を思い浮かべた。あとで、宗教本で、悟りの階梯があるそうで、
一部、この時の体験がある。林先生は、かつて、「西村君は純粋すぎる。」と父に言ったそうだ。
私は、純粋理性を磨かないと、数理系は理解できないと思っていた。普通の政治経済型、政治活動型
の院生とは、どうしても生活が違ってくる。
マークされている気がした点。退院後は、2年以上は、これはなかった。いつか、またつけるだろう
と思っていたが、その間、日本全国を、暇を見て、日本史を勉強に旅行した。結局、京都内での現象
とわかった。まあ、つかの間だったが、外は大丈夫だと安心する。
6月マンションに引越し、山口に帰り、禁煙するなと父に言われた。父と喧嘩して、九州の別府、
阿蘇山、雲仙、長崎に旅行に出た。家に帰って、父は何も言わなかった。秋学期がはじまり、
11月に入って、学部長とバスで一緒になり、「経済学も理系と同じで、プライオリティが論文に
あるのか」と聞かれた。私のJETの論文が耳に入っているのか、不思議に思った。帰って、
あれこれ考えていると、春と同じ状態になったが、私の部屋は、2階で、1回は、食品スーパー
である。また勝負するにしても、このスーパーとバスルームで、十分、自分と対決できると思っ
た。今回は、結婚を想定した、普通の3LDKを借りたので、他にはまあ聞こえない部屋だから、自
問自答で、しゃべりだした。自分の過去や将来の希望や、社会など、あれこれ、回想しだした。
多分、講義の練習を本能的に練習していたのだろう。持続的にしゃべっていた。疲れると布団を
敷いて寝た。
1週間、自分の過去の良いこと悪いことを総ざんげした後、心が軽くなり、この地球は
どうなるのだろうと想像した。太陽に飲まれるが答えだ。ひとりで、想像して、人類は滅ぶように
生きているのだと、そのむなしさに涙が出てきた。
現在に戻ると、現在地球上にある問題は、東西冷戦と南北格差だろうなと思った。自分には、
その問題に対して、貢献しなければならないと思う、これまで、研究に専念して、抽象、
形式概念のタコツボにはまっていたので、出てみると、研究の社会貢献が欠けている。
自分の欲望が、その活動の推進力にはならない。その核心は、何かと考え出ると、自分の
体の中から湧き出したものは、愛と思った。まだ、私には、タコツボにはまっている間、
人間に対する愛が、心のどこかに、隠し持っていたのだ。愛が表面に出てきて、私の愛が社
会貢献する力になると思うと、また、胸が痛くなった。その一部が、個別的愛かもしれない
が。私が、愛という命がけの情熱で、東西問題と南北問題を解決できることを実践したいと
いう結論になった。
このような主観的なたわごとをしゃべり続けて、疲れて寝た。そのうち、気がおさまり、
経済学部から、様子を見に、3人の若い、新任教員が来られて、部屋の様子や、蔵書、
ファイルをみて、来週から、出校するように勧めてくれた。私もこの病の結論を出したので、
出校すると答えた。
そこから、真面目に、退職まで、教育研究と海外へ出張し、東西冷戦、南北問題、
国内ゼミゼミ旅行で地域産業成長に対して、実践活動を開始した。
教授会で教育に復帰することが承認された。他の活動は、いよいよ、1982年夏、ソ連
旅行と西ヨーロッパ旅行で始めることにした。そのうち、Journal of Economic Theoryの
エディターから、修正箇所を審査員が指摘した手紙をもらって、冬、新しく、書き直
した。それが、Multi-variate von Neumann-Morgenstern Utility and its Additive Representation,
Otemon Economic Studies, 16(1983)である。
2020/6/3 P.S. オーストリア人とのReminder
1971年夏、横浜、ナホトカは船旅、ハバロフスクーイルクーツクモスクワはシベリア鉄道、モスクワー
ウイーンは列車で到着、女子学生が迎えに来ていたので、Grazまで行った。着いて、母親と妹が出迎えてくれた。次に
兄と日本人でフルートを音楽院で勉強している男性に会った。7月13日が私の誕生日で、夕食のとき、それを言ったら
お祝いを言ってくれたが、13日が気になるような感じもうけた。キリスト教の13だろう。夕食が終わって、
皆がいる前で、姉が、カルメン・マキの「時には母がない子のように」を英語で訳してくれという。
Reminderで、スマホで歌詞を調べると 引用すると次のようである。
時には母のない子のように
だまって海を見つめていたい
時には母のない子のように
ひとりで旅に出てみたい
だけど心はすぐかわる
母のない子になったなら
だれにも愛を話せない
ひどく、暗い詩だが、英語に翻訳して、家族は気にしてなかった。姉は心に暗闇があるといつも感じていたが。
まあ、ガールフレンドだから、私も、就活があり、この旅行の後、①大手商社に就職する②大学院に進学する
③ヨーロッパに留学すると、会ってから決めると姉に、手紙に知らせていた。
母親が認めてくれたベニス、インスブルック、ザルツブルクの旅行に出かけた。まあその、今思えば、
本人は東京で英訳を知っているのかわからないが「だけど心はすぐかわる、母のない子になったなら、
だれにも愛を話せない」だった。入り込めない自分の城があったのだろう。ウイーンで、母親と兄姉と別れて、
姉の運転するカブトムシで、かつてのウイーンの自宅と母親が私たちに指してくれた豪邸を通り過ぎた。
別れ際、今回のお礼を英語で書いて、ゲーテの詩をアレンジし添えた。姉は「忘れてください」と別れ際、言った。
帰国後、文通はやめ、家族には、クリスマスカードを出して、私は、林先生に進学を告げ、入試科目と
S.S.Wilks、Mathematical Statisticsを勉強するようになった。合格し、後尾先生の統計学の成績がよかった
と林先生が後で言われた。ドイツ語は、大学院に入っても、博士論文の要件に2か国語があるので、
忘れないようにし、博士課程に入ると、林ゼミに移籍し、もう一度、②大学院に進学する③留学する
見直すことになりそうなので、1976年夏、東南アジア経由で、フランクフルトから、ケルンに着いた。そこで
ゲート協会から紹介された下宿が、私の父母と同じくらいで、ロシアに抑留された工場勤務の家庭だった。
ドイツ人とオーストリア人は雰囲気が違うところはあるが、とても、打ち解けやすかった。
語学研修4週間で、読解力はついたが、会話力はとつとつとしゃべるぐらい。ドイツ語のヒヤリングは
1972年より、各段と進歩した。帰国前に、数日の予定で、Grazに着いた。兄は仕事先のウイーンで、
フランス語を勉強する学生のままだったが、パリから帰ってきた。私は、パリに行った。そして、リヨン、スイス経由で
帰る列車で、偶然、母親と会った。そのあと、姉妹も帰ってきて、Sppanの娘さんの家も連れて行ってもらった。
親類の農家にも行って、親子が過ごして、ピサの斜塔のような針金細工がのっこているのをみせてもらった。
夜、姉妹がいないとき、兄姉は、先妻の子であり、かれらの母は亡くなっていた。妹は自分の子だと言われた。
私は姉から聞いたこともないし、母親は少し年を取られておられると思ったぐらいだった。
「忘れてください」と言っていたので、また、「だけど心はすぐかわる、母のない子になったなら、だれにも愛を話せない」
につきあうのも、私の心も傷ついてしまう。姉に会わずに帰りたかった、姉は母のない子だった。
1982年、母姉に再開し、就職を報告し、こっちの目的は「東西問題」なので、③留学するが残っていたから、
すぐ、二人に挨拶して、イタリア、ブリンディシ、イエスの弟子が上陸したところに行き、ナポリ、ローマと
北上した。そして、バチカンに行き、多分、これから、東欧に行く準備に、挨拶して、さらに北上
ケルンに帰った。それ以来、姉妹にはあっていない。皆さんが想像されるかも知れない
Romantischeなことはなかった。1970年以来のガールフレンドの関係は終わったのである。
今日、カルメン・マキの歌詞を読んで、女子は、打ち明けられない、入り込めない深層が
あるのを改めて、考えさせられる。やはり、「忘れてください」だろう。
私は、大学から、派遣されて、ビーレフェルト大学数理研究所に留学できた。彼女に書いた①②③は
1986年に達成することができた、これも、家族のもてなしと励ましで、実現できたのだろうと
皆んさんに、いつまでも、感謝している。
2020/6/2 東欧の民主化とオーストリア・ドイツの人々へ感謝
東欧の民主化は、まず、バルト人間の鎖、そして、ルーマニアのチャウチェスク大統領糾弾、東ドイツのデモと
私たち夫婦が帰国後、始まった。チャウチェスク大統領が広場で演説中、聴衆から糾弾され、夫婦は処刑された。
神戸にブルガリアン・コーラスが来ていて、2人で、行った。なんかえらいことが東欧で起きているが
団員は、うでをつないで、歌っていた。そういう団結を隣国ブルガリアではして欲しいと思った。
私は、ルーマニアのブカレストに1983年夏、ウクライナのキエフから、オデッサ、モルドバそして、ブカレストに
着いた。ウクライナとモルドバとの国境では、「西村先生」と係員に声をかけられた。真剣な顔で、先は危ないのだろう。
助け手はいないが。国境手続きも時間がかかった。モルドバから、、ルーマニア・ツアーの人々と一緒だった。
陽気であぺっきろげの人たちだった。そして、ブカレストに着くと、タクシーが見つからない。駅前で、トランクに座って
いると、タクシーの運転手が来て、ホテルまで、載せてくれた。次の日、博物館まで歩いて、博物館を見学していると
ツアーの一行と出会った。ホテルの広間で、輪になったダンスをしているので、リーダーにさそわれ踊った。
そのあとから、急にサービスが悪くなって、出発日は、また、タクシーは来ず、駅まで、道は知っていたから、
トランク引きずって、駅まで行った。出発まで、飲まず食わずで、時間になり、駅の窓口で乗車券を交換してもらった。
インツーリスト手配なので、効き目があるみたい。気にせず、さからわず、乗車して、ソフィアに着いた。
石油か取れるそうで、ルーマニア人は、なんかしゃべり方が早口、かん高い感じがした。トルコ人が同室で
特徴があるだろうといった。独裁者の怒りか、1日食べられなかったが、誰もいない広場で、警察に目を
つけられたが、無事に列車に乗れてよかった。そのぐらいの記憶しかないが。悲惨な結果になった。
ともかく、ヨーロッパには、ソウルオリンピックの1988年夏、トルコとバルト3国を計画していった。
トルコは、イスタンブールからテヘランへ行くつもりが、ひどい剣幕で、係りに売ってもらえなかった。
イラク・イラン戦争中であった。その分、イスタンブールを歩き回った。そして、ストックホルムから
深夜、ヘルシンキに着いた。共に、バルト海と黒海の要衝であり、バルト3国をソ連に入れているのは
軍事的に重要である。イスタンブールは、ソ連黒海艦隊の出口である。冷戦下、共に、ソ連艦隊の
動静を監視できるところだ。バルト3国は、NATOに入ると、バルチック艦隊の出口が狭くなる。
ゴルバチョ書記長も、軍部から譲れないとくぎを刺されているのか、確か、人間の鎖後、訪問したようだった。
1989年東欧は民主化され、マルクス主義は、民主化後、大学で教えられなくなり、教官が解雇されたと聞いた。
西ドイツでもそうだろう。日本では、1993年東京大学で、マルクス講座はなくなった。宇野弘蔵経済学も
終わった。神戸大学経済学部でも、置塩信雄先生がマルクス経済学を教えられていた。後尾哲也先生と
同期の、「かつては友達だ」そうで、私の方は、神戸大学を選んだ理由が、近代経済学を勉強するので
選んだ。私は、大学時代、紛争中であり、講義は受けず、独学していたので、試験だけで、卒業した。
大学院に進学すると、置塩先生の人気は高かったが、私の入学の理由から、分かるように、大学院では、
講義、演習はとらなかった。しかし、院生時代は、置塩ゼミ生とは、普通に付き合っていたし、当時は
数理経済学講座だった。
後尾先生は、忠臣蔵の浅野家が広島に引き取られた家系だとか、生前、話されたことがある。
神戸大学を愛しておられたので、相反する学問を認める立場だった。
しかし、ソ連解体後、ヨーロッパ全域で、マルクス経済学は、イギリスぐらいだろう。2003年夏、ロンドンに
学生をビジネス・スクールに引率して、ロンドン・スクールの本屋を見に行くと、確かに、あった。
残念なことに、置塩信雄先生は、2003年11月なくなられ、森嶋通夫先生は2004年7月になくなって
関西では、マルクス経済学を研究、講義される教授が少なくなった。
西ドイツ帰国後、私は結婚し、東欧民主化後、Collectivismは、Foundations of Cooective Choice under
Uncertainty
O.E.S.No.22,1989, Foundations of Cooective Choice under Uncertainty II
O.E>S.No.23,1990
を書いており、2001年から、Mixed Economynの均衡を述べている。そして、EUの結成から、多国間の
公共財の均衡を述べるようになった。ASEANと日中韓で経済共同体を形成し、EUで学ぶ諸問題も
解決する方法を見つけるようになればいいと思う。東西冷戦問題が終結し、アジアの南北問題に関心を移し、
毎年、1990年代はインド、オーストラリア、2000年からは、ASEAN各国を訪ね、短期留学をしました。
各国は経済成長がつづき、中国は2000年から、高度経済成長しました。それが、現在、米中の衝突につながっています。
2000年から、EUになりましたが、東欧と南欧は中欧との格差が解消せず、今日に至っていますが、
なんかアジアの成長と比べると、統合メリットが少ないようです。
1987年から、オーストリアの一家と交流は一切ありませんが、特に、東西冷戦問題が終結したので
1980年代は観光旅行で動いたわけではないので、ヨーロッパを訪問する理由がないからかもしれません。
1982年のグラーツ訪問で、久しぶりに、ご家族にあって、特に、夫人に、就職できたことを報告して、
喜んでいただいたことは、一番よかったです。また、ウイーンの兄さんご家族から、
留学の準備の感触を得ることができ、感謝しています。姉さんは、広島以来、訪問するたびに
会えて、お互いの目標がそのたびごとに達成できて、人生を前進させているのを確認でき
良かったと思っています。ご結婚されて、お子さんがおられると夫人から1986年しらせてもらいました。
グラーツで、お幸せな家庭を育てられたと思います。
妹さんは、素晴らしいパイプオルガンを最後に聞かせていただき、今も、教会で演奏されていると思います。
ケルンの人が、大阪城の初期の屏風絵をグラーツの博物館で発見されましたが、大阪で報道されたときは
びっくりしました。ご家族のお父さんがウィーン大学で美学を教えておられましたが、日本美術に関心を
持たれていたら、喜ばれたでしょう。
東欧民主化で、チェコスロバキア出身の兄さんの奥さんは、喜ばれたでしょう。また、広島出会った、東ドイツの
夫人もドイツが統一し喜ばれたと思いまいます。
ケルン郊外のご一家も、1976年語学留学、1982年訪問で、大変お世話になりました。
ドイツが統一され、喜ばれていると思います。ビーレフェルト大学数理研究所のJ.Rosenmueller教授と
所員の皆さんに留学中お世話になりました。私のコミュニケ―ションが不十分で、ご迷惑を
おかけいたしました。留学中は、専門文献を多くコピーし、その後の研究に大変役に立ちました。
2020/6/1 私とオーストリア学派
2020/5/30のこのサイトで、冷戦下の中、大学に奉職し、1981年11月、私の出発点である、過去を振り返って
なぜ、この年齢まで、世俗的な夢ももたず、ひたすら、研究して来たか、反省してみた。その3月下宿をかたずけ
引越の準備をし、教壇に立つので、たばこをやめたが、体力的に疲労困ぱいしているうちに、4月、大学に出校し、
通勤しているうち、阪急電車で、その反省が出てきて、涙がとまらなかった。予備校で京都に来て、神戸大学に
入学し、教養が1年半で終わるので、そこで、神戸に引越するつもりだった。しかし、学園紛争があり、校舎封鎖が
あり、小中高生の家庭教師および塾を下宿でし、勉強をした。数理経済学と統計学、計量経済学を主にするようになった。
その間、シュンペンター『資本主義、社会主義、民主主義』を読んで、共感するところがあった。ゼミは、理論経済学の
林治一先生で、選んだ理由は、大河内一男『経済学を築いた人々』で、「近代経済学の祖メンガー」を書いておられた。
演習では、ケインズ「雇用・利子および貨幣の一般理論」だった。1970年、広島駅で、外人3人と特急はとを待って
東ドイツの夫人が話しかけてきて、その中の学生が京都、万博を観光に来るので、案内をしてくれと頼まれた。
今から考えるとなんか偶然とはいえ、人生でめったに遭遇するものではないが。多分、広島の原爆慰霊に参加された
一行だったと思う。帰国後、その体験を発表したと書いてきた。こっちは、次の夏は、ヨーロッパに行こうと
アルバイトに精を出した。しかし、バイト途中足、自転車自損事故で、足の小指が駐車中の車のホイールにあたり
ぱっくり、切れていた。これは、苦労するよ、行くのはやめなさいという、「お知らせ」だったろう。
3月、就活は、2社受験した。不合格だった。2マタは、掛けられないので、ヨーロッパ旅行を優先することにした。
そこから、しっかり旅館で働き、家庭教師・塾をし、旅費を貯め、父から、30万円渡航費を補助してもらった。
父は、「海外で活躍するように、運命がなっている」とつねづね言っていたので、出してくれた。
その間、勉強は、森田優三『統計数理入門』、MooD & Graybill、Introduction to the Theory of Statisticsの
計算問題を解いていた。これは、グラーツに行っても持っていて、解いていた。グラーツの下宿先の
大学生と同室になったが、それを見て、自分の専攻に、日本人が載っているし、頑張ってね、と言ってくれた。
その子の母親が、ウイーン大学の先生だったそうで、私が進路を未定にしていることを知っていて、近くに、
Professor Othmar Spannの娘さんが住んでいて、Romantische Schule を繰り返し、私に言われた。
経済学にそういうロマンというのが、経済学にあるのかと思った。
(1976年夏、ケルンのゲーテ協会に語学研修にいって、帰国時に、あの家族を訪ねたとき、Spannの娘さん宅を訪れ、
紹介されOthmar Spann Types of Economic Theory 1926をいただいた。お母さんは、さりげなく、国民経済雑誌
をテーブルに置かれていて、Patinkinに関する論文が載っていた。)
就活は遅れるし、残った道は大学院しかなく、林先生に相談し、単位も残ってていたので、1年留年し
大学院を受験することにした。林先生には申し訳なかったが、計量経済学の斎藤光男先生をめざして、
計量経済学と数理統計学を勉強した。紛争で、ドイツ語は出席せず、独学で勉強し、試験を受け、[
49点だが合格だ」とにしてもらった。大学院入試にドイツ語があるので、京都のゲーテ協会に行き、
会話を習い、試験のため、Erich Schneider Einfuehrung in die Wirtschafstheorieを読んでいた。
『不確実性下の投資決定論』を大学卒論にした。六甲台論集に、「産業間の最適投資決定論」を載せているが
退職して、気付いたのは、『不確実性下の最適投資決定論』は研究し残していた。その計算は現在
発表していないが、解を求めている。無事、齊藤ゼミ生になったが、先生がアメリカに留学され、
留守中は、林ゼミで演習を受けた。帰国され、修論指導を受けた。修論『資産選択理論の確率的動学』は、
計量経済学ではないので、林ゼミに替えることになった。その間、後尾哲也教授の演習と数学研究会
に通っていた。林先生退官のとき、就職が決まっていなったので、後尾ゼミでオーバードクターになり
そして、その年の秋、先生は肝硬変の悪化で急逝された。その葬儀が明石市で行われ、先生は
「西村を頼む」と最後までいわれていたそうだ。
こっちは、大学には就職できないなと、人生の断崖絶壁に立たされた。
そのとき、『資産市場の確率的動学』を博士論文にして、研究中であり、
J.M.Grandmont”On the Short Run Equilibrium in a Monetary Economy"1974がベースをベースにして、
期待効用の連続性を証明した”Continuity Properties of a von Neumann-Morgenstern Utility"1972を
拡張、加法分解した。六甲大論集に、2期間モデル”Expected Time Preferenses"1980を載せたら
就職が決まった。しかし、1981年4月採用だった。その間、1年間、時間があるので、多変数に拡張して
”Multi-variate von Neumann-Morgenstern Utility and its Additive Representation"をJournal
of Economic
Theoryに投稿したら、1980年12月採用の手紙をもらった。予定では、次の不確実性下の一般均衡論を
研究する予定にしていた。1981年、就職後、JETから、論文のコメントが来て、修正して、原稿を送った。
1981年12月、これまでの経験から、歴史的転換点で、よく、外国に行っているなと思い、東西冷戦と南北問題を
解消させることはできないかと、現実の貢献ができるのではないかと考え、ブレジネフ書記長時代だったが、
再び、1971年夏と同様に横浜ーナホトカーイルクーツクーモスクワ、そして、バクー、ジョージアを
個人旅行で行った。この個人旅行が許可されたことは、私は、ソ連の友好者と認められているのか
と思った。ジョージアから、レニングラードそして、ケルンの親しくしたドイツ人の家庭で就職したことを報告し
グラーツへ着いた。夫人に大学の講師になれた報告をした。そして、西側の立場ではなく、中立的立場に
立っているので、両家には迷惑がかかるかもしれないので、お別れをした。その後は、イタリアのブリンジを
めざしたが、円のトラベラーズチェックが使えなかった。ローマに行き、バチカンを訪ねた。そのあと、
ベネルックス3国に行き、ベルギーに行った。当時、ワレサ氏がソ連から、独立するような運動を
していた。ローマ法王はポーランド人である。ベルギーはEC本部があり、NATO本部もある。ポーランドは、
ワルシャワ条約加盟国である。
帰国後、1983年夏に、中央アジア、東欧諸国、ユーゴスラビアに、個人旅行を計画した。そして、
大学の方で、紀要に投稿するように、促されたので、JETに原稿の取り下げをお願いして、紀要に載せた。
これで、期待効用がキーであったので、不確実性下の一般均衡理論の研究が始まった。
中央アジア、東欧諸国、ユーゴスラビアを回ると、さすがに、疲労困ぱいした。プラハからウィーンに着いて
グラーツの家族の兄にあい、留学を予定していると言った。そのあと、飛行機でマドリードに行き
ユーロセンターのスペイン語研修をした。テストは1か所しか、合っていなかった。校長に、成績不良者が
数人集められ、帰るかと言われたと思う。何とか、クラスに入って、下宿と往復した。ところが、発音は
アルファベット通りだし、単語は、ドイツ語と似ている。初歩クラスでなじむことができた。
後は、1984年3月、留学準備で、ウィーンを訪ねる計画をした。夫人は、来ない方がよいということだった。
旅行社も、チケット受取日に渡してくれなかった。帰りは、列車でワルシャワ経由、モスクワから帰国する
予定にした。予定を変更して、出発した。途中、だれか、勇気旅行だと言う者もおり、確かに、
雰囲気はよくなかった。オーストリアは留学先にせず、西ドイツのビーレフェルト大学にした。
これも、市場均衡ゲームの動学ゲームを研究に行った、京都ゲーテ協会の人は、門はたたけば開かれるという。
というわけで、準備して、1986年3月留学に出発した。西ドイツはウィーンのようなことはなかった。
途中、ウィーン大学から、H.Dirker教授が来られて、研究報告された。教授は均衡の一意性を
証明されている。生産モデルの一意性を研究しているという話だった。
12月、帰国することにして、グラーツの夫人に、手紙を書いたら、これまでのいきさつから、
私の美学を書いていると返事が来た。
これで、ビーレフェルト大学で、研究路線が復活し、大学の教育・研究に精を出すことができるようになった。
これまで、様々な人々のかかわりの中で、私に助言された結果であるが、本人は、まさか、大学の教員になれるとは
想像もしていなかった。退職したとき、1冊の研究書を書くことができて、オーストリア学派そのものでは
ないが、最終の論文では、IndividualisumとCollectivismから、経済均衡と社会の合意を導こうとしているから
経済哲学的に、何を新しく考えているのか、研究する予定にしている。
(バルト諸国のエストニア、ラトビア、リトアニア、1988年夏
インツーリストで手配したが、イスタンブールから、スウェーデンからヘルシンキに夜着き、
時差を忘れていた。船に間に合わず、港の係りの人は、明日の便があると言われたが、
予定変更、デンマーク、コペンハーゲンで旅程期間を過ごした。)
これで、全ヨーロッパは東西諸国を回り、将来、第3次ヨーロッパ戦争の可能性は、少ないと思った。
それで、結婚し、1989年、新婚旅行で、大陸間列車の旅をして、お別れをした。1982年から、私費、公費を
数百万円つぎ込んだが、、西ドイツコール首相とソ連ゴルバチョフ書記長の
東西ドイツ合併合意、東欧の民主化に至った。東西冷戦は、終結した。
あとは、ユーゴスラビアの解体が、始まり、行きがかり上、鎮まればよいと思い、1994年、家族でインド、ドイツ、スイス
を旅行している。分裂戦争になったが、こういう風に、東西熱戦ならなくてよかったとも思う。
2020/5/31 コロナ禍後の欧米と中国の経済関係
トランプ大統領は、WHO脱退と香港の対米貿易・人的優遇措置の廃止を準備していると発表した。
香港が英国との約束期間2046年まで、50年間、中英連合声明は、2014年に、英国に「声明は無効である」と
通告している。習主席が主導権を確立してから、2017年声明は歴史的文書であると公式に表明している。
昨年の「逃亡犯条例改正案」の香港議会での審議に対して、反対デモが続いたが、今回、コロナ禍に乗じて
さらに、強力な国家安全法」が全人代で承認され、香港議会で承認される予定である。
香港は、2046年を待たずして、本土に併合されることになったと言ってもよい。英国のEU離脱と独仏の分断を
願望しつつ、EU解体に着手しているのかもしれない。英国を分離させ、旧EUとしての様々な圧力を協働して
中国に掛けてくる力をそぐ戦略をとっている。中国に対する長年の圧力で、国をまとめらなかったのを内心感情的に
こころよく思っていないのだろう。中国の報道官の発言も強硬である。
トランプ大統領のように、あからさまに、中国の発展を妨害することを交渉してきたことで、欧米には、中国の成長を
こころよく思っていないことが、中国首脳に分かるのだろう。欧米はロシアに対して同じ感情をもっているのだろう。
今回の国家安全法で、一国二制度はなくなり、今後、もう、香港の高度の自治は回復する見込みはない。
香港住民の間では、感情的に、頭が、イギリスの代わりに、中国がすげ変わっただけだろう。
他方、台湾は、最後の一国二制度、仮想適用国であるが、香港のようにするつもりであるのは、はっきりしている。
ヤルタ会談でも、蒋介石が中国を代表していたので、香港とは違い、国是は、孫文の三民主義であり、小中
の教科になっているのを1985年台北に行ったとき、本屋でみた。政治統治機構は中国とは違う。
台湾も、中国共産党が民主主義を統治機構で採用すれば、台湾国民党が本土で政権を取るに決まっている。
中国もいずれ、民主主義国になるのでは、という欧米の期待は実現不可能である。
実際、民主主義国では、ロシアでさえ共産党は人気がないし、日本の政党支持率も1%以下である。
インドでも共産党は政治活動をしているが支持率は低い。
中国共産党は、七不講①(人類の)普遍的価値②報道の自由③公民(市民)社会④公民(市民)の権利
⑤党の歴史の過ち⑥特権資産階級⑦司法の独立は大学では講義するなと2013年5月に通達している。
これらの項目は、中国では、共産党で管理するということなので、七講の立場に立つ報道官は、
国内でも国際でも、同じ原理で、矛盾なく主張しなけらばならない。「国際報道機関は、だまれ!」
と言ったそうだが、中国では、報道の自由は認めていないから、報道官も、学習がいきわたっている。
トランプ大統領も同じことを言っているから、まあ、権力者には、不都合な事実もあるのだろう。
日本は、短期間ではあるが、軍部が南進侵攻を強行し、欧米勢力の、東アジア拠点都市を陥落させた。
米国負けたが、戦後日本の経済発展のためには、侵攻した国々に、賠償金を支払いながら、
戦後の重化学工業の原材料を、市場価格で輸入し、中東の石油は、欧米のメジャーに制圧されているので
市場価格で輸入してきた。中国の高度成長期は、重化学工業への投資と、それらを原材料とする
最終製品を輸出し、日本と同様に、市場価格かそれ以上で原材料を輸入してきた。その結果、
大気汚染対策が不十分で、重化学工業の排煙下で生活を強いられている。日本は、高度成長の後
大気汚染の防止に取り組んできて、成長率は落ちたが、中国の大気よりははるかに、澄んでいる。
中国は、温暖化ガスの削減の要請から、重化学工業に対して、生産削減と汚染対策を徹底させなければ
ならないだろう。プラスチック、繊維も10年以内に、現在のままでは製造中止になる商品であり、
それらの成型品も中国は輸出しているが、輸入禁止になると思う。中国得意の鉄鋼も、輸出国で
CO2評価され、その分、炭素税が上乗せになるだろう。これも、現在の中国の鉄鋼は、輸出できない。
脱重工業から、持続可能な生化学工業に転換することになる。世界人民としては、環境破壊
製造品は、貿易できなくなる。
コロナ禍で、重化学工業が休業になり、車も通らないと、昔の青空が復活したそうだ。中国のCO2排出量は
年間目標量は達成しているだろう。米国も同様である。現在の米中の経済社会を完全に否定すると
中国本土と米国の元の大気にもどり、温室ガスがカバーしていないので、月間平均気温も1度下がっている
のではないかと思う。筆者の住んでるところは中国、朝鮮半島に飛行機で1時間でいけるのだが、今年は
中国から、黄砂襲来もすくなかった。昨年、小さな研究室をつくり、前に、芝生を植えて、天気の日には、
その上で、洗濯物を干しているが、黄砂の影響はすくない。(中学時代、アメリカ中流家庭のTV番組
「お父さんはお人よし」だったか、前庭に芝生を植えているは、ええなぁ、平和そのものだという風に感じていた。)
日本では、コンクリートや砂利を敷く人がほとんどだが、夏の気温は低くすることができる。
今回の10万円で、古いNATIONALのエアコンをPANASONICに買い替えて、省エネする。
太陽パネルも昨年、駆け込みで設置し、売買している。環境対策はできることから、やっていくことが
義務になるだろう。
母の庭木と私が京都からもちかえった、菊とユリを育っているが、今年は、皆きれいに咲いている。
草花も気持ちいいのだろう。 人災で悪いことばかりあるわけでもない。
2020/5/30 中国治安・情報機関が入る香港情報リスク
中国本土では、国内メディア・コミュニケーション、中国入国の企業技術情報は、情報機関で一括して、管理されている。
その費用は、年間12兆円とも言われたこともある。民主主義国より、その管理費が余計にかかる国である。
いわゆる監視管理社会なのである。コロナ禍で、顔認証で、監視カメラを連動させ、特定人物を追尾できる
システムを作っている。韓国もそれを使って、感染者を過去にさかのぼって、接触人物、場所を検出してる。
韓国の場合、北朝鮮と臨戦状態にあるから、人権が制限されてもしょうがない。北朝鮮の隠れ隠密もいるから、
スパイを監視する必要もあるのだろう。香港に、情報機関が入ってくるのは間違いないから、香港の外国人は
本土並みの体制で、情報を機関に取れれないように、注意しなければならないし、金融情報は、
情報しか、価値はないから、外国の出入金先の情報を管理される。入国者や在住者は、顔は登録され、
24時間監視されると思った方がよいだろう。香港人と付き合っても、国家のひも付きになるから
ビジネス上の秘密は丸裸にされる。香港に国家安定法が議会で制定されれば、即監視実施されるので、
本国、中国顧客データは、ぼうっとしてる間はなく、月曜日には、中国政府にとられると困るデータは
脱出させた方がよい。
中国は、国民に、人権を認めていないから、国民も共産党に忠誠を誓うものは、宗教とそっくりで、
日本共産党員の中でも、「共産主義は信仰みたいなもんだ」というぐらいだから、マルクス・レーニン主義
という外来教条主義にかぶれるのは、人口の5%である。それは、国際的には、歴史的思想になって
そのままでは、国の指導原理にはならないので、中国では、原典は『毛沢東語録』なのだろう。
話は、飛ぶが、日本では、キリスト教は、天草の乱以降、キリスト教徒を旧来宗教に改宗するか、イエスと同じく、
貼り付けの死罪だったが、明治維新以後キリスト教は解禁され、現在、信者数は日本の人口の5%である。
私の勤めていた茨木市は、学舎の近くの里山に、キリスト教を持ち込んだ、フランシスコ・ザビエルの肖像画が
隠れキリシタンとともに、発見され、バチカンから、確認に来たそうだ。近くの高槻市は、戦国キリスト教大名高山右近がいた。
西ドイツに留学する際、1985年京都市から、長岡京市に引越したが、そこも、細川ガラシャ夫人ゆかりの地
でもあり、平安時代の、九州に左遷された菅原道真の従者出身地であり、長岡天満宮がある。平安京前の長岡京があった
ところでもある。私の通勤する長岡京駅は当時「神足こうたり」駅といっていた。私が生まれた家は、「神力」という
家で、私は、「新力」と思っていたら、母から、1986年5月、西ドイツで祖母の死を知らされたとき、「神力」と書いてあった。
ガラシャ夫人はキリスト教徒だが、長岡京も、人々に、キリスト教徒の生活様式が残っているのかと思っていたが、
住民は親切でやさしかった。西ドイツから帰国して、私の大学院時代の恩師の明石斎場に、最後の大学ゼミ生が
連れて行ってくれた明石に引越するはずっだたが、神戸市の山上の住宅地を紹介してくれた。
明石の理由は、どうも、長岡京は、山城断層があり、ここを起点に、名古屋、東京をつないで、線を引くと、明石だった。
高山右近が、明石から、マニラへ送られたが、どうも、真言宗の寺の近くに、家族で住んだ。農家に田んぼを借りて
耕していた。地震が嫌いで引いた線から、決めた明石だが、1995年阪神大震災は起きた。家は、助かった。
中央断層線が九州から走っていたのだ。ここのキリスト教徒も改宗しただろうが、改宗は真言宗にしたものが
多いそうだ。真言宗には、創造主に近い存在を認めているから、とか読んだことがある。インドのヒンズー教も
創造主を認めるように、なってきているそうだ。
日本共産党は、戦前、1925年治安維持法制定により、社会主義および共産主義を信奉するものは、転向するか、
政治犯として監獄に収容されるか、満州国に送られ、満州資源調査、開拓、テロ対策で中国人を探す
のに使われた。今の中国は、統治制度としての共産主義に対するいかなる批判を公言する者は
処罰の対象になるようで、日本のかつての治安維持法と逆の制度になっている。これを国家がやると
思想警察が創設されるようなもので、山口県でこの業務に携わって、弾圧したものは、戦争が終わると
一家を連れて、仕返しを怖れ、どっかへ逃亡したと、ほんとうかなぁ~思うが。
元へ戻ると、中国人口14億人で、7000万人である。実際の中国共産党員数は1億より少ないから、
こういう思想に生涯をささげる人は、脱党は組織の機密保持のため、自死を意味するのだろう。
一般人では命を捧げる覚悟はできないから、13億3000万人は、国家安全法下で、生活している。
中国では、宗教は否定されないが、集団的な活動は許されない。紅衛兵時代は、弾圧されたから
カトリック教徒、仏教徒、イスラム教徒は、教会内の祈りはできるが、集団的行為である布教はできない。
一帯一路の戦略で、各国と衝突もなく、物的双喜関係は、永続しないだろう。中国共産主義を
現代、世界の人々が受け入れるとは思えない。
2020/5/29 香港国家安全法の採択
2019年からの本土並み、国家安全法を香港自治政府に適用する法案が全国人民代表大会で、採択された。
香港返還から、22年たって、一国二制度は、香港を自治政府から、自治区に格下げする決定がされた。
中国史にとって、歴史的な第一歩であり、香港自治政府は、あと10年で、深圳並みにするという国家意思であり
同時に、香港の国際貿易・金融市場の意義は失われる。香港から、欧米の金融機関は、撤退をするだろう。
香港の港湾・空港は、地方空港になり、キャセイも中国国内の航空会社に身売りする。今回の法律で、
本土並みに制度が吸収されることを意味する。香港資本は、中国本土への投資仲介から手を引く、海外へ
資本逃避を段階的に始める。香港が資本逃避に動けば、外国資本にとって、中国への投資は香港資本による、
人的仲介・保証がえられないので、香港に営業所をおく必要がない。現在、本土の人脈につながる、
香港仲介は、地方政府との交渉もしてくれるので、進出コストが低く、メリットがあったが、本土と同じになる。
最近、中国政府は、IT関係を中心に、中国本土に入った、もろもろの情報は、基本的に、個別知的財産権は
共産党は認めないから、情報を持ち込んだ外国企業、金融機関は、中国政府が管理するなら、権利を主張できない。
民間利用の違法コピーは取り締まるが、政府機関が手に入れた情報は、中国政府が、使用料を払わず、
使ってもよい国際公共財になっている。ここが、全世界の政府が、そういう国なのだという認識がないので、
米国が保有している官民情報が、取られたと主張しても、交渉にはならない。世界の大手企業も、
民間知的財産権は、公共財を理由に、主張できない、技術ただどりで、国有企業に使われるので、
工場は、おかないだろう。中国自体も、コロナ禍で、目標成長率は、習政権下では低下中だから、
国有企業は収益を出しても、進出企業は差別化されるので収益は生まないだろう。供給網リスクもある。
武漢コロナ禍で、中原の湖北省が、中国全土の産業流通のかなめであることが、明らかになった。
ここに、世界から大手企業が進出しているのも、分かった。湖北人は、流通にたけていることも分かった。
製造大国25の中心地なのだろう。コロナ禍後、武漢を中心に進出した大企業は、自国の製造業も
コロナ禍で、痛手を受けたし、中国の製造大国25と一帯一路の戦略の実践が、拠点国での
外国資本排除に、その国の政治に介入し、インフラ金融をその政治家につけているのが、明らかになった。
しかし、今回、中国政府がなぜドルを過剰に保有するのかは、インフラ金融のドル供給をしている
ことも明らかになった。中国元の国際化には程遠いので、ドルを使わざるを得ないのだ。
元ドルレートは、香港ドルと同様に、ドルペッグせざるを得ないのかもしれない。一帯一路の
拠点国に、中国の機材を輸出し、インフラを中国軍が軍用道路をつくり、同時に、貸したドルで、
中国製品を買ってもらい、資金を回収する、循環取引を形成するのが、一帯一路の正体だろう。
外国資本は、その国の政治家から、排除されるのは、当然の帰結である。
今年は、世界経済が、コロナ禍不況で、ウイルス退治に成功した国から、世界経済活動に復帰するが、
一帯一路の国々、開発資源のあるアフリカ諸国、中南米は、今年では、立て直しできない痛手を負うから、
世界第2位の経済力があっても、中国流の政治経済関与は、膨大な額の国債を発行しないと
立て直しはできないし、独裁的な政権であるから、政権が倒される可能性が高い。
問題は、トランプ大統領であり、予想通り、コロナ死亡者数は10万人を超えた。治療薬、ワクチンは
まだ開発中であるから、米国の感染者数と死亡者数は増える。その中で、貿易戦争だけでなく
ウイグル人百万人拘束に反対しだし、チベット自治区のダライラマの後継者所在を明らかにすること
を要求したり、今回の国家安全法の制定である。まだ、トランプ大統領の国家安全法に対する
反応はないが、将来、香港を自治区並みにすることが全人代ではっきり示されたので、ASEAN
カナダ、米国、オーストラリア、日本、台湾、シンガポールに、香港資本逃避を促進する法案で
対抗する流れになるだろう。香港の国際金融センターの役割は、終わるだろう。
コロナ禍で明らかにされた「製造大国25と一帯一路」戦略は、一帯一路関係国を中心に、失敗するだろう。
習政権も自派の存続をかけて、毛時代同様の意識で、内外争乱を闘いぬく覚悟をしているようだ。
2020/5/24 コロナ禍のどさくさで発生した地方自治体の9月入学案
コロナ禍の中、国公立、公立幼稚園、小中高の休校措置は、安倍首相の全国一律措置と同様に、卒業式は中止、
緊急事態宣言で、解除まで、全国休校措置が取られた。その最中、大阪府知事、東京都知事の首長から、
コロナ禍の影響で、社会活動である学校運営が休業となり、長引くなら、9月まで、待機してもらう方が
自治体財政負担が少なくて済むという筋から、対策として、提案したと思われる。国民は、コロナ対策で
休業の業種が多数ある中、子持ち世代は3食、朝は、パンミルクコーヒー、昼食カップラーメン、夕食なべと
普段、中食でお茶を濁していた家庭も、1っカ月続けると、「学校再開して、中食が買いたい」だろう。
3食で料理道をこの際、極めようと、献立をつくり、2時間かけて、つくる、危機の中、試練を忠実に
実行した主婦、主夫は、いるわけもないと思う。
文部科学省は、地方自治体の2人から主張された、国家体系の根幹をなす年度を、コロナ禍で破壊し
9月入学にするのを、誰が指示したのか知らないが、まともに受け合っている。
本来なら、コロナ禍とは関係なく中教審で議論されてきたわけでもない。確か、東京大学が、グローバル・スタンダードに
合わせようと主張したことがあり、ポシャた経緯がある。ただし、そのころ、文科省の留学生を増加させる政策かわからないが
大学では、9月卒業は、実施されている。編入生は春学期、秋学期の2シーズン制なので、入学可能だし、
相手国の9月入学に合わせて、留学可能だし、成績認定も、リモート認定が可能になっている。学生の能力では、
飛び級も可能である。高校生も飛び級で、大学入学できる。就職活動も、経団連が経年採用を打ち出している
ので、帰国子女も就職面で、半年待機するむだもなくなった。
そこで、今回の国公立、公立幼稚園、小中高を来年から、実施すると、30本、法案を通す必要がある。また、
1年半の学年ができて、将来的に不利益を被る補償もしなくては、教育の機会均等の権利を侵害することになる。
2首長の思い付きは、コロナ禍という100年に一度のパンデミック人災によって、自治体の財政の都合で、
9月入学にするというのは、縁起が悪い。また、3月卒業、4月入学は、日本の風土から、災害もなく、西洋では
復活祭に時期でもある。ところが、8月卒業、9月入学にすると、栄えある卒業生の門出に、酷暑厳しい、
先生は、7月末卒業生の成績をつけ、卒業判定を、お盆の最中することになる。そして、9月8日台風の上陸で
中止を余儀なくされ、体育館の屋根は吹き飛ばされていた県もあったりして、後片付けご苦労様です。
最近は、吉村氏も小池氏も、9月入学はいわず、休業解除準備、休業事業者の補償と廃業、倒産に頭を
悩ませているのだろう。小児科医の学会では、コロナで、休校することは、コロナ対策と関係ない、
教職員側に、徹底した対策を取る必要がある。園児、児童、生徒には、短縮授業でも、実施する方が、
子供のメンタルケアの面で、有効であり、3食を主夫、主婦が子供に提供する生活によるストレスが
発生しなくてよい。いわゆる休校病が全国の未熟な園児、児童、生徒に蔓延して、手に負えなくなる。
新大学テストの記述し、民間英語検定利用も、現大臣で延期になったが、どの国も、語学検定試験は
公益法人がやっている。日本では、英検一本に統一すればよかったが、高校在学中、春、秋2回の
大学入学学力検査をうけることができるようだから、大学では、大学の9月入学ができるように
文科省が制度化すればよい。政治家、現文科大臣が、中教審での審議をお願いしたのだろうと
推測できるが、高校から、グローバルの2シーズンに対応する、2シーズン、入学、卒業を可能にするよう、
制度を変えればよい。大半の高校生、大学生がグローバル・スタンダードを希望して、海外に、
留学するわけがない。小学校からの英語教育さえ成果が上がるのか、怪しい。
自然災害の多い日本にあっては、春分の日前後に、日本国の礎である農業が始まるのであるから
本体の卒業、入学はそのままに、9月卒業、入学を可能にすれば、グローバル・スタンダードを希望
する高校生、留学生、大学生にも、半年の時間の無駄はなくなる。
桜の花から、「夾竹桃、百日紅の花も見ごろ迎え、ご卒業、ご入学される皆さんは~」と、百日紅の
樹の前で、卒業あるいは入学写真を、クールビズ姿で、「ハイチーズ?」、なんか、おかしい時代が
始まるのは、縁起が悪い。
2020/5/22 FAOの6月バッタ襲来の警告
中国の国連機関事務局長選挙で、尾上氏は、中国の支持する現在の事務局長に、中国のアフリカ票で負けた。
どちらも、感染スピードを捉えて、最適時に、警告をだすことに、遅れがある結果になっている。武漢発の感染スピードは
1月末では、人から人への第1波は蔓延していた。ヨーロッパでも、2月南欧人体質で突然変異を起こし、2月中
欧州型が蔓延していた。スイスで、3月11日パンデミック宣言である。トランプ大統領は、武漢対応は早かったが
ヨーロッパからの渡航帰国者の遮断は、中国ほどではなかったのが、NY感染爆発を招いた。日本も、2月中の
南欧流行に、渡航者制限を出すのが、遅れてしまった。3月中、若者を中心に、ヨーロッパ、NYから帰国者が
無症状で帰国し、東京、横浜で、騒ぎ出し、3月22日から、感染蔓延が始まった。全く、武漢の検知が
役に立たず、WHOのおひざもとで、悲惨なパンデミックが発生してしまった。役立たず機関でどうしようもない。
日本では、アメリカ大陸を乗っ取るのに、ヨーロッパ人では、多勢に無勢で、負けるから、伝染病を持ち込んで、
多勢を伝染病によって、殺してもらったという、人がいる。まさか、中国政府が、ヨーロッパに2方向から、
侵入するのに、中国人では無税であるから、友好国を足場に、伝染病でコロリと反対勢力を降参させる
つもりなのかなという連想らしい。一方、エチオピア人で、キリスト教徒のくせに、なんか遅い、役立たずだったな
というのも、アフリカ人に対するわだかまりがあるのか、と政治感情が働くのか、と勘ぐる。
FAOは、2019年から中国人が事務局長である。六辻彰二氏の情報によると今回、2月の東アフリカのサバクバッタの
大量発生はケニア、エジプト、エチオピアで、さらに、インド大陸まで飛んできて、パキスタンに、農業被害を与えたという。
パキスタンに飛来した段階で、中国は反応し、パキスタンに殺虫剤と噴霧器を援助したそうだ。中国には、
パキスタンの輸出物から、すでに、バッタは発見されているそうだ。
アフリカ豚熱、MARSと、アフリカ大陸に、中国が進出するのはいいが、公衆衛生面では、野生状態だから、
中国文明国から、赤旗を掲げ、中国工兵隊が出撃すると、アフリカ風土病を持ち帰る可能性は高い。
武漢感染症研究所が、軍率であるのも、こういう背景もある。中国軍人が出張、建設に合ったているから、
感染症をしっかり研究し、ワクチンを製造するのは、中国軍の死活問題であろう。
WHOといい、FAOといい、中国進出の覇権を確立する戦略なのだろう。サバクバッタは6月大発生するということだが、
どの国も、FAOの呼びかけに資金は出せず、アフリカ、中東、パキスタン、インドの個人農は殺虫剤の知識はなく
コロナで専門家は派遣できず、事務局長は、中国政府に泣きついたと思われるが、パキスタンだけ、中国の
利益があるのか、殺虫剤、無人噴霧機を十分供給しているそうだ。エチオピア人のWHO事務局長は
自国の農民がバッタで困っているそうだが、日本風に言うと「自然界のばちが当たっている」のかなと思う。
中国はエチオピアに殺虫剤、無人噴霧機を提供はしてくれないが。
2020/5/20 鉄道・航空機・船舶による移動制限解除
緊急事態宣言は、21日の各基準の結果で、東京と神奈川県は、次の解除判定日まで持ち越されそうだが
他は、めでたく、解除されそうである。自治体によっては、独自の段階基準で、他府県への移動は、制限を受けそうだし
休業要請企業も、段階的に、解除するようである。「新しい生活様式」で、感染予防を心がけた、人の動きになるようだ。
要するに、すべての店舗は、10時以降開店、20時までに閉店になり、深夜営業は、感染予防を心がけるということだろう。
問題は、東京、神奈川県、北海道が解除されたとき、JR、国内航空、国内船舶が、発着が自由になり、他都道府県
への移動が、平常時に戻る。大きなイベントも、秋まで、中止だし、盆の帰省があるだけで、運送量は、昨年より
減少するだろう。新幹線は間引き運転で、乗客は少ない。東北新幹線で、貨物輸送をしているとか、報道されていた。
こだま、ひかりで、書類、高額部品、医薬品は、座席をペアにして、貨物置場をつくり、貨物輸送したら、
とりあえず、売り上げは稼げる。トラック輸送も増加しているそうで、とりあえず、新幹線の固定費を回収しないと
休業状態はひどい赤字が積もる。臨機応変の経営をしないと、赤字を嘆いても、社員の給料は出せない。
会社の出張も現在は緊急性がなければ、中止されていると思う。出張帰りで、ウイルスを持ち帰った
会社員、教員、学生がいて、クラスターとなり、困った県民がいる。
喜ばしいことに、PCR検査より、簡易検査が始まるそうで、他都道府県移動者は職場に復帰するには、現在では、
2週間自宅テレワークになるが、簡易検査で、陰性なら、1週間以内に、短縮されるのではなかろうか。
新幹線、国内航空、国内船舶も、簡易検査証とマスク着用、体温測定をすませば、乗車、乗機、乗船できるというのが
テロ対策の手荷物検査、身体検査に、追加されることになるかもしれない。
渡航条件が緩和されるのは、国際ウイルス検査証、ワクチン接種証が来秋以降必要になるかもしれない。
アフリカ難民も、今年の夏は、コロナのせいで、ボートがこないかもしれない。言ってわかる難民ではないから
EUの国境封鎖措置が解除されると、コロナ陽性者がくるとどうするのか、ますます、悩ましい。
2020/5/19 サバクトビバッタのアジア飛来
新型コロナウイルスの拡散が始まった2月、東アフリカでは、サバクトビバッタの大群が発生したという
ニュースがあった。私が、富山のイナゴの佃煮を学生時代食べたという話を書いたときである。
大群は、サウジアラビア半島に飛来し、6月、パキスタンまで到達し、特に農作物を好むようだ。
そこから、インド、中国に飛来する予想もある。この場合、農民に、バッタ殺虫剤と噴霧器がいきわたって
いれば、農作物を食い荒らすので、駆除できることになっている。アフガニスタンに飛来すれば
タリバンの資金源芥子を食い荒らせば、麻薬消費国に対して、プラスの効果がある。支配域の
農民には、☠マークの殺虫剤は手に入らないだろう。しかし、パキスタンでは、困ったことになる。
専門家のスマホニュースでは、コロナと違って、殺虫剤の在庫はあり、農民に駆除の経験がれば
問題ないだろう。しかし、コロナで外出制限が6月も続いていると、バッタが卵を生み、幼虫が
農作物を食べだすと始末に負えなくなるほど増える。FAOの警告と、飛来予想国に、殺虫剤と噴霧器を
ヘリコプターないし散布ドローンを貸与、各国の空軍が操縦して、駆除するようにしないと、その国は
食糧難になるそうだ。そうすれば、どの国が食料を援助するのか、日本ならば、イラク・イランに、
少ないが古米を援助してもいいが。小麦は、相場が上がるかもしれない。
もう危険な時期に入っているようなので、ワクチンと違い、殺虫剤は決まっている、FAOは、
日本の農協が、「ただいま、県下、ウンカが発生しました。早めの駆除をお願いします。」と
宣伝カーが、農家を回るようなことを各国の農業省に、警告、支援をしていると思うが。
FAO職員も、国際公務員で給料が出ているのであるから、警告するなら、その結果に、
責任を持ってほしい。まさか、中国に飛来し、日本にくることはないだろうが。
2020/5/16 国家情報操作国とコロナ医療体制
中国では、延期されていた全人代が開幕する。習主席はコロナ対策の数字上の成果を報告し、経済活動の
再開が始まっていることを数字上で報告、今回のコロナ禍発生国ではあるが、WHOとの良好な関係により
国際世論操作に成功し、友好国のコロナ支援を通じて、感謝状が届いている。オフレコではあるが
「もっとも、気がかりな、米国が強硬措置で攻撃してくると想定していたが、対抗策を発動することなく、
国内情勢に追われていて、このまま逃げ切れそうだ。これもすべて、1月末事務局長を招き、
武漢封鎖で風土病にするという、習主席の強固な意思を確認し、パンデミック宣言は、中国ではしないとの
確約を得た。これも、習主席の並々ならぬ大成果である。」全人代全員、よかったよかった!
事実関係から、間違いないだろう。
中国では、日経の米ジョンズ・ホプキンス大学のまとめで、国家情報操作国である中国とロシアは、
感染者数 死者数 死亡率
中国 84,029人 4,637人 5.5% 5/15
83,959人 4,637人 5.5% 5/3
ロシア 252,245人 2,305人 0.9% 5/15
124,054人 1,222人 0.98% 5/3
中国は、5月から、死亡者数が増加ぜず、統計が完全にコントロールされている。ロシアは感染爆発中であるが
死亡者がPCR検査は、しているだろうから、死亡者数が一ケタ少ない。2週間で患者は2倍に増えて、医療が
進歩するわけもなく、単純に、2倍にしている。コロナ由来の死亡者を既往症の理由に書き換えているのではなかろうか。
中国も、そういう操作は可能である。無症状者はカウントしないことも可能である。
中国は5月22日の全人代の開幕で、数字はほとんど凍結するのは、わかる。習主席が港に山積みのコンテナ・ヤードで、
檄を発していたが、輸出は港で留まっているようだ。航空貨物も特に減ってきたそうだ。4月の輸出が増加したのも、全人代向け
成果用の数値だ。ロシアは、プーチン大統領が、4月22日の憲法改正案の国民投票を延期し、コロナ対策に取り組んでいるが
感染者数は先が見えない。医者が自殺しているというから、この国では、プーチン大統領に都合の悪い情報をもつものは
消されるようだ。当面、この大統領しか、国は動かせないから、国民投票を実現する支持率を80%に戻し、
原油価格の歴史的低下を戻すことは、今年は無理だろう。
情報開示国である米国と英国は、次の通りである。米国は、依然、医療体制がオーバーワークになっている。
英国は、この2週間で、医療体制が少し整ってきたことを示しているが、依然、悲惨な状況であり、抑え込んではいない。
米国の憂鬱は、2週間の増加率が25%であるから、あと2週間で、単純に延長すると1,700,000感染者、100,000死者
になる。トランプ大統領の予想通りである。そのまま、ということはない。
感染者数 死者数 死亡率
米国 1,417,889人 85.908人 6% 5/15
1,133,069人 66,385人 5.8% 5/3
英国 234,441人 33,693人 14.3% 5/15
183,500人 26,385人 15.3% 5/3
安倍政権も、東京オリンピックをひかえ、コロナ対策は、水際で止められるとしていたが、WHOが
欧米型の拡散でパンデミックを宣言して、ぞくぞく、海外旅行者が帰国し、水際を突破され、4月7日の緊急事態宣言に
追い込まれた。5月15日では、39県で宣言解除したが、死亡率は5月3日3.3%から4.5%に増加しているから、
まだ、医療体制に負荷がかかっていることを示している。
欧米型は、鼻、のど、気管支の武漢型と違って、血管細胞に、入り込み血管に侵入、抗体のない血液中で、転移、
がん細胞と同じように漂流を開始、血栓をつくり、多臓器不全、脳血栓等を引き起こし、赤血球の機能を奪って、
酸欠に導くようだ。つまり、日本の医者は、武漢型を新インフルエンザ対応で治療していたが、ウイルスは
循環器経由の「癌もどき」をしているようだ。そのような重篤患者は人工心肺装置につないだ方が抗ウイルス対応で、
ウイルスを不活性化できるのではないだろうか。ウイルスが血管を攻撃している兆候は、酸素濃度測定器で
わかるようだが。
2020/5/13 中国経済と世界経済との関係見直し
中国の全人代が延期され、製造大国25と世界一のGDPが目標であったはずであるが、トランプ大統領の
米中貿易戦争もあり、最終年では、コロナ禍を中国パンデミックにしないように、武漢封鎖でとどめようとしたが
世界対策はおろそかなようで、今後、各国で入国記録と感染者リストを照合すれば、各国に旅客が運んでいた
事実が判明し、中国政府も、世界パンデミック対策が遅れた事実は認めざるを得ない。
各国は、パンデミックのために、その国の3か月分のGDPを失ったことも事実になるであろう。休業補償、失業手当
が出せる国はいい。中国との経済関係について、四半期分のGDPを失って、財政赤字で補てんし、合計半年分
を中国貿易と中国国内製造販売で今後取り返すことは、不可能だろう。国によっては、半永久的に、借金として残る。
中国も、世界経済に対する責任を果たすことはできるはずもなく、関係諸国とこれまでと同じには復旧しないだろう。
中国の覇権中継国に中国タウンを作って、中国金融・産業営業所を建設し、その国の債務を引受け、
政治権力に絶対的な影響力を及ぼしていこう、「一帯一路」に中華主義を建国100年で完成させようという中国共産党
の中華覇権の夢は、コロナ禍で中国経済自体も失うものが大きいので、全人代で大きく修正するかどうか。
アメリカは、米中戦争を休戦にしていて、米艦隊にコロナ感染者が出て、戦力を休業したら、中国海軍が演習、
イラン海軍が演習しだした。通常なら、米軍の監視のもと、演習するので、実戦演習をカモフラージュしている。
中国海軍は、監視がいない海域で、実戦演習を堪能しているし、イランもそうで、味方艦に誤射したという。
トランプ大統領が、コロナ禍、テンションを上げて、中国に強襲をかけてくるという、ありうる想定で演習を実施した
とも見られる。なんか、コロナにコロリとやられたのか、コロナウイルスのターゲットは、70歳以上の高齢者で
ビビったのか、妙におとなしくなった。「こりゃだめだ」とアメリカ人でなくても、がっくりくる。
世界経済が修復する過程が、今月から、少しづつ、勇気をもって、始めているのが各国の現状だろう。
対策をフル感染に合わせて、引いていくのが、再感染対策になることは言うまでもない。大地震の後、
余震は、同等か、それ以下である。大台風の後、次の台風は、同等かそれ以下である。
コロナ禍で免疫力を獲得した人が半数以上になれば、インフルエンザ並みにウイルス抵抗力が国民に
つくそうだ。これも、通過しなければならない過程である。
2020/5/10 ロシア、ブラジル、米国、英国のコロナ禍
日本は、都市封鎖と非常事態の外出制限は、コロナ対策として、取らなっかった。ロシアは、欧米と対策は
同じであるが、もともと、医療は後進国であり、指導者も西側の医療関係者を招いたことがある。
乳幼児の死亡率が高い。日本との領土問題で、平和条約を締結して、医療方面の協力を取り付けたい
という、話もあるぐらいである。肥満、アルコール中毒、喫煙、麻薬等、普段の生活習慣が、改善されている
わけではないので、成人病である、呼吸器、循環器、異生物(腫瘍)の疾患で、寿命が向上しない。
今回のロシアの失敗は、ヨーロッパとの交流を中国にしたように、ヨーロッパへの旅行を、国境封鎖で
ヨーロッパに滞在するロシア人の帰国対策をルーズにしていたため、医療の容量が小さいので、
すぐ医療崩壊に到達する。しかも、外出禁止は、家族の感染を増やしているのである。
山口県は、安倍首相の選挙区下関市で、最初の感染者が出て、市長は安倍氏の秘書であった。
最初の持ち込み者は、「雪隠づめ」に対策を取られたのだろう。感染経路は、保健所から、事細かく聞かれ
愛知県のように、「愛人?」はいないのかまで、関係を聞かれてたと思う。感染経路不明は、この
「愛人?」については、「黙秘したい」だろう。「保健所は警察じゃないんだ。」という保健所職員の
ぼやきもあった。結局、安倍氏の顔をたてているわけではない。周囲から、感染者は、家族ごと
自宅待機処分されるのはいいが、前回書いたように、院内感染をいかに防ぐかでも難しいのに
感染者が遺伝的にウイルスに弱い家計かもしれず、下関の家族は陽性になってしまった。
その後の山口県の感染者も家族が被害にあっている。非常事態宣言で、家族がみな感染した
という例は、世界中で多いと言われ出した。
これは、米国も同じで、非常事態宣言を解除すると、車社会であるから、家族でドライブして3密になる。
カーシェアが定着していれば、こらも使いまわしだから、しっかり、消毒しないと、感染する。
多分、米国のインフルエンザ流行は、4000万人といわれるのは、こう考えると、納得できる。
米国のロックダウン解除は、車社会、航空機社会の文明を復帰するわけだから、対策を取りにくいので
流行は1000万人は超えるのではないだろうか。
貧困層は、社会主義国ではないから、医療は無料ではない。ホームレスの終末医療は、自死的な死だろう。
トランプ大統領は、米国の底辺に関心があるとすれば、大統領選の票田に登録している有権者だけだろう。
国民に寄り添い、「星条旗のもとに団結し、USAFirstを」という政治家ではない。
ブラジル大統領も、トランプ大統領と意見が合うようで、コロナ禍で、感染者、死亡者が
増加しても、経済優先である。プーチン大統領は、1~3月、南欧に旅行できたのは、プーチン体制で、
経済的利益を得ているロシア富裕層だろう。いまだに、ピークアウトは見えず、国民の支持も陰りが出るだろう。
英国も、"stay home"のジョンソン首相の感染で、初動対策が遅れたようで、日本の政権が英論文の
8割減を採用したが、英国の提唱者は違反して、政府から降りた。小池知事は、ジョンソン首相の
"stay home"を採用、キャッチフレーズにしたが、トランプ大統領の「USAFirst」をもじってた時と
米英のリーダーッシプに傾倒した政治理念をもっているが、コロナ対策は5月6日まで、成果は
評価できない。外出規制はいいが、親が感染して、巣ごもりされると、クルーズ船と同様に家族感染が
増加するという現実は、まだ、改善できない。私も、家族間のコロナ対策は、しっかり、実行していかざるを得ない。
英国では老人ホーム感染が生じ、日本でも介護施設の集団感染が起きている。ホームが
終末の施設である契約者は、この場合、病院に入院し、治れば、ホームへ帰宅するのか、
契約はどうなっているのか、分からないが、ホームが債務超過になると、契約者は、どう保全されるのか
まだそこまでの例は報道されないが。
2020/5/8 クリーン病室と防護服およびクリーニング・ルーム
特定警戒都道府県において、緊急事態宣言の効果はようやく、出てきて、感染者は2桁台になってきた。
政府も心配しているのは、連休明けの日本式要請型で、法的罰則規定がないために、自粛に従いつつ
移動はできる。休業も、特定警戒都道府県では、3密型企業、社会施設は、休業を要請、パチンコ店は
休業指示した自治体もある。根深いギャンブル依存症の客も、多いことも図らず、開店前の行列で
見えることになり、私設自粛要請者まで、サイトやパチンコ店に出てくる。
特定警戒都道府県以外では、明らかに、解除の段階に入ってきたが、休業要請、通勤・通学も
当面、自粛ルールを守った、要請解除になる。非常事態宣言型の欧州も、段階的解除の方針を
実施し出した。欧州型は、日本も同じだから、5月7日から、解除の方向で、今回の波の終息が
軽症者、重症者を収容する、施設・宿舎、専門病院の余力が生まれてきている証拠だろう。
日本の院内感染、介護施設内感染、医療従事者の感染も発生したが、依然、施設・宿舎、病院に
収用される患者は全国で、1万人以上いる。自宅待機者もいる。PCR検査は、国への検査希望を
連絡すれば、最寄りの検査場を指示、検査待ちは、解消されそうである。検査で陽性になった人は
その濃厚接触者も、検査される体制もとられるようになった。これは、これまでできなかった。
問題は、収容した施設・宿舎、病院の関係者、医療従事者の防護服、99.9%除菌ルーム、
防護服、装備の99.9%除菌クリーニングの問題は、改善されていない。5月4日「ライトストライク」
という照射ロボットが波長200~315ナノメートルの紫外線を、5分間照射、2~3回繰り返すと
ウイルスは不活性化するしろものだそうだ。実勢価格は1500万円。カルテックの光触媒を使う
除菌機は約6万円。防護服は、岡山県のメーカーが手を挙げたという。マスクの紫外線除菌
携帯パックも市販されていて、紫外線防護ゴーグルもある。
これまで、放射線の防護服から、鳥インフルエンザ時代の簡易防護服まで、生産されているが
医療従事者が、隔離病室に出入りする入り口で着脱できる99.9%除菌ルームがあるわけもなく
手袋、靴、マスク、ゴーグルも、ウイルスを、波長200~315ナノメートルの紫外線で不活性化できれば
院内感染のリスクは、はるかに軽減できる。医療従事者も他の関係者に、感染させることも
軽減できる。すべて、中国から輸入しているわけでもなく、当面、1500万円の高級車を
購入するも、どうかと思う施設・宿舎、病院の代表者も多い。クルージング船で、船内ウイルス調査
をした感染研の調査員は、感染者は、床、トイレ、浴室、リモコン、電話等、患者が触れるものは
ウイルスの痕跡があったという。患者の隔離室も本人が排出するウイルスを戻しているようなものだ。
家畜伝染病を警戒する農家は、農場入り口で、入場者の靴、車の下回りを除染する、韓国方式を
よくみるが、このウイルスは、耐久粘着性があるので、清掃は、こまめにしないと、いつまでも
陰性にならないのでなかろうか。
政府も、現在、1万人以上感染者を、施設・宿舎、病院、自宅に収容しているのであるから、
その除染は、進歩させないと、コロナウイルスを撲滅するのは、難しい。日本は、放射線防護服
サリン防護服、鳥インフルエンザ防護服は作っているし、半導体メーカーのクリーンルーム
の製造、室内自動運搬車製造、室内ドローンの製造は、すでに商品化している。ただ、残念なのは
今年度のGDPの20%を失いつつある現在、当面のウイルスとの戦いに、システム的に貢献することは
できない。人間関係だけにお願いを繰り返すだけでは、突然変異を繰り返すコロナウイルスは、
人間の対策には変異で対応し、徹底抗戦していくのを止めることはできない。
施設・宿舎、病院、自宅の戦場を、清潔に保つだけでも、勝率は上昇するはずだが。
日本の死亡者が少ないのは、都市の清潔な環境が影響していると言われることがある。
京都市内に住んでいた学生時代、夜、帰宅していたら、熊本から来たという人に声をかけられ、
「京都の町は、ごみ一つ落ちていない。」と感心しておられた。それは、通りの町民が
毎朝、毎夕通りを掃除しているからである。封建時代、掃除しないとお咎めがあった
せいでもあるし、えらい人が通れば、土下座しなければならにし、ゴミだらけの通りに
土下座するのもばかばかしいかったのだろうと、学生に説明したことがある。
昨年、カナダのバンクーバーによって、帰国したが、宿泊したホテルは、ホームレス通りで
治安が悪いという。その近くが中華街で、何度も、行ったり来たりした。それほど、ゴミだらけ
ではなかった。ゴミだらけの通りに、野宿するのも、生活環境が悪いと思うのは同じだろう。
高級ホテルでルイビトンのバッグを家人のお土産に買って、その通りをルイビトンの手座下袋で
通りを通るのは、どうかと思い、ロンドン、パリの絵が印刷されている布袋に入れて、ホテルに帰ったが。
2020/5/6 欧米の対中国損害賠償要求
米国では、まだ、流行のピークを迎えたとは言い難いが、すでに、多分、カリフォルニア州では、
武漢株の感染者は中国、韓国、香港、台湾、ニュージーランドで終息に、近づいているのは
間違いない。このサイトで、欧米株を区別して、これまでの日本の流行を見直したら、やはり、
3月からの流行は、欧米株の持ち帰りであることが、政府も認めるよになった。
今後、武漢株から、いつ、欧州株に突然変異したかは、PCR検査の検体が保存されているから
詳細に調査、分析されると思う。日本は、欧米と比較して、検査件数が非常に少ないので、
この感染研スタイルの検査法は、すべて、感染研の研究目的で検査するのであって、
欧米の治療選別目的ではないことは、当初から言われてきたことだある。検体は、1月から
残っているので、これも、武漢株から、欧州株にチェンジした日時もはっきりしてい来るだろう。
検査の遅れで、亡くなった方が、その件について、訴訟を起こされるかどうかは、今後分からないが
株のチェンジを政府が認めたら、その特性は、欧米で明らかになっているので、欧米のように
治療目的で患者選別するために、PCR検査をできる限り、早く、希望があれば、即座に、
応じられるようにするのは訴訟を避けるために、大事なことである。
ところで、トランプ大統領は、欧州からの持ち帰りが全米各地で拡散したことは、認識しているので、
直接、中国から持ち帰られたウイルスではないと思っている。その対策に、遅れがあったのも
事実であろう。そして、対策を取った。ピークアウトはまだだろうが、非常事態宣言の解除を
各州に求め出した。失業率が16%に跳ね上がっているし、あと1カ月解除を待つと、大統領選までに
16%を一ケタに下げるのは難しい。その中で、対中国攻撃に転じている。12月15日の米中休戦は
再び、再燃し、コロナ禍の責任は、中国にあると結論付けたいのだろう。すでに、ある州では、中国に対して
損害賠償の訴訟を起こしている。トランプ大統領は、中国に、コロナ禍の責任転嫁をし、
自分の責任を軽減して、財政支援をし、当選するように、選挙民に訴えるだろう。
ところが、ドイツでは、政府は武漢発生の国際調査を要求しだしているし、コロナ禍が落ち着けば
まず、国際調査を要求し、中国にウイルス拡散の責任はあると判断すれば、損害賠償を請求する
可能性が増してきた。WHOへの政治力関与、東欧圏へのマスク供与など、このような要求が生じないように
拡散の最中、政治工作をしていると見ているようだ。多数の死者が各国で出ているので、
政治で来るのなら、ヨーロッパ人に対して、政府を代表して、哀悼の意を表し、国際調査に
胸襟を開いて、応じますという「政治は感情だ」を優先しないないと、EU対中国の冷戦になる
危険性があると、直感で気になってきた。そうすると、日本は、米国とEUの冷戦になると
隣国であるし、やはり、欧米対中国がこじれれば、欧米につくのか、だろう。
日本も、欧米並みに、死亡者が多ければ、中国が政治で突っ張って来れば、ご遺族の手前、
感情的にならざるを得ない。直感的に、緊急事態宣言下で、死者が増えるのは、国内・国際政治的に
実にまずいので、これまで、あれこれ書いてきたのだと思う。経済社会の復帰も、その過程で
大きな国際政治問題にならなければいいが、と思う。
2020/5/5 緊急事態宣言の延期と解除条件
5月4日の政府の発表で、全国の緊急事態宣言は5月31日まで、解除は延期された。
特定警戒都道府県では、依然、感染者数は増加している。死者も増加している。
PCR検査について、世界の標準対応からみると、かつて、SARS、豚インフルエンザ、MERS
が流行しなくても、PCR検査は、日本のように、医者経由が原則であり、保健所経由も可能だが
医者、保健所の判断で、検査は裁量になっている。武漢株の場合は、旅行者数が少ないので,
医者や保健所の手が空いたらの待ち日数があっても、死亡には至らなかった。
しかし、欧州で流行し、日本へ持ち帰った欧州株は、発症まで2週間が1週間に早まり、発生すると
2日で重体化する事例が増加した。これでは、待ち時間はかえって、患者にとってリスクが増すから、
医者の判断よりは、本人の申告次第で、即刻、PCR検査を外部でするしかなかった。
陽性になった場合のベッドの空きがないという診療側の判断や保健センターによる監視業務の増加したが、
待ち行列ができても、武漢株以来の検査する体制はそのままにしていた。その間、入院の遅れで、死亡者が
増加した。
東京都の場合、4日現在の4654名、死亡者150名は、ほとんど、欧州株であるから、死亡者は、検査体制が
患者の相談即応であれば、もっと少なかったかもしれない。また、都内の入院患者数が3000人だとすれば
毎日50名が、10日続けば500名で、空きベッドの限界が近づくのではないだろうか。解除条件に
空きベッドが確保できることがあるようだ。検査体制を患者の相談即応にし、早期発見、早期選別、早期隔離、
早期治療で、退院率をあげる必要がある。
特定警戒都道府県以外では、緊急事態宣言で、特定警戒都道府県に対する、逆ロックダウン・シフト
が、徹底しており、「コロナ来ないで、福岡、大阪、東京行って帰らないで」ということで、緊急事態宣言は
明らかに効果があり、散発的に、4月7日以前に、感染した人が発症、周辺に感染させた事例がみられる。
5月14日の再検討では、新規感染者が0の日が多く、隔離者、退院者が増えるだろう。
また、特定警戒都道府県では、区レベルまでの感染者マップがあれば、その地域に立ち寄る人は、
余計に注意を払うことができる。感染者の居場所まで開示するのはどうかと思うが、たとえば
5月5日現在、○○区感染者5名、死亡者1名がスマホマップに掲示される方が、個別逆ロックダウン
しやすい。誰が感染者かわからない状態では、どこでも、不安だろう。
2020/5/4 コロナウイルスの重体者用人工呼吸器と重篤者用人工心肺装置
4月中に、行路行き倒れが11件、関東地域であったというし、救急車の搬送は、PCR検査前の患者を
たらいまわししたという。ジョンソン首相の退院後の話も、酸欠状態を経験しているようだ。東京の医療関係者や
小池知事も、死亡者が毎日でるし、「これはおかしい」また、東京の医師会も3月下旬で、「すぐに、ロックダウン
してほしい」という要望を出していた。
欧米で、人工呼吸器と人工心肺装置が、いきなり、必要となり、イタリアから、拡散するにつれて、死亡者が
いきなり、発生するので、いきなり、重篤者の人工心肺装置が報道で写され、日本人は、中国帰りでは
そのようなひっ迫した状況は、報道されることはほとんどなかった。3月末で、東京医師会が動いたのは
その違いだろう。まず、PCR検査で、陽性を確認したら、既往症にしたがい、患者を選別、循環器、呼吸器
に既往症がる患者は、入院、すでに、発症している患者は、人工呼吸器、集中治療室、最終的に人工心肺
をつけると、治療薬で、抗体の代わりをさせ、ウイルスの分裂を阻止しないと、もう助からないのではない。
その例が、志村氏であり、岡江氏であり、ひょとtして、ジョンソン首相だったろう。
欧州株は、重体から、集中治療室までは3日ぐらいで、人口心肺からの生存率は低いのだろう。
小池知事の「あなたの家族を救うために、不要不急の外出は避けましょう」はいいが、東京都で、
PCR検査を自己判断、かかりつけ医師等、専門機関に相談しても、即受けられないから、発症して
しまう状態を放置して、都には、PCR検査に、「躊躇なく、最速で結果を出せる」、陽性患者は、
すぐに、軽重の判断が下され、家族、濃厚接触者も、即刻、PCR検査を強制されるわけでもない。
小池知事は、緊急事態宣言では、知事に責任があるはずなので、発症が毎日続き、死亡者も
毎日出る現状を、改善することをしっかりやらないと、精神論では止まらない。政府も、医療資源を
特別地域に重点配置し、PCR検査は、発症関係者も即時的に強制しないと、だらだらと、
続いてしまう。
山口県で現在、発症しているのは、すでに、発症した人の関係者である。感染経路は不明でも、
発症本人の関係者ははっきりしている。即時に、PCR検査を強制すべきである。また、発症者は
助けられないかもしれない。つまり、ICUに入っても、生還のための装置であるためには、
ウイルスを撃退する治療薬を血液に点滴するか、すでに退院した患者、無症状者の血漿を、
寄付してもらってその抗体で、ウイルスを撲滅するしか、現状では生還法はないのではないか。
とにかく、欧米では、あっというまに、人工呼吸器と人工心肺装置のご厄介になる患者が次々に
運び込まれるので、トリアジュをしないと、医療崩壊するので、治療の一環として、PCR検査を
しているのであり、そうでなければ、日本の体制でもいいはずだ。
東京都で、PCR検査を欧米並みに、「躊躇なく、最速で結果を出せる」検出→選別→入院体制を作り
新ワクチンの治験もで、治療薬と血漿抗体で生存率を上げるしかない。その体制は、全国の模範である
東京都でできているのだろうか。ニューヨークでやってきたことは、以上の流れだったと考える。
ニューヨーク州知事の言ったことは、
「助かる命は知事ができるかぎり守りますので、あなたの家族を救うために、不要不急の外出は
避けましょう」だろう。人工呼吸器と人工心肺装置を世界から買い集めたのは、米国である。
2020/5/3 武漢株と欧州株の治療法の違い
ロシアで、南欧、米国と同様な感染爆発の増加率で、プーチン大統領の終身大統領制が怪しくなってきたそうだ。
トランプ大統領の再選も、再選前の好景気が第1条件だが、大統領の予想では、コロナで10万人死亡を言っている
から、もう、半分達成している。米国は、武漢株が日本と同じように、流行したが、死亡率はインフルエンザ程度
1%台だったが、欧州株は、10%に届く悲惨な結果をもたらしている。中国、韓国は、武漢株で、欧州株は、
欧州の入国禁止もあり、ともに、欧州株を持ち帰る旅客は、2週間留置され、PCR検査を最初と2週間後、
受けているはずである。両国とも、欧州変異株の存在は知っているが、帰国者に対して、日本や米国のように
検疫がルーズではなっかった。現在、両国ともに、武漢株の終息のめどである感染者数1日0人に近づいている。
流行スタートが1月下旬とすれば、3カ月かかっている。台湾もほとんど武漢株であり、帰国者を2週間隔離、
PCR検査2回を実施しているから、両国より終息は早い。ニュージーランドも台湾と同様である。
ロシアも最初は、武漢株だったが、感染者数の増加スピードは同じだったが、地中海旅行したロシア人が、
2月後半から、帰国しだして、3月、日本と同様に、感染爆発し、現在、ピークを迎えていない。
欧州では、非常事態宣言で外出禁止令ととロックダウンで、人の動きが抑えられ、重症患者が
少なくなり、ベッドに余力が生まれ、ピークは越したと見られている。ロックダウンから、段階的な解除が
検討されている。欧州株の変異が2月下旬発生したとすれば、4月末で、ピークを打っているから、
ピークまで2カ月、これからは、急速に減少するとは限らない。武漢株と同様に、緩やかに、減衰していく。
私が、3月5日から、5月2日まで、日経の「国内の新型コロナウイルス感染者」の欄をすべて、収集して
検討すると、欧州株を新株とみていいような、感染者数と拡散地域、死亡数がある。武漢株にはない特徴があり
欧州で人工呼吸器、人口心肺が必要とされていたが、日本では、武漢株流行時代では、そのような
重体者はいきなり出ていない。感染者の内、重体は人工呼吸器、重篤は人口心肺だそうだが
武漢時代、メディアはあまり写していないから、装備不足を知っている日本の医療関係者は、
医療崩壊が起きると思っただろう。欧州株は、重体、重篤化を早める、血管侵入力をつけて、
抗体のない血液中で、白血球をたたき、赤血球の酸素を奪い、増殖力が強くなっている。
酸欠で1日で亡くなる事例も報告されている。イタリア、スペイン、フランスで、重装備の医療関係者が
報道されていたのは、欧州株が恐ろしく進化したことだろう。それで、毎日、数百人死亡している。
この侵攻を止める治療薬は、武漢株のエイズ薬よりは、エボラ出血熱薬レムデシビルの方であるというのは
欧州株の特性に適した治療薬なのだろう。タイでエイズ薬が武漢株に効果があって、日本の
医療現場で使用しているが、レムデシビルは、欧州株に効果があり、日本で緊急に治験できるように
すれば、死亡率を下げることができるだろう。
12兆円を全国にばらまくよりは、欧州株は、今後、世界中で生存できるパワーを持っているので
国策で素早いPCR検査体制、保健所経由は廃止、全国統合検査機関を創設、即刻入院できる治療体制、
重体から酸欠から即死するようなので、人工呼吸器、人口心肺と医療関係者の重装備の自前生産、
全都道府県医療関係者の研修、育成を特別に、強化、支援する教育体制を創設すべきである。
治療薬、ワクチンの開発も、感染研にはその目的がないようなので、特別に、研究開発機関に
官民の優れた研究者を集め、国策で推進する。 検査機関、病院の箱もの建設、器機、装備の完全国産化
医療教育機関の創設、治療薬、ワクチンの開発機関を12兆円で作っても、おつりがくる。
肝心なコロナウイルス撲滅の目標に対して、以上のことをする気がなく、精神論の要請を繰り返しても、
終息は6月を越え、死亡者は確実に増える。例年の東京オリンピックは、航空路が再開され、
欧州株が少なからず訪問してくるだろうから、東京は終息宣言を出し、あってはならないことが
起きないようにできるのか、東京都民にその自信はあるのだろうか。
英国、米国、日本は欧州株が現在流行しているのだが、欧州旅行者が帰国した都市が依然、ピークを
打っていない。日本では、北海道に欧州株が侵入し、現在、流行している。東京、大阪が依然、流行している。
他の県は、宣言以降、他ド道府県の旅行者を牽制しているので、武漢株と同様のスピードで、0人近傍に
感染者数が落ちてきている。これらの県では、感染地域で0近傍に達しない都道府県への旅行を
控えることが、流行の再発を防ぐことである。0日が連続して続くのは、間違いない。
5月7日の解除は、0近傍に未到達の都道府県は、不要不急の経済社会活動が始まる7日以降、政府は宣言を
解除しないだろう。すでに、0が1週間以上続く県は、解除しない理由はない。到達中は、0が1週間続けば
解除する。
2020/5/2 東京の専門者会議の欧州株認識
5月1日専門者会議が開かれ、これまでの知見で、状況認識と今後の見通しが議論され、今後、終息まで、長丁場になると
まとめられた。
これまでの結果は、日経の「国内新型コロナウイルス感染者数」3月5日から、クルーズ船の死者6名
国内感染者数合計328名で、表がスタートした。5月1日は死者486人、国内感染者数合計14391人である。1日は死亡者は
29名増加している。これは、欧州株が3月中旬、日本に上陸し、そのパワーが、武漢株どころじゃなく、欧米で
戦争と同じだという実感は、この2カ月の結果が物語っている。マスクが足らないから、「手作り教室」で、作って
もらえないかと、このサイトでかいたら、東京の親類が即座に6枚送ってくれた。それ以前から、山口県は
妙に緊張感が増してくるし、介護施設の職員の対応も、2月末から、4月と家族に対する強制が強くなる。
高校の先生が発症すると、その朝、私は高校の先生と付き合いないでしょうねと、報道で出る前、職員に
聞かれるぐらい情報が伝わっている。東京の親類のメールも、同様な緊張感が伝わってくる。私は、春になり
庭の春咲きの花の世話が忙しくなるし、春から秋の花に入れ替える準備に、手間を取られていただけだが。
3月5日は、国会議員も、武漢株で、クルーズ船の死者6名で、新種のインフルエンザの認識があったが、
欧州株のアメリカ上陸で、各空港からの帰還者により、局面が変わった。欧州株は、欧州の戦歴で分かるように
武漢株をはるかに超えた感染力と血管侵攻力をそなえているので、体内に侵攻されると、
酸欠状態に至る時間が武漢株どころではなかった。トランプ大統領が中国を非難するのは武漢株だが。
小池知事、安倍首相、専門家会議委員、対策関係者は、欧州株に対応をする必要があるという認識が
不足していたのがよくわかる。しかし、現場では、3月22日からの各空港からの明白なパンデミックが
発生していることは、明らかにDNA鑑定で分かるのだから、各国と同時に、緊急事態宣言を空港隣接
自治体でとる必要があった。今、関東地域で生じているのは、日本風パンデミックというしかしょうがない。
全国に、緊急事態宣言をしたが、それらの国際空港周辺と欧米への1月~3月の欧米旅行者の少ない
自治体は、結局、日本風パンデミックから免れている結果が明らかに出ている。山口県の長門市萩市で
感染者は一人も出していないところで、東京のパンデミックの恐怖を共有する必要がどこにあるのか。
東京の小池知事、安倍首相、専門家会議委員、対策関係者が、欧州株の蔓延の恐怖を、都民の親類と
同じぐらい、「こわい」という実感がわいていないのが、実に、都民との認識のずれがあり、対策のルーズさがあり、
欧州株撲滅に人員、機材、予算を投入せず、山口県の長門市萩市民に赤ちゃんから年寄りまで10万円
出すことを決めた。その前に、欧州株撲滅宣言を出すために、12兆円湯水のように使う方が先決ではないのか。
志村氏、岡江氏の即死状態になるこわさが、欧州株にはある。最近、生死の帰還者から、インタビューで
急速な酸欠状態に陥ることを聞いて、その怖さを想像できる。医療現場では、欧州株の血管攻撃と
その後の細胞分裂の爆発を警戒しないと、1日死者数26名の警告は、無駄になる。
専門家会議は、関東地域の欧州株撲滅はあと1カ月、行動自粛でなんとかなるという程度では、欧州株には
「怖いもの知らずが東京には多い」と笑われ死者はその1っカ月増加する。関係のない自治体の住民は、
「最近はいいことないね」という中で、一人10万円が支給されるという。山口県の長門市萩市民は、
「東京に出た学生に食料を送ろう」という。
2020/5/1 コロナウイルス欧州株の特性
前回、武漢株と欧州株は、突然変異しており、流行の時期は、武漢株の後である。日本では、
その切り替えが、3月上旬ではないかというのが仮説である。日本人でイタリアを経由した旅程の人はに、毎晩、
イタリア民謡カンツオーネを謳い、あっちの教会、こっちの教会で、カネの音がキンコンカンと
全く、24時間うるさいなぁと思われた生活習慣の中で、3密環境で、武漢株は、イタリア人の体内で
中国人からイタリア人に変異したようだ。イギリスとドイツの研究機関が、流行初期にDNAの一部に
違いがあるのを報告している。
その仮説で、日本の武漢株による死亡率は、3月10日で死亡率=死者/感染者数=10/552=0.018、4月30日で
死亡率=457/14129(447/13577)=0.032(0.33)となる。( )は武漢株感染者を差し引いた。
つまり、欧州株は、死亡率が武漢株より、2倍近い。欧州そして、米国で死亡者が多いのは
突然変異の結果、重篤になる率が高くなるように、変異したことである。もう一つは、感染者の数が
13577/552=24.6倍と、けた違いに、伝染する力をつけていることである。
欧州の医療機関と日本のそれとは、医療技術、人的ケアにおいて、差はないとしても、欧米の
2つの数値は、日本のそれよりは、大きい。しかし、志村氏や岡江氏のように、いきなり、重篤になった
場合もあるように、恐怖のパワーが、欧州株にはあることが分かった。
緊急事態宣言は3月20日から、1週間以内に、欧州株が流行するのを止めるために、発令すべき
だったが、それでも、ピークアウトし、武漢株と同様、終息へ向かっている、5名以下の府県が
数多くなってきた。要するに、欧州株を持ち込んだ人は欧米帰りであるから、その人たちが行動を自粛すれは
感染経路不明者は減少し、地方では、欧米帰国者は隔離されているし、20代の若い人で
学生の場合、アルバイトできずも大学も休校中であるので、巣ごもりしないと生活費もない。
うつす機会がないので、5名以下の新規感染者数になっている。武漢株の終息が3月中旬で
あるなら、同じ系統の株であるから、欧州株も2カ月で終息状態に入るのであろう。5月上旬が
早くて、5名以下の感染者数になってくるだろう。5月6日が期限だが、その後、2週間、
他都道府県に同居家族が行った場合、帰宅後、小中高は、2週間、通学できないルールで、
3密対策を講じて、順次、再開する。これらの児童、生徒を自粛させていると、中低所得者の
仕事に重大な影響がある。そのことが、9月入学とかいう人々には、彼らの世話に時間がとられ
仕事に出かけられないという負担が分からないのだろう。
途上国では、ロックダウンができない理由は、働かざれば食うことができないのである。
2020/4/30 コロナウイルスの武漢株と欧州株
4月28日の夜、感染研の武漢株は、武漢が封鎖される前、脱出した400万人がのうち、ヨーロッパに流れた
人々がいて、3月に、武漢株は欧州株に突然変異し、3月中旬には南欧を中心に感染爆発を起こした。
感染研は、最初の武漢株のDNA解析を終え、日本では、中国帰りの人々は、隔離、識別されているので
クラスターを発生しないが、武漢封鎖前の中国観光客が、日本に入り、クラスターを発生したのは、
周知のとおりである」。これも、日本各地で、発症、二次感染をおこしたが、識別できた。したがって、
日本では、3月中旬、感染数が減少し、感染研の検体分析から、武漢株は終息したと言えそうだ。
めでたしめでたしで、オリンピックは延期にはならない状態になった。
しかし、武漢株は欧州株に変異し、ロンバルジア平原で感染爆発をした。北上、アメリカに伝染した。
各国で急遽、入国禁止がはたらき、欧米に滞在していた日本人は、日本もいずれ、そうなると見越し、
木子する者が続出する。彼らが、羽田、成田、関空に帰国するのだが、全員PCR検査を3月中旬から
各空港で実施し、追跡するようには、なっていないから、表面上の審査で通過する。帰国者に規制が
かかるのは3月21日からであるから、欧州にいたと同じように、日本でも、欧米帰りの感染爆発が
発生したということで、オリンピックは延期になり、感染経路不明は、若い人の感染が
盛り場で、送別会で盛り上がり、隅田川のタクシー宴会と同じ状況が生まれたのであろう。
感染研の遺伝子解析で、欧米株と断定してるのだから、武漢株は淘汰されたのだろう。
武漢株のピークは3月上旬ということになる。問題は、欧米株のピークだが、発祥の地で
ピークを越したそうで欧米株は、緊急事態宣言の発動は、3月下旬だったろうが、欧米同時性がある
ので、日本のピークはもう打っている可能性がある。武漢株も、退院した人々から、戻しがないかどうか
検体解析が必要だろう。
2020/4/28 関東地域の規制緩和
関東地域(埼玉、東京、千葉、神奈川)で、感染者数は6540人国内感染者総数13425人で割ると、48.7%である。
関東地域は、周辺が東京への通勤者が昼間人口を形成している。単純に、宣言を解除すると、東京都内の
ベッドタウンの多摩川周辺市から、都内の事業所、公的機関、教育機関に通勤・通学する人で、感染の2波が始まるのは
予想できる。また、関東地域以外からも、いろいろな目的で、入ってくるから、その人たちが、ウイルスを
持ち帰る。感染経路が分からない感染者が、毎日の発表の5割以上になっている限り、それぞれの通勤・通学
の経路で、立ち寄る場所で感染している。2次感染者では、20代の女性がキャリヤーであるという数字も出ている。
対面レジのスーパー等では、ビニール、アクリル板で、客、従業員の飛沫防止をしているが、個人営業所の
従業員は、毎週、検査を強制し、店内には、人数制限、手の消毒、マスク着用を客に強制することを
しないで、営業所をあけることは、宣言期間中外出しなかったが、ウイルスも体内に共生して、再び、繁栄の解除を
待っているにちがいない。やはり、物理的に、3密を遮蔽する防御板を作って、経済社会を始動しなければ
小池都知事のお願いを現在、感染者の体内で排出自粛しているコロナが聞く耳をもっているわけがない。
都でできる有効な3密を遮蔽する『防御板』は、公的機関、医療機関、教育機関において、予算と人員を使って
構築しないと、外出制限が解除されても、感染者の動きを止めただけなので、再び活動する。
都内の各飲食店でも、3密対策を講じ、営業は11時から13時まで、17時から19時までノンアルコールで、
営業すべきである。レジ、PC、タブレットは、除菌タオルでふくなど、共用設備等は消毒することが、院内感染で
分かっている。たとえば、券売機はたえず消毒することである。
私が住んでいる山口県では、感染者は4月27日で、32人である。感染者は、県や市が報道機関に発表するので
感染の原因は、ほぼ特定化されている。企業関係者は福岡経由、大阪経由、熊本経由、帰国者等、感染者数が
少ないため、その人たちの家族、職場に2次感染している。感染者は、下松市、周南市、防府市、宇部市、山陽小野田市
山口市、下関市に居住、入院中の人もいる。国によっては、外部者、特にコロナ関係者が来ると、石を投げて追い返すとか、
徳島県のように県外車に、傷をつけるとか、いやがらせをする人もいる。
現在、宣言のおかげで、不要な外出は減っているが、32人が完全に陰性になったという、コロナ終息の証拠発表はない。
また、感染者は病院、自宅で完全に隔離されているから、心配しないでくださいということも保障はない。
事実、家族に、自宅感染が発生している。一応、感染者は、適切な施設に確保隔離されている人数だろう。それらの施設で、
新たな感染者が出ているというのは、「あってはならない」ことであるが、残念ながら、感染者を出している。
厚労省、文科省の調査専門家を立ち上げ、なぜ、感染者が出たのか、その機関に調査を任せず原因を調べるべきだ。
かつて、雪印の牛乳工場で、野積みの牛乳が原因で食中毒を起こし、食品工場のHACCP対応
がやかましくなった。そのころ、学生を連れて、広島県のおたふくソース工場を見学したとき、当社はHACCP対応
していますと、説明を受けた。
病院、介護施設で感染者が出ていて、死亡者がでているから、それらの施設の衛生管理と医療従事者の対応は、
調査した結果から、今後の設備、装備、医療従事者の訓練・研修に役立てるべきだろう。
2020/4/27 医療従事者の院内感染
世界各国の政府関係者のコロナ第1波後、活動規制解除が議論されている。感染症識者は第2波、第3波を警戒し
解除は、慎重にすべきであるという意見が多い。イラン、ブラジルやアフリカ諸国では、解除の方向で動いている。
日本は、5月6日までは、国民のゴールデンウイークであり、国民の移動が例年、活発な期間であるが、今年は
移動制限がかかった。10時から18時まで時間帯で、マスク着用、体温検査しなければ、店内に入れないとか、
公共交通機関もマスク着用、体温検査をパスしなければ、入場規制する。昼夜を問わず、客と接触する遊興業は
感染者数のひとけた台が2週間継続しなければ、休業を要請するというような、個人の行動に、それなりの健康体、
防御体でなければ、外出規制は続行するのが第2波を防ぐ、次の段階かもしれない。
宣言下、解除後も、医療従事者にとって、患者がいるかぎり、感染リスクをなくするような院内、院外対策を
取らなければ、自らも感染者になる。ジョンソン首相が患者となり入院して、退院し、関係した医療従事者に
感謝されていたが、院内の清掃従事者に感謝していた。既往症で入院する弱った患者ではないから、
入院すると、大小便は出てくる。自分でできれば、携帯トイレがベッドのそばにあるが、本人が動けなければ
大人用おしめか、パンツ型である。病院食は味はほとんどなく、栄養、カロリー計算してあり、大便が
ほとんど出ないように作っている。水分はストローでとる。大小便排出量管理されてはいるが、それでも
携帯トイレに出す。重体になれば、大小便のケアは、医療従事者である。コロナの場合は、大便に
排出されると中国の研究者がウイルスを検出している。このコロナは、体外へ排出した場合
コロリと死滅するのではないから、油断しないように、注意喚起されているのは周知のとおりである。
自宅待機のの場合も、感染者について、触るところは、毎日、アルコールでふき取る必要がある。
また、ホテルで自分で清掃する場合も、自分が触ったところは、アルコールタオルでふき取すべきである。
トランプ大統領は、太陽光と消毒液でコロナウイルスが消滅する時間が短いという研究結果から、
消毒液を注射したらという思い付きを記者会見で話し、周りは危険だということで、取り消した。
日本では、確か、医療関係者がクレゾール液を点滴液と変えて、死亡させた事件があったように記憶する。
太陽光の方は、大腸がんのファイバースーコープを気管支から肺に入れ、照射させることは可能だが
体外では、太陽光は効果のあるという結果を得たそうだ。効果があるのは、紫外線である。
日経に、日本のメーカーとアメリカの大学研究機関とで、紫外線のうち、発がん性のある波長以外の
紫外線で99.9%ウイルスを短時間に死滅させられるので、その器機をアメリカで試験運用するそうだ。
このコロナの粘着生存性に対する対応は、その紫外線を夜間、院内に一定時間、照射する。
防護服、医療機器も照射、死滅させることを今年、秋以降の第3波までには、感染症病院では
装備した方が、より、院内感染リスクを軽減できるだろう。
公共交通機関では、夜間ロボットに搭載、人の触れるところ、歩くところを照射していけば、集団感染
リスクを軽減できる。世界各国と東京都の違いは、公共交通機関での防護服を着た職員が
消毒液で消毒する姿がないところである。安倍首相とおなじで、精神論で訴えても、敵は
体内、体外もコロナの粘着生存性のために、感染爆発が生じているので、効果があるそうなので
電気機械メーカーは、開発に参加した方が、秋以降の対策に間に合うのではないだろうか。
それまでは、公共施設での手で触る、歩くところの定期的消毒は心掛けた方が、感染者を増やさない
ことにつながる。
2020/4/25 WHOの勧告と個人の対応
WHOがアセトアミノフェン推奨、イブプロフェンの服用注意と、薬情報を出したので、日本の総合感冒薬である、
ジキナ、ジキニンの成分を調べると、アセトアミノフェンが主要成分であった。解熱・鎮痛作用があり、使用をしてもよいが、
飲みすぎには、副作用が出るそうで、6時間間隔をあけ、12歳未満は飲ませないことと注意されている。
イブプロフェンは消炎作用があるが、医師に相談すべきということだった。WHOは市販されている薬に、コロナ発症緩和剤として
効能を認めているのか、一般のサイトに、飛び込んでくるから、不思議な機関だ。日本では、ともに、市販されている。
WHOの新コロナ発症緩和剤として、軽症、無症状患者に、自宅での服用する薬として、飲んでもよいとの判断を
知らせたようだ。その後、反論があり、WHOは、イブプロフェンの服用注意は撤回したそうだ。
あらためて、薬の注意書きをよく読んだ。日本では、自己判断で、風邪かなと思えば、まず、常備している
市販薬を飲んでいると思う。37.5度以前の初期症状のとき、頭痛、のど・鼻が渇く、咳が出る、熱っぽいと
最近は、味覚が失われるそうだ。そのときに、医者に行くまでもなく、自己管理対策として、ほとんどの日本人は
飲む市販薬が決まっているだろう。そこまで、気にせず、生活するほど、無防備な成人はいない。
あのとき、あの薬が効いたと経験していることが、記憶されているためである。
コロナウイルスは、発症までに、頭部と気管支に取り付いているわけだから、いつもより、寝ても、
殺される、追いつめられる、困難に直面する夢を見るはずであるが、それは、体内にコロナが侵入されて
体が戦っているから、そういう夢になって、警告しているのである。まあ、いいかで、心当たりがなければ
食い合わせが悪かった。つまり、夕食で、動物の肉や、魚を食べたことが原因の場合がある。
発症まで、数日間はあるわけだから、何らかの自己対応をした後、37.5度まで悪化すれば、厚労省の相談窓口に
連絡をとり、最寄りの医療機関を紹介されることになる。
現在、緊急事態宣言下にあるから、毎日の生活で、総合感冒薬のご厄介になっていなければ、外出の際は
マスクを着用していて、スーパーでは、客は全員マスクするようになり、私も、マスク着用して、買い物に行っている。
マスクは、手製のマスクを作ってもらったので、それを着用、使い捨てマスクとインナーガーゼは、煮沸し、天日干しで
使っている。退職前の3年間、歯医者で、歯の治療をし、掃除してもらったし、歯磨の方法も、歯科衛生士に
とことん鍛えらえた。そのせいで、口内は清掃してあるのが、風邪対策かなと思っているし、マスクしても
吐き気がするような口臭から免れている。かなり、歯槽膿漏で、マスクをしている人は、本当に、
気の毒だと思う。生きていくのがつらくないだろうか。私は、歯磨もコロナ対策にはなると確信している。
2020/4/22 WHOのコロナウイルスに対する初期対応問題
WHOのコロナウイルスに対する初期対応について、欧米での感染者と死亡者が歴史に残るほど、
被害者が出ている現状で、スイスでWHOは独自の研究機関もなく、世界で信憑性の低いデータをうのみにし
その結果、初期の感染能力の強度を甘く評価したために、湖南省封鎖で、海外拡散は防げると
WHOは2月初旬で、パンデミック宣言はしなかった。WHOの判断の基準が公開されているわけでもなく
そのころから、エチオピア人事務局長、かつて、中国人の女性が任命されたときもある。中国の経済成長で
WHOへの拠出額も増加して、発言力は高いし、エチオピアには、中国の電力開発援助があるともいわれ
WHO内部の決議は、中国の意向に牛耳られていると、世界の政治の世界では、認識されている。
WHOパンデミック宣言にいたる、WHOの判定会議議事録は、国連の安全保障理事会の議事録と同様に
パンデミック宣言の世界経済社会に対する影響が重大であるため、歴史的に、公文書として残される性質
のものであり、当時のWHOの叡智の最善を尽くされた結果である証明書でなければならない。
4月22日日経において、WHOの進藤氏がインタビュ―で答えていた。発生の認知と対応の話はない。
パンデミック後の話である。WHOは、専門家が現地の医療従事者と患者を個別に診断した結果、現地で
検体の収集とその性質について、スイスに持ち帰り、独自の研究機関で、培養、観察をして、
独自の専門機関としての判断をするように、組織が作っていない。生物兵器の可能性について
それを作成する国がないように、軍事的な観点から、WHOが創設されたわけでもない。
トランプ大統領が、中国武漢の研究所にウイルスを事故で拡散したという話とWHOの勧告が遅すぎる
ことで、WHOへの拠出金を停止すると言い出した。武漢の研究所がコロナを採取するのは
当然の職務であり、他の研究機関と同様なことはすでにしている。研究所内にはコロナウイルスは
培養しているのは事実である。日本の国立感染症研究所にも、存在する。
事故で、再拡散したとか、突然変異したウイルスを拡散したというのは、言いがかりだろう。
結局、トランプ節で、ユネスコと同じように、WHOも米国のためにはならないと判断するようになってしまった。
日本側の初期対応とその後の対策は、中国・勧告に比べると、医療関係者、感染症対策を取った
病院数とについて、国立感染症研究所には、過去の中国・韓国の対策は日本で可能かという
研究論文はないと思う。検査についてほとんど不可能であるのは、この機関が、検体を収集し、
ウイルスを研究することが主要な目的であり、拡散防止、治療方法、抗体、ワクチン製造の
研究部門が内に等しいのだろう。電子顕微鏡のが画像は、今もNHKで参考に、写されているが、
さらに、精密な測定、DNA解析、カラー画像は引用されない。クルーズ船の乗員、乗客の
4000未満の全員検査ができなかったのは、この研究所に能力がなったせいである。
今後の再流行が予想される中、実効性と即効性のある対策がとれる機関の改革は、
必要である。感染症の研究者層も薄いと指摘されている。
WHOの進藤氏の『新常態』論は、習主席の『新常態』とそっくりで、ここまで、WHOは
政治的な機関に堕しているのかと唖然とする。
WHOは、世界市民に対する公衆衛生上人類の生存に著しい害を与える生物が発生したら、直ちに、
世界に警告をし、必要な対策と治療法を医療関係者に、抗体、ワクチンの製造について、各国の
優れた開発能力のあるメーカーに、ウイルスの最新情報を伝え、開発を促進させることが使命だろう。
2020/4/14 コロナ対策は長期戦
コロナウイルスは、3種類に突然変異していると遺伝子解析で分かっている。欧米と東南アジアと中国の3種類
である。北半球では、夏に向かい、人間同士、3密は暑苦しいし、ウイルスも40度は耐えられないだろう。
中国の研究者の会議では、コロナウイルスは、暑さに弱いようで、体内で、活動を不活発にし、寄生状態に
なる見込みがある。その間、南半球で、感染爆発が始まり、それが、収まるころ、秋から、北半球で
再び、活発になるという予想もある。
ワクチンを地道に、開発して、秋からの再発に備える必要があるようだ。中国では、感染者の無症状者、
軽症者から、200cc献血していただき、コロナ抗体ができているのか、研究する必要がある。
稀少な体験なので、南半球から、ブーメランで帰ってくる場合、感染者の体内で活動を休止している
ウイルスが再び活動することも、予想できるから、回復した血液とウイルスの検体を保存し、
治療薬の開発をすべきである。これは、一過性ではなく、規模は、様々な対策で小さくなるかもしれないが
消滅するウイルスではない。
2020/4/12 紫外線が増加する季節
春分の日から、特に、朝、窓を開け放って、空気を入れ替えるようになった。どこの家でも同じことだろう。
近所の桜も満開となり、今年は、開花の期間が長い。3密の密室はこれで、解放される。私は、入試業務のとき
試験室で昼休み、寒いが、暖房はきいているので、窓を開けて、休み後に閉めていた。密室で密集しているし
試験室で弁当を食べる受験生がいるので、弁当のにおいがする。気分が悪くなる受験生も出てくる。
もう受験は終わるころだが、緊急事態宣言が3月下旬にでたら、都市に受験に行く人は、困っただろう。
最低1ヵ月、自宅を中心に、生活する人が多くなる。旦那は家事育児を手伝う機会も増えるだろう。
医者も、閉じこもりは、軽症の人でも、肺の活動と血流を通常どおりに機能させないと、ウイルスが
減少することにはならないという。重症化する人が、人工肺に血液を通すと、肺炎が改善するというのも
ダウン寸前の自分の肺では、血液を通じて、白血球を送り込むことができなくなるのであろう。
室内で、高層ビルの窓から、励まし合うのも、本能的な行動なのだと思う。その反面、DVで、一方的に
暴力を振るう人もいるそうだ。本人はいい運動なのだが、相手は、殴り倒され、「この馬鹿たれ」と自宅待機と
思うと余計、心身ともに絶望の淵に漂う。
飲食店でブルーライトが調理室でつけてあるのを思うだし、紫外線ライトは、ウイルスを殺菌できる。
密室も紫外線LEDで、コロナウイルスを除去できるとか、言っている人もいる。太陽が南半球から
戻ってくると、太陽の紫外線が、秋まで北半球では増加するから、その殺菌作用で、コロナの活動は
抑制できるという人もいる。太陽光のスペクトルをもつ光線治療器があるが、その発光線には
症状によって、スペクトルを選べば、症状が回復する。それとよく似ているが。
コウモリのウイルスだから、コウモリは夜行性だし、紫外線はコウモリの行動範囲には存在しない。
紫外線には、当たったことがないから、コロリと死滅するかもしれない。彼らがそう主張するなら
LEDのファイバーケーブルから、鼻、のど、肺臓に紫外線を照射したら、効果あるかなと思う。
別の人は、密室から、窓を開放し、紫外線を部屋に取り込み、散歩道を有酸素運動することは
マスクより健全な予防になる。しかも、太陽からの紫外線は毎日増加するのである。
しかし、世界地図を見ると、感染者が多い国は、北回帰線上に並んでいるのは
偶然なのか、紫外線が北回帰線以上では冬減少する地帯なのか。南半球ははるかに感染者は少ない。
2020/4/12 コロナ休業に伴う財政資金による資金繰り支援と銀行システム
今週から、緊急事態宣言都市では、通学はないので、平日の通勤7割減が目標のようだが、企業が東京本社機能を
3割で維持できるか疑問がある。日本の政策は、数値目標を掲げるが、達成されなくとも、そのための予算が
消化されれば、政府組織では問題はない。政府と独立した組織である日本銀行すら、デフレ脱却のため
物価上昇率2%を目標にしていたが、黒田総裁は、5年の任期で達成できず、未達の能力しかない総裁を
またもや、安倍政権は再任を認めた。日本銀行法には、総裁の任期は定めがあるが、再任の定めはなかった。
超緩和をして、株式まで購入したが、また、消費税2%増税したが、デフレに戻っている。これで、3本の矢うちは
デフレ脱却の矢は、再任の5年間も不可能だろう。間接金融市場は、コロナ禍で、特損を出し、銀行システム
による貸し出しは、ますます、市場規模を縮小させ、インターネット・バンキングで、支店網無し、短期間融資は
AI審査で、1分審査、即口座振り込み、返済方法も選択でき、資金繰りを委託管理したもらえるシステムに
移行してしまうだろう。日本銀行の通貨供給は必要なく、キャシュレス資金繰りになる。
物価上昇率が、モノ主体で統計上計算されていると、サービスや情報価値の取引は、統計に入りにくいから、
黒田総裁のような非伝統政策を長期間維持していると、2%目標は、不可能になってくる。日本銀行も
「銀行の銀行」であるから、日銀業務は銀行法の業務が基本である。黒田総裁のように、銀行から離れて
株式価格が下がれば買いを入れ、投資銀行のようなことやっていると、商業銀行の銀行システムは
仕入の預金金利は0金利、貸付先は株式価格を下げられる心配はないので、株主総会で経営責任を問われる
危機的事態にならない。企業経営者は投資して、企業価値を上げる努力をしなくなる。
8%、10%の消費税は、サービス業にとって、納税期限まで、小口現金に流用できる益税である。
地方では、人口流失が止まらず、出生率の低下している。人口流入の東京では、団塊世代を中心に
過去の人口流入が高齢化してきているし、これも、シングル、一人っ子世帯が増えている。
地方も東京も将来的には、公的サービスの租税負担は増えるが、人口由来の需要は縮小する。
銀行システムが縮小する要因は、日本銀行のゼロ金利、銀行の過剰流動性にマイナス金利を掛けて、
超短期の資金運用、資金調達もできなくしてたら、地方も都市も毎年、収益が減少してくる。
今年は、コロナで、政府の財政救済で、資金繰りを賄うといっているから、銀行融資は
必要ないだろう。しかも、政府は2010年の金融円滑化特別措置法で、返済猶予等をするようなことを言っている。
銀行救済特別措置法を制定するような事態がじわじわとくとくるのではないだろうか。
生き残る銀行は、無店舗インターネット・バンク・証券・保険会社であり、日本銀行の政策金利が
その業務に影響することはなくなり、キャシュレス時代になれば、日本銀行券は不要になる。
金融庁はその情報ネットを監督・管理するようになる。気の毒だが、現金は必要なく
日本銀行と取引する銀行は消滅する。銀行システムの政策・監督責任は金融庁にあり、
日本銀行の業務ではないから、物価目標2%と全く関係のないマイナス金利が、銀行システムを
痛烈に毀損していることに、日銀は責任ないので、今もって、平然としている。金融庁も
大蔵省から外庁に分離させられたが、かつて1行も債務超過させない護送船団方式を
金融行政の柱にしていた面影はなく、抗議しているようでもない。
2020/4/10 緊急事態宣言下の暮らし方
来月の6日連休最終日まで、日本の主要都市で、宣言下で、3密的業界、公的機関では、休業を余儀なくされる。
各都市に接続する各県も、宣言下の都市に往復し、その住民と接触した人は、2週間、要観察者とみなされ
自宅待機になるという措置が取られている自治体もある。特に、医療機関、公的機関など、これまで、
ルーズに職員管理され、感染が発表になった機関、企業では、強制的に、接触禁止に追い込まれている。
昨日の東京の通勤を見ていると、隣接県も宣言下にあるから、たとえば、埼玉県大宮から、大手町に
通勤する人は、朝から夕方まで、外出禁止ではないし、公共交通手段は、運行停止になっていないから、
各職場で、目のの毛細血管、血圧、体温チェック、舌を出しで、味覚チェックをすませて、合格した人が
入室でき、症状が見られ人は、医務室で、問診、検査を勧められることが、国会議員さえも求められている
と想像する。あと、1ヵ月、宣言下の緊張した職場環境が求められ、寄り道せず帰宅することになる。
弁当持参である。そのような配慮が面倒であれば、宣言下では、公共交通手段は運行停止し、通勤は
できなくなる。世界各国で、感染拡散中の自宅待機と外出禁止は、日本のようなルーズな宣言では、
感染防止はできないのだろう。日本のは、特殊だ。成功すrかどうかは、宣言下の住民の自主的な
対策で、感染しない3密を極力避けることだ。
私が住んでる市では感染者は出ていない。しかし、隣接の市に発生し、そこへは行かないが、
マスクはないし、障害者の工房では、1枚450円、販売しているというニュースをみた。
手芸材料店で張り紙を見ると、ガーゼとゴム紐入荷予定と書いてあった。中国から輸入したマスクを
1枚120円、電話で購入できるとチラシも入った。やはり、中国製の横流し製品かなと思ったりする。
粗悪品もあるそうだ。人工呼吸器と違って、厚労省の品質承認が必要ないのだろう。
日本製は医療関係者に優先的に配布されているのだろう。中国政府から、日本国民に、従来通りの
日本仕様の製品は製造、輸出認可されているのか、日本政府は、マスクについて、状況説明はない。
日本に、従来通り、輸出はできないのだろう。宣言下で、ルーズな要請では、マスクは宣言下地域では
必需品だろう。ここは、ガーゼとゴム紐の業界に生産を増産要請がいるが、全国手作り友の会の軍国少女に
声をかけ、非常事態下の戦中動員時代を思い出し、その地域に、1枚450円で、供給したらどうかと思う。
日本は自然災害ばっかりだったが、そういう人たちに、国難の、今回の疫病禍に貢献していただけないものか
と思う。私も、小中学校で、家庭科、技術家庭を思い出し、母の卓上ミシンを使おうかと思う。
また、長引き、隣接の市から、この市が感染しだしたら、国がマスク着用が外出時の義務とするなら、
えらいことになるからである。
2020/4/9 東京オリンピックの延期と経済効果
アテネで、厳かに、太陽から採火された聖火は、日本の松島基地に3月20日強風の中、到着し、
トーチに、容易に聖火が移らず、セレモニーはできたと報道された。その後、局面がごろっと代わり
来年7月23日開催に延期された。現在、日本は、緊急事態宣言にしたがい、コロナ撲滅の目標に
専念している。5月6日の連休終了まで、感染者のの発表が、とりあえずなくなることがその成果になるだろう。
ウイルス汚染がひどい地域は、外出規制がかかるので、自宅感染しない限り、感染者数が減少すると
期待されている。他の地域も、極力、汚染地域に立ち入らないことを要請されているので、
出張でコロナ土産を自宅に持ち帰る会社員ははるかに少なくなるだろう。
オリンピック延期で、準備していた、神戸牛、松阪牛の生産者は当てがはづれ、牛は、もう1年
長生きできると笑い、生産者は嘆いているそうだ。
昨日始まったばかりだから、徐々に、要請が解除され、冷房の密室が始まるまで、感染者が0であることを期待したい。
日本全国の経済社会活動は、もとへ戻り、梅雨が終わるまで、室内が解放されていくので、3密が形成されない
から、夜間懇親会を自粛すれば、自然に、コロナは、その拡散活動を停止するかもしれない。
中国との貿易関係は、すんなり、復旧するとは期待できない。マスクは中国が生産管理をし、国際関係の手段に
使っていると聞く。日本へ輸出しているマスクは、日本の業者が中国業者に発注し、輸入する仕組みだそうだ。
しかも、世界の5割を中国政で占有しているそうだ。感染爆発する国から、高値で引き取られている売れっ子
だそうだ。コーワがガーゼ製の古式マスクをミシンで作っているし、北朝鮮でも黒いマスクをミシンで縫っていた。
ヨーロッパもそんな国があった。私も、老母が裁縫好きで、ミシンもあるし、つっくてもらうか、自分で、ミシンをかけるか
と思う。中国の製造大国目標はいいが、トランプ大統領ではないが、依存しすぎるのもどうかと思う。
かつて、1993年、バブル崩壊時に、東京の地下鉄を乗っていたら、皆、気の毒ぐらい意気消沈したかををしていた。
私は、学生を連れて、これで東京人も、成人病にいずれなり、メバチロンの世話になる、介護の世話になる、
心電図の世話になるだろうと、備えは大丈夫なのかと各工場見学した。三共では、メバチロンは一生のむ薬と聞くし
セコムでは終末医療の点滴液を、最後の自宅療養に届けるというのと、介護は公的保険制度になるという話をし
フクダ電子の広報の人は、厚生白書では20兆円台だが増える見通しは意見が一致、心電図の器械は、軍需品と同じで
使わなくとも一定数保有する必要があると言われた。その後、阪神大震災がおき、6千名以上がなくなったが、
政府は、徳島県に、万が一の場合の棺桶が6万本備蓄してあるという話も聞いた。
今回、トランプ大統領は、医療従事者のマスクを輸出禁止にすると言い出した。中国もマスクの製造、販売は管理下に
入れているし、中国製人工呼吸器も同様だろう。治療薬も同じだ。中国と同じ立場をとる国には、優先して供与するだろう。
しかし、イタリアで多くの人が亡くなっており、中国製のマスクを供与されても、いい感じはしないし、
ミラノ周辺のアパレル中華村も、今後、地域感情として、尾を引きそうだ。一帯一路の中国路線は
支持されるのか、暗雲が漂ってよってきた。医療関連品は、完全自給、備蓄が必要だ。
また、医療関連製品の取扱者も、給与面で優遇される職業になるだろう。医療、検査、治療等で、AI化
通信化される見通しもついてきた。今後、抜本的な基本医療政策を考えていかなければならない
コロナ事案になってしまった。
日本に話を戻すと、中国以外の国への輸出は、梅雨明け後、徐々に、相手国の状況で、回復するだろう。
その間内需は、回復を読みやすい。東京オリンピック関連の東京投資は終わり、消費税10%後の消費落ち込みで
さらに、開催以後の内需減少が心配されていたが、延期になったから、神戸牛のもうちゃんのように
現在の急激な減少から、梅雨明け後、鉄板の上で焼かれるだろう。
日本の主要都市の経済社会復旧で、四半期分の需要が減少して潜在需要が圧縮されているから、
宣言解除が進めば、順次、需要は満たされていくだろう。ただし、3月からの四半期分は厳しい数字になる。
2020/4/8 アジア諸国の感染者数と欧米の患者数
日本もようやく、準非常事態宣言をした。最近の日本の地方の感染者が、散見するのは、指定都市に出張した
会社員が都会の3密地帯にて、濃厚接触した気配がある。この時勢で出張するのは、命がけだが、蛮勇をふるって
出張を果たすものらしい。その分、社内では、社交的な、いわゆる情報取り屋さんの能力が優れているのだろう。
その分、3密地域に接触したくなるのかもしれない。宣言後、1ヵ月、それ以外の地域の人々は、蛮勇をふるう必要もないし、
行って、3密地帯から、コロナちゃんを持ち帰り、家族も同じ気質で、社交的で、お友達と、帰宅後、3密のお付き合いをし
皆感染し、その市では、対策本部でその対応を検討するし、その会社は2週間、全従業員は検査、陽性患者が
でると、宣言後は、会社の完全消毒、営業休止に追い込まれるようだ。京都市の大学の学生のお持ち帰りは
京都の病院の受け入れベッド数を、超えそうだと連絡があった。
コロナは感染力のスピードが速いのが一つの特徴である。罹患した場合の初期症状も、舌の味覚が失われると
いうのが追加になった。
発祥の地、中国の武漢、湖北省の移動制限と韓国の検査体制の能力により、感染者数は多いが、
ヨーロッパ南欧を中心とした感染者数と死亡者数、そして、米国の感染者数と死亡者数と比較すると
その他のアジア諸国で、人口の多い、インドネシア、タイ、バングラディシュ、インドのそれらは、低い。
これは、後者の人々の体質と自然環境によるものか、社会的格差のせいか、
コロナのエンベローブが脂肪でありその地域では、そのタイプのウイルスは周辺にゴロゴロ繁栄会を
形成して、免疫があるのかもしれない。今後の研究課題になるかもしれない。
この地域では、極貧層が多数いて、3密は形成しない季節であり、極貧で、しかも、菜食主義で
豚肉を食べないため、コロナ・コピー材料がない体質だろうし、極貧だけに、毎日、炎天下、
日雇いで働いているせいもある。血液中に、コロナが侵入すれば、すぐさま、「ご主人さまが
取り込む脂肪なんてありえない外敵だ」と白血球、抗体が反応し、取り囲んで、ウイルスを破壊する。
仮に、今回、感染しても、無症状か、極軽症のため、2月、3月日本のように、検査体制が取れない、
事情があっても、今後も、少ないのではないだろうか。
今回、南欧の医療現場の患者を見ると、見た目肥満だ。アジアの痩せこけた生活困窮者と見た目比較すると
例えば、体制的生活困窮者の北朝鮮の人々と金正恩氏および軍幹部をみれば、後者は肥満体質に見える。
インドの富裕層を見る機会がバンガロールであったが、この国では、金持ちは肥満なのだ。
中東でも、この傾向は変わらない。肥満は豊かな生活の体形に現れた特徴なのである。
アメリカで、トランプ大統領の支持者がやはりアメリカ人独特の肥満者が多い。そのせいで、
成人病疾患でなくなる率が高く、米国の死亡率を下げていると昨年発表されていた。
英連邦のクリケット大会が、3月ごろあるが、パキスタン選手は肥満であり、インド選手はスマートであった。
そこで、体内を脂肪球が数多く、肥満系には、菜食系より、多く流れているので、抗体もない
ヨーロッパの肥満系は、血中のコロナをトロイの木馬のように脂肪でコーティング、中に外敵潜んでいると
認識できないのだろう。欧米とアジア諸国とに、重症化、死亡者数に差があるのは、体質差が、重症化する要因の
一つのように思えるが。
自宅待機でも、籠って、運動もせず、脂肪球を血中に増やしていると、軽症も重症化する。
ジョンソン首相が、医師団に入院を勧められたのは、運動をしないためだろう。血中脂肪を運動で
減らすのが、大事な養生なのだろう。スポーツジムで汗を流していた感染者は、検査で陽性となり
運動をやめたら、ジョンソン首相のようにやばくなっていないだろうか。
2020/4/6 中国の都市化と旧来の食文化
今回のコロナウイルスが人間に感染したのは、武漢の旧来の食品市場のようだ。まだ、動物のウイルス検査で
確認したという中国研究公式発表はないが、どのように、コウモリを調理するのか、現地の人に聞かないと分らない。
うずらの焼き鳥みたいに、甘辛のソースダレで焼くのかもしれない。冬眠中で、脂肪を蓄えている気もする。
日本でも、マムシ、すっぽん、イナゴ、食用カエル、ザリガニなどを地方でいろんなやり方で食べている。
学生時代、富山のイナゴの佃煮をもらって、すべて、真面目に食べるのに閉口した思い出がある。
中国のゲテモノ食いは漢方薬の一種で、薬効があるのかとも思ったりする。中国人でも一般には、
そのような野生動物は食べないだろう。
一方で、武漢の町が高層ビルに囲まれて、都市化しているのに、驚いた。数年前、無錫を訪問し、地下鉄が
走っていて、高速道路があり、上海まで中国新幹線に乗ったことがある。中国の都市化には、モデルが似通っているが
かつて、西ドイツ留学後、中国を香港、広州、南京、武漢、撫順、大慶、ハルピンと個人旅行したことを思い出すが、
武漢は、揚子江に巨大な橋が架かっていたように思う。屈原が有名で、その像があったはずだ。大きな池があったように思う。
市内は、あのような現代化された町ではなかった。
1989年5月、結婚して、新婚旅行で、大連、旅順から、天安門民主化デモ直後の7月天安門を見学し、北京からウランバートル、
モスクワ、ワルシャワ、東ベルリンまで、すべて、列車でユーラシア横断した。ブランデンブルク門は、東側から、見た。
ヨーロッパとお別れの旅行のつもりだった。妻は、共産圏は食べ物がなっとらんと不平を言っていた。
なししろ、結婚もせず、私費、公費を数百万円、東西問題につぎ込んで、各国の事情を頭に入れたし、
ゴルバチョフ大統領はソビエト改革を始めてきたし、ヨーロッパ東西問題の研究成果はいずれ出るんじゃないか
と思っていた。帰国後、ルーマニア独裁の崩壊、ベルリンの壁解放が起きるし、努力は報われるものだと思った。
1987年から、中国旅行を開始、1988年春、韓国旅行を学生を連れていくし、すでに、東西問題ではなく、南北問題に
重点を移していた。中国経済が発展すると思い、日本国内は、いずれ競争相手になるので、日本国内の製造業を
中国を意識して、学生をつれて、工場見学していた。他方、企業との懇談会では、中国、アジア諸国への
海外進出について、聞いた。1992年、鄧小平氏の南方講話から、2000年を過ぎ、中国はWTOに加盟して、高度成長が
始まり、武漢のような街が次々に建設されたのだろう。
しかし、古い町は壊され、現代化されたが、無錫の街角を見ると、昔のままの所作をする庶民がいる。
香港のような高層マンションで、平屋の古民家と生活風習は、現代化はできないのだろう。
コウモリがコロナウイルスを体内に寄生させているなら、開発で巣穴を破壊されたか、温暖化のせいか
この冬の中国中原でも、環境変化が起きている結果なのかと想像する。
主国は、食品市場で販売される野生動物については、食品として、検査を強化し、人体に害があるものは
市場で販売禁止すことが、次のウイルスを発生させないことになるし、世界各国も中国政府が
そのような規制をすることを希望するだろう。
2020/4/5 日本の都市圏における3次感染者の増加
東京は、緊急事態宣言を発動する段階にきている、3次感染者、いわゆる、感染経路が特定できない
3密状態の場所は、第1は歓楽街に決まっているが、いわゆる、こらえしょうのない40歳が「大丈夫だ―」
、「インフルエンザだ」、「団塊以上の喫煙者は特に、重篤になる、40歳は軽傷で済む」、「政府も地方自治体も
夜間営業を禁止すると言ってないじゃないか」という、中部圏で飲食店で、「陽性だ」といって、結局亡くなった
「自分は重篤にはならない」と思っている人が多い。
このコロナウイルスは、アメリカでも、ベビーブーマー・キラーと呼んでいる。日本でも、そういう人が多い。
アトランタ五輪の前年ごろから、冷戦終結して、ドイツ語会話から、英会話の練習したらとアメリカ出身の先生と
個人レッスンを始めたとき、アメリカでは、ブーマーX、Y、Zというらしいので、興味深かった。そのXが
現在、トランプ大統領を含め、「ミクロ悪魔コロナちゃん」の格好のターゲットになっている。
私もそのXなので、「周囲は気をつけなさいよ」と始終言われる。
現在、日本の都市圏では、飲食店、歓楽街は閉店処置がとられていないが、やはり、貴女の癒しを求めて
あちこちで、都市生活を遮断することなく、60以上は、外出しないが、夜の巷を蛮勇を奮い起こし
大声でわめいて帰っていたのだろう。それが、二次感染者の軽症者と3密で、感染するのだろう。
あの小池知事のような、何を言っているのかわからないことで、自粛するものは少ない。
コロナは、公衆衛生上の問題だから、強制的に、営業を禁止させることは制度上可能な範囲だろう。
もう一つ、感染爆発の受け入れ態勢はできていない。大病院等で全国で、院内感染が起きている。
感染症対策がきちんととれている病院は、一般の病院では、無理なのであることが、証明されている。
感染爆発のシミュレーションや、世界各国の事例から、その爆発の最大リスクに対して、
東京都の入院患者の病床と機材は、患者選別をしても、中国やニューヨークのように、隔離避難所
を設営する準備に取り掛からなければならない時期だが、「今日は三桁になりました。」
小池知事が出て、「土日の外出は自粛要請します。」と、事態をみまもっているだけだ。また、あの「緊急事態宣言」では、
定める期間、すべての東京都乗り入れ交通機関の運行停止や、夜間外出禁止、飲食店、歓楽街の営業禁止
までの強制力はない。しかし、3密の営業をしていいる限り、オフィス、公官庁、医療関係機関、教育機関が
ごちゃごちゃとそれ自体で3密の東京で、抑制する力は働かない。石原元都知事が、「都知事室から
眺める東京は、3密で埋め尽くされていて、気持ちが悪い、何とかしない」と言ったという。
NHKの東京遊覧飛行画面を写すが、なんとも、無秩序で、東京は何を言いたいのか、カオスの町に見える。
それに、宣言で、悪魔コロナを退散できるとは、政府首脳も小池知事も、都民も考えていないだろう。
平日のオフィス、公官庁、医療関係機関、教育機関関係者は、出勤簿と検温記録、3密を避ける、手を消毒して
マスク着用、室内に入る、37度を超えるものは、検査に行くようにする。ビルの清掃関係者は、手に触れる
箇所は、毎日、消毒する。換気は、1時間ごとする。3次感染者が0になるまで、長い戦いになる。
名古屋、京都、大阪、神戸、広島、福岡では、規模は小さいが、医療関係者の感染、飲食店経由の3次感染が
3月20日から、2週間以上たって、発生している。その後の要請と、海外要因は遮断されてきたので
その効果があるなら、3月20日前後の「ゆるみ」の祝杯効果は、今週で出尽くすと期待したいが
その3次感染者が4次感染者を作りだしたとしたら、今週から、新たな段階に入るだろう。
2020/4/1 ヨーロッパ、アメリカの感染爆発と経済・社会活動の維持
ヨーロッパ地中海沿岸諸国とその周辺国で、感染爆発が深刻になっている。国を接する周辺国も
感染拡大している。非常事態宣言で夜間外出禁止や国境をまたぐ通勤はできなくなってきた。
感染対策で経済社会活動が著しく制限を受けているが、その間、所得の喪失に対して、各事業者を通じて
国の財政から、支出する準備をするようになっている。また、地方政府の定められた税金および
社会保障保険料は、支払猶予が認められている。
感染対策で、経済社会の活動が著しく制限されているので、それらへの補償は、各政策手段は似通ってくる。
これは従来の景気対策ではなく、コロナ対策に連動して、失われている所得を補償するだけなので、
臨時の所得補償という政府の認識は、似通ってきている。つまり、平時の政府支出の増加、減税、
資本補助金によって、全国的に、一律に、ばらまいていく、効果ない日本型「景気対策」ではない。
非常事態に対する事業・生活保障なのである。政府が感染症の終息を宣言すれば、自動的に、
経済社会の活動に対する制限は、解除されるから、所得補償や、各納税、社会保障保険金
は、その間の納付額の再計算をして、納税者、被保険者に通知される。
これを政府関係者が、平時の政府支出の増加、減税、資本補助金による「景気対策」と
どんぶり勘定をして、50兆円とするのは、効果ない「景気対策」により、国の財政がさらに
圧迫されるのは、国民にとって好ましくない。
この世界同時感染爆発後、各国政府で、経済社会の「賢明な」復帰を可能とする、国家運営の手腕が
試されるだろう。日本政府50兆円も、今年度消化できないだろう。ゆるいパンツをはいた
旧来政治家が、こういう火事場に徘徊するふとどきも多かったから、税金をどぶに捨てる
ような内容になっていないか、国民も、世界各国の経済社会復旧の知恵を参考に、
税金の無駄遣いをしないか、監視ずべきだろう。
2020/3/28 公衆道徳と公益事業者の支援
世界各国の主要都市で、非常事態宣言が発動されて、生活維持のための外出以外は禁止される。
東京都は、小池知事が「感染爆発」前に、このほど制定された緊急事態宣言を発動する準備をした。
ご本人の説明では、切迫した緊張感と、都職員、警察、自衛隊、都内の全ての鉄道、バス、地下鉄
道路公団に対する緊張感ある指令があるように思えない。普通、そこまで、追い込まれているなら、
防災服を着用し、防疫の完全装備は都職員、警察、自衛隊、都内の全ての鉄道、バス、地下鉄
道路公団の職員、医療関係者には、十分いきわたっていると想像する。中国、韓国を見ると
防護服を着た職員が街路の消毒に回っている。
記者会見も、マスクをした記者としない記者が取り巻き、都幹部も、マスクはしていない。実際は大丈夫なんだろうと
その中継を見る人は思う。筆者の住んでる市の中心部では、マスクが店頭からなくなった1月末から、
JR、市役所職員のマスク着用になった。もう2カ月だが、都職員、警察、自衛隊、都内の全ての鉄道、バス、地下鉄
道路公団の職員、医療関係者には、マスクと手袋、消毒スプレーがいきわたり、完全装備しているようでもない。
公益従事者の鉄則、「うつされない、うつさない」に従って公益事業に従事するのは、当然の職務規定である。
そうしないと、市民は公益従事者を信頼しない。なんか緩いパンツをはいているような、切迫感がつたわらない。
イギリスでは、皇太子、首相も陽性であり、エリザベス女王夫妻に、濃厚接触があれば、重大なリスクになる
ところであった。
パリ市民やニューヨーク市民を見ると、外出中は、距離を取って、歩いているし、手をつないで歩いてはいない。
検査を受ける行列も、距離を取っている。これは、市の規制もあるが、公衆道徳にしたがって、
「うつされない、うつさない」を実行している。東京を見ると、マスクはしているが、してない人もいる。
筆者の市では、今だに、マスクと消毒液、アルコールテッシュはない。菅官房長官の力、日本政府の
力では、せいぜい転売禁止しかできないのである。地方議員で、東日本大災害のとき、急増したマスクと
貯蔵したものが、転売して、利益を得たという、この手の公衆道徳の欠けた人物が、日本全国
押し入れに、買い占めたマスクと手袋、消毒スプレー等を貯蔵していて、転売を楽しみにしていたと思われる。
しかし、国防の見地から、これらは、強制的に、民間企業を借り上げて、増産する仕組みが必要だ。
東日本大災害後、急増した中国の輸入品が7割になり、中国は、申し訳ないと思うのか、増産したマスクを
「一路」の旧ユーゴ圏に、救援していいる。日本向けの工場は稼働していないのだろう。
イタリアでは、人工呼吸器一式を、中国に救援して欲しいだろうが。
日本では中国生産が宛にならないことが明白な現状では、それをみたすには、軍需品扱いで
防護装備、治療装備を含めて、戦前の民間軍需産業ののように、強制的に生産できるようにしないと
「感染爆発」したら、目も当てられない「イタリア」の惨状になる。アメリカ合衆国では、産軍共同体で
生産できる仕組みになっている。
こういうことは、大阪は、戦前、工業都市として、軍需産業が盛んであり、日本一の産業都市として、
成長し、戦後、平和憲法にしたがい、軍需産業がはがれ落ちたため、いまや、関東地域、愛知地域
にその座を奪われている。ここは、維新の会で、戦前の軍需産業を盛んにし、大阪の復権を
画策し、平和憲法を普通の憲法に改正したいという、議員に野望がみえみえの言動が目立つので、
心苦しいが。
2020/3/26 非常事態宣言前の関東地域
東京オリンピックは来年に延期となり、日本はコロナ対策だけが当面の課題となった。感染者がパンデミック
に入った国では、パンデミック状態の地域は非常事態宣言をし、一般的な外出は禁止されている。
戒厳令と同じことで、市民生活は2週間以上、制限される。日本は、戦前の軍事クーデター以外は
発令されたことはない。違反すると拘束され、刑罰を受けるのだろう。
東京でパンデミック状態の兆候が見られ、小池都知事が、土日の外出を控えるように、平日も
外出を控え、仕事は自宅でできるなら、通勤しないように言い出した。原因は、誰からうつされたか
特定化できない感染者が1日の半数を超えたためである。
その後の、非常事態宣言で、都内への乗り入れはすべて禁止、都の消毒車(?)が待機していて
公共交通機関の車両、駅構内は、一斉消毒される、JR、新幹線は、関東地区手前で、折り返し運転となる。
首都圏の車両はすべて、通行禁止となる。という非常事態を彼女が都の会議で、すでに、案を
作成しているとは、この「平和ボケ」の首都東京では、想像できない。
まだ、朝鮮戦争の国連軍の司令部はあるし、米軍の東アジア司令部もあるから、冷戦時代、核戦争の恐怖で
共産圏もスウェーデンも地下鉄を深堀し、地下壕を準備したことが残っているが、東京都内の
地下鉄はそのように計画されて、作られたものでもない。ピカッと光れば、東京はおしまいだ
とうことで、「東京では極東軍も米軍も共産軍が撃たないための人質にしてある」というような、
戦国時代のわけの考えが東京に集まった連中に根深くあるのだろう。韓国では、非常事態の訓練はある。
東京を遮断するというレベルの高い非常事態宣言まで、進むのか、予断は許さないが、未経験のため
その備えができてないだろう。イギリス、ドイツ、スペインなどの国会では、議員間の距離は2メートルある。
日本の国会では、記者も密着してくるし、委員会も席が離してあるわけではない。危機意識がないのだろう。
感染すれば、隔離してもらえばいいのだろう。
関西には、GHQ占領時代以降、極東軍、米軍は撤収しているから、自衛隊の基地が細々とあるだけで、
重要な基地ではない。その分、核時代の中で、真の「平和」があると思っていた。そういう恐怖の一撃は京都にないし、
人類史上第一撃を実施したのは、米国であるし、他方、共産国では、治世方針は平等・公平原則だから、核で人民を
無差別に攻撃する先制攻撃はしないだろうと思っていた。非常事態といえば、阪神大震災で、交通網が遮断され
復旧には、全国から、ボランティアがきて、ほぼ、2年で、仮設住宅は、撤収されていった。
宣言をしなくとも、秩序だった行動で、泥棒も少なかった。東北大災害の仮設住宅がいまだ残り
原発はトリウム水、デブリ、周辺地域の汚染土の除去も進まない。その割には、復興税を払っている。
要するに、東日本には、自発的に、災害から、てきぱきと復旧、復興するという市民力がいまいちなのかと思う。
お上のすることには逆らえないという封建遺制が行動規範に残っているのかもしれないが
まだ、10年である。
要するに、東京はパンデミック状態前夜で、戒厳令に似た非常事態宣言は、戦後、実施したことはない。
今回のコロナ戦争で、検査・隔離・治療体制も、いまだ、整わず、当初、保健所は検査依頼に、対応でき
なかった。
一般の大病院で、看護師、医者に、感染症対応の訓練をして、一般病棟と、完全隔離する構造や、
医事従業者の訓練を全国で研修ができているとは、誰も、思っていないから、医事従事者が
感染し、入院患者に感染させることが起きている。
パンデミック状態になれば、重症患者で、左右の肺が真っ白に炎症を起こしている場合、
酸素マスクを外す選択を、肉親に了承してもい、助かる患者にベッドを譲るような、
野戦病院の中の、選択が必要な場合もあるだろう。ヨーロッパで今起きていることは
そういうことだろう。
2020/3/22 コロナ・パンデミック
北イタリアの感染拡大から、ヨーロッパ各国、南北アメリカに拡大し、アメリカ国内感染拡大が始まった。
アメリカでは、感染が始まった各州で非常事態宣言が発令され、不要不急の外出は禁止されている。
アメリカでは、通常のインフルエンザでも、昨年、2千万人感染し、死亡者は1万人以上と公的機関が
コロナ感染に先立って、発表していた。その理由は、非正規雇用者が、感染しても、公的保険に
加入していなく、インフルエンザと分かれば、解雇されるからで、しかも、サービス業の下仕事で、
雇用されているから、まさか、マスクと手袋で給仕、洗い場、客の案内、タクシー、配達をするわけには
いかない。それに、アメリカの構造的不法移民問題のため、不法移民1千万人以上は、公的医療は
受けられない。それらを合わせると、1億人が、感染し、隔離措置を受ける可能性がある。
都市機能は破壊され、食料品はマスク、手袋をした個別配達員が届けるようなものである。
トランプ大統領が製造業を中国から取り戻そうと始めた貿易戦争にもあるように、ニューヨークの
ブランド・アパレル、スポーツ・用品、日用のプラスチック成型品、各種雑貨は、輸入品だから、そういう事業所はない。
中国では、地方の農民工員が出稼ぎに来て、低賃金でそれらの工場で働いている。
しかし、今回、中国全製品に、製造中断規制がかかっているので、香港、上海、天津、大連からの輸出は
中国の規制が解除されない限り、復旧しない。しかも、世界各国も人的移動に規制をかけてきているので
各国の国内需要が回復する見込みが立たない。
アメリカで株式市場が暴落する理由は、コロナ戦争がアメリカでは、開戦したばかりで、感染者数が、
昨年の通常インフルエンザ感染者数2千万人、死亡者1万人になるのか、予測できないからだろう。
市場を鎮静化させるのは、各州、全米の非常事態宣言が解除されるまで、その間、非正規労働者
不法移民の家族を含めた1億人は、生活が維持できるのか、感染すれば、医療は政府の立て替えで
受けられるのか。これは、基本的に人間交流の問題であり、人災であり、政治的な問題である。
トランプ大統領は、非常事態解除まで、1億人の生命と生活の維持は政府の責任であるということが
明確に、約束していない。大企業および公的保険に加入している2億5千万人が、優先されている
ように思われる。アメリカの株式市場が落ち着くのは、コロナ戦争が終結するころだろう。
中国の製造業が復旧するのは、武漢閉鎖と湖北省のコロナ戦争が終結すれば、サービス業中心
のアメリカと違い、工員の防疫対策を完全にすれば、工員を感染しないロボット化することだから、
作業環境は防疫され、完全復旧は見通せると思う。
日本では、高熱、空咳、倦怠感の3症状が揃うには、感染から潜伏期間が2週間以上あるので、
全国で、クラスターが生じた都道府県で、明確に100人を感染者が超えている。
3月中旬、毎日の感染者数が減少するかと思われたが、2月、3月の海外旅行者が、感染して
持ち帰っている例が毎日報道されている。WHOのヨーロッパ・パンデミック宣言から、
日本人の旅行者は、当地のホテルでは、宿泊拒否か、「帰国しろ」と暴言を通行人から
吐かれているだろう。日本人の春休み、ゴールデン・ウイークの旅行は、中止した方が、お互い
不愉快な思いをしないでいいだろうし、名所旧跡、博物館、美術館、劇場は閉鎖されている。
現在、感染増加はクラスター戻しと、渡航者のお持ち帰りで感染しているので、今後もクラスターが発生しない
規制をすれば渡航者の追跡管理は、比較容易である。感染者を自宅に巣ごもりさせるのはいいが、
高熱、空咳、倦怠感の3症状の報告と、3食の配給、マスク、アルコール消毒スプレー、タオルは
本来、政府の施設に収容するところを、自宅待機に強制しているから、サービスすべきである。
食料品、日用品を買いに、出かける人も出てくる。自宅でも、主感染者を隔離するか、老人を
介護施設のショート・サービスで預かってもらうかしないと、全員感染し、老人は重篤と報告することになる。
日本社会の人間交流が、人災とならないように、互いに、気を付けて、このコロナ戦争に
全国で勝利するよう、間合いをとって交流することが、大事だろう。
2020/3/15 新型コロナウイルス感染阻止の個別対応
北イタリアのアパレル等の集積地を中心に、ヨーロッパでパンデミックになった。
イタリア人の感染者と中国人の感染者が帰国し、蔓延させたと言われている。WHOの本部のあるスイスまで
このウイルスは侵攻に成功している。中国の武漢で、市内の生鮮市場から、ウイルス感染が11月に発生し
発券した医師は、残念なことに亡くなった。それから、2カ月、中国政府が湖北省を封鎖して、世界に
その存在が広まった。WHOの組織では、12月中に、武漢に決死隊を派遣するわけでもなく、中国政府の
公式情報のみで、検体も運ばれていないので、本部が判断すれば、「パンデミックには至っていない」と
いうしかないのだろう。WHOには、強制調査権限がないので、しょうがないのだろう。
共産圏でこういう例は、チェルヌブイの原発事故である。ソ連は、1週間以上、事実を公表しなっかったが
スウェーデンの研究所から、放射能の拡散が検知された。1983年、ソ連、ユーゴスラビアを研究旅行をして、
プラハから、ウイーンについて、ウイーンの郊外に、国連の原子力調査機関の建物が建設されている現場を
案内された。それとあの「第3の男の」観覧車のある公園も連れて行ってもらった。そして、私の希望である
東欧研究所も連れて行ってもらった。
ソ連の解体とともに、原子力発電所の査察が、共産圏でも行われ、核爆弾を製造している北朝鮮は査察拒否
しているし、イランはロシア原発の査察は受け入れても、核燃料濃縮施設の査察は拒んでいるのだろう。
福島第1発電所の査察ビデオが残っているはずで、それは、ウィーンに送られたと思う。
権限の限界があるので、WHOを責めるわけにはいかないが、世界の交易を中断する状態に、拡散している
ので、武漢での感染者、重篤者とそれらの治療データは、WHOに提出する国際的道義は、中国政府にある
と思う。
日本でのクルーズ船、ライブハウス、北海道の雪まつり、すすき野ライブハウスのような集合集団と、
家族が感染する個別集団がある。現在、集合集団はイベント中止で発生しない。個別集団は、家族の一人が
集合集団から「お持ち帰り」をして、巣ごもり環境にある家族では、全員感染し、老人が肺炎を発症し、
毎日、感染が報告されている。
中国の報道機関が集合して記者会見しているのを見ると、記者席は2メートル離してある。これは、ウイルスの
有効感染範囲が2メートルのようだ。軽症者が80%であるのは、このウイルスのコピーに時間がかかり
肺炎をおこすには、時間が1週間かかるようだ。したがって、このウイルスは血液の抗体の
影響がない鼻、のど粘膜で、コピーの繁栄を企てているように見られる。軽症者は、接触の距離が
近いもの、家族、近親者、親しい異性、同性にしゃべると、容易に、感染し、相手の鼻、のど粘膜に
付着する脂肪膜をもっている。2メートルは、飛ばないのだろう。
年寄りが、肺炎をおこすのは、黙っているせいで、感染すると、のど粘膜城から、時間をかけて、肺細胞に到達
そこで、図体がでかいせいため、白血球の攻撃を受けるから、本人の生死をかけた体内戦争になるのである。
子供がかからないのは、体内防衛機構が完全であり、おしゃべりで、のど、鼻での繁栄城の面積が
子供なので小さいせいだろう。
集合集団と接触した経験のある人の伝播が家族で終息すれば、集合集団の結成は中止されているので、
感染家族が、他の家族を招いて、快気祝いをやっていると、これまた、個別感染になるかもしれない。
コミュニケションには、間合いを取ること、のど、口内、鼻の洗浄は、このウイルスに対して、さらに、有効かもしれない。
2020/3/13 健康☑アプリケション
家人のリハビリ中、老人は入院すると、歩行困難になるので、見守りしてたら、本人は黙っていて
実は、足に打ち傷ができていた。退院すると、老人は、またこけて、再入院する率が高いと米国の論文に
書かれているというのをそのとき読んだ。こけると脳のCTをとられ、付き添いの私も見せてもらった。
前の病院のCTがあると思いだし、医者に言うと、取りに行ってくれという。比較すると、確かに、こけた影響が
見えた。次は、盆ごろ、かかりつけ医でレントゲンをとると肺炎だと言われた。そのとき、病院間のデータは、
かかりつけ医と大病院と共有化されることに、同意のサインをした。県内では、そういうデータ共有が申し合わせで、
進んだようだ。今年1月、肺炎で2週間、入院した。老人は、軽度の肺炎でも、重篤化するそうだ。
本人は、リハビリの効果もあり、退院後ふらつくことはない。退院後、筋肉が落ちるので、余計ふらつくそうだ。
本人に対して、豚、鳥、牛、魚、豆腐、煮豆等のたんぱく質を摂取させるメニューにしている。
入院は本人も、家族も重い負担になるので、なるべく、そうならないように心掛けたい。
現在は、コロナウイルスのせいで、ディケアでは、検温が日課になっている。
今回のコロナウイルスでは、高齢者の発症は重篤化につながっている。普段の食事、運動、健康管理で
本人、家人がチェックしていれば、感染しにくいだろうが、何もしていないと、市販の解熱剤、風邪薬で症状を
緩和してやりすごしている家庭が多いと思う。
ベトナムの衛星放送をみたら、健康☑アプリケーションが、スマホについていて、保健機関に、家族の健康状態を
毎日、送信するそうだ。日本で応用するとしたら、さしずめ、感染と確認された人、全員に、毎日の健康管理を
担当部署に送信できるようにしたら、いいかもしれない。全国民に徹底するのは、5Gが普及した中国でも実施
できないだろう。血圧、検温も、スマホ・センサーがあれば、できるだろう。
北海道では、今も、雪が降り、閉鎖空間になっているが、医者にかかるのも、大変だろう。
北海道では、非常事態の状態なので、老人宅には、各かかりつけ医を指名しているはずで、
血圧、体温、咳、痰の有無は、この際、毎日、知らせるようにした方が、肺炎にまで重篤化する前に対応できる。
コロナウイルスでは、肺炎まで行くとその治療法が確立されていないので、医者は、従来の肺炎治療法を
使うしかないのであろう。早めであれば、肺炎の前でくい止められる可能性が高い。
2020/3/12 新型コロナウイルスの発生源と生態
安倍政権の初期対応の本部方針が立ち上がらなかったのは、厚労審議官が安倍氏の手足なので、これが動かず
MERS発生時も、発生源がヒトコブラクダということもあり、また、中東で汗水たらして働く日本人もいないため
国内感染の経験がなかったが、韓国ではあり、ひょとして、北朝鮮人も出稼ぎに行っていたかもしれない。
それで、今回、同型のコロナウイルスに対する対策は、中国、韓国、北朝鮮では、国直轄の対策に
組織的に移行できたようだ。日本は、クルーズ船が入港許可を求める段階から、入港させてどうするのか、方針が定まらず、
とりあえず湖北省在住の日本人を帰国させることに集中、いつの間にか、クルーズ船は横浜港に入港許可を出していた。
その間、「新型インフルエンザ特措法」に該当するコロナウイルスであることは、WHOの発表から、明らかに
なったが、この法律にもとづく、施行令は、具体的に、公衆衛生関連機関が何をどうするのか、定められて
いるはずだが、MERS発生のとき、発動されたことはないようだ。
今回、厚労省では、この法律に基づいて迅速に、定められた手順に従って、水際対策の徹底、そこからもれた
感染者対策を粛々と実施すれば「安倍首相は何しているのだ」という批判はなかったろう。厚労省は自ら、将来のこともあり、
特措法を通しているので、動物由来の新型インフルエンザが将来発生するという先見の明はあったが、抜かずの宝刀で、
厚労省に飾ってあったということである。
安倍氏は健康には人一倍気を付けておられるので、この分野には、本人自身のいつもの「強弁」力がおよばないのだろうと
私は観測していた。週刊誌では厚労審議官が不調だったせいだしている。
さて、コロナウイルスは、動物由来に間違いはないようだ。それが、ネズミかコウモリかは、中国の科学者は
確定していない。MERSは、コロナ型の特徴である、脂肪膜でおおわれている。武漢では野生のネズミかコウモリ
を市場で販売しているのが、当初、テレビで報道されていた。MERSのラクダより、繁殖力が強い。彼らは
暗黒の巣穴で、密着、濃厚接触、発声によるコミュニケーションをとる生態をもつので、
感染力は、それに最適化して、コロナウイルスの子孫繁栄を謳歌しているのであろう。
脂肪膜は、乾燥に強く、喉等に付着しやすいためで、肺から血液に入れば、抗体に取り囲まれ撃退される
はずだ。子供に感染者が極端に少ないのは、外見脂肪球なので、血液から、排除されているのだろう。
脂肪球がぷかぷか浮かんでいる人は、その力が弱い。肺炎をおこしていると白血球が増加するのだが
それもないのかもしれない。
肺炎をおこした重症患者は、現在、治療薬はないのであるから、脂肪球を取り除けば、ともに、コロナウイルスも
除去できる。血液交換機にフィルターをつけて、ウイルスを機械的に除去する、白血球を増加させること
も有効であるようだ。
今年は、子年で、人間は、暗黒の巣穴で、密着、濃厚接触、発声によるコミュニケーションをとる生態をもつねずみ、
コウモリとご先祖様は、同じであるから、そのタイプの国民が感染がひどい。だまれば、終息しそう。
脂肪膜に守られたウイルスが、気温の上昇で、膜が腐る気温になれば、感染者体内で
おとなしくしているのではなかろうか。
2020/3/10 新型コロナウイルスに対する自衛策
ヨーロッパ、米国にも、コロナウイルスは感染拡大してきた。全米の航空機に、今のところ、体温測定機による測定
チケットとともに、感染地域に滞在したか健康問診アンケートが渡され、搭乗審査があるわけではないだろう。
全米、全ヨーロッパに拡大感染する時期には、なっている。
これまでの知見では、10代以下では、感染はほとんどない。インフルエンザの予防接種を受けていれば、
ワクチン効果があるのかもしれない。ほぼ、通常のインフルエンザと症状、重篤化過程は同様である。
軽症で治るのはいいが、肺から、血液に侵入し、増殖に入ると、炎症が生じ、発熱は炎症の結果だから、
発熱4日間続く感染者は、入院することになっている。
軽症者は、のどの粘膜で、侵攻がく止められ、血液中に入り込んでも、抗体に取り囲まれ、敗退する。
ウイルスの外壁は脂肪だそうで、コレステロールの脂肪球もどきに、カモフラージュできているようだ。
コレステロール値の高い人は、抗体が反応しないのかもしれない。ウイルスの気持ちになって
考えると、よくよく鍛えられている異生物である。
体内を征服された発症患者より、軽症患者が、感染を拡散しているようだ。
軽症者は体内でコロナ戦に勝利して、ウイルスは敗退して、痰にならない空咳をして、空中に、拡散させる。
これが、感染が拡大する原因だろう。この人は、絶対に、マスクをして、咳から、空中にウイルスを排出するのを
止めなければならない。マスクをすれば咳は止まる。通常のインフルエンザと同様で、軽傷で済んだ人が、ウイルスを
拡散しているのであろう。インフルエンザが治った人が、ウイルスを排出する言われている。
インフルエンザと同様ということだから、春過ぎ、気候が湿潤になれば、咳もしないし、
北海道のように、一家が同じリビングで、灯油による、27度Cハワイ暖房をしていれば、
密着、濃厚接触するから、全道に拡散したと考えられる。失礼ながら、道内では、廊下、トイレ、個室まで暖房して
いないだろう。
春になれば、人も、戸外の開放空間で過ごす時間が増え、ウイルスは拡散されないだろう。
WHOの判定のようにインフルエンザであれば、日本では、桜が咲くころを過ぎれば、発症者はいなくなる
可能性が高い。 、
2020/3/5 新型コロナウイルスの経済社会への影響
安倍首相の全国公立小中高の臨時休校措置で、日本の経済社会の局面が大きく変更された。
国内では、全国措置の影響は大きい。これは、海外でも報じられ、日本政府が、特定地域ではなく
全国措置としたため、おそらく、安倍首相が終息宣言を出さない限り、北海道や、韓国のように全地域
蔓延している状態のように受け取られている。日本人の入国拒否国は、安倍首相の措置により、
トランプ大統領も考えているというから、今後増加するだろう。そのビジネス、観光等の影響は、
春休み、ゴールデンウイークが終わるまで、経済社会に、相当な打撃が生じるだろう。
これで、安倍政権の3本の矢は、ぽっきり折れた。安倍政権は前政権の10%消費税は実現したが、同時に、
現役世代の社会保障負担、来年度は介護保険料の増額など、増加させてきているので、
ちまたの声は、所得は上がっていない。昨年度は、令和で休日が増えたこともあり、最後の矢、所得増加効果は
クルーズ船とともに、沈んでしまった。新型コロナウイルス対策本部が、武漢帰国対策のとき
設置されなったことが悔やまれる。台風が通過して、被害がでて、設置される本部だが、ウイルスは
これから流行するかという時間軸をもつ対策本部なので、事後処理におわれる災害対策本部ではない。
北海道の患者数が増加している限り、首相が終息宣言は出せない。
この四半期のGDPはマイナスに転じると予想できる。現役世代から、社会保障負担を増やすのは
実施時期を延期すべきだし、休業補償を特別に支出しなければならい。
安倍首相がレイムダックになっているから、官僚、役人、医療関係者は直言できないのだろうし、
自民党は、次期政権の「3本の矢」の失敗と、安倍憲法の出さずじまい、極右切り捨てのとどめを刺して、、
次期政権を出してくるかと、安倍おろしの条件は整ってきている。
その最中、今月から、トイレットペイパーとティシュの買い占めで、私の田舎のスーパーで、それらが、消えてしまった。
マスクは全く手に入らない状態は続いている。日経の3月4日から、国内供給は、2012年から、前年10億枚から
30億枚に増加、輸入量は25億枚になっている。2019年は60億枚に届いているように見える。40億枚以上が
輸入のはずだ。日本の生産量も増加しているが、この爆発的需要の増加は、花粉症の影響かもしれない。
こんなビジネスチャンスは通常の製品ではありえない。
日本では、輸入攻勢に負けるので、家電、太陽光等でよく見られる戦略だが、日本企業は、材料手間暇かかる
高級品に特化、それでも、生産量は4倍増加している。日本企業の対中国対策で、マスクは企業もうまみがあったのだろう。
特に、中国PM2.5対策で中国人のバク買いの対象になっていたはずだ。
そこで、マスク不足だが、政府がジタバタしても、中国の工場が停止し、中国の需要を満たすのに
精一杯だろうし、輸出に回せるのは、厳しい。買い占め騒動が始まる前、14億枚国内在庫があると言っても
私は、買い占めに出遅れたが、家人が、花粉症対策に買った、玉川衛材60枚入りをくれたので、取っておいたのを
介護老人に使っているが助かっている。残り少ないが、施設に行くときだけだから、出回って、ドッラグストア販売も、
お一人様1個の販売制限をかけるだろうし、中国の工場はフル稼働し、生産を増強するので、使い捨ての
低価格汎用品は、4月には、輸入されるだろう。マスク業界の日中共同すみわけがあるとは、思いもよらず、
田舎のスーパーも、今週から、トイレットペイパーとティシュは入荷している。ほぼ国内生産で賄っている
という情報がでた。東京の孫に、学校が休みになるから、需要が増えるということで、宅急便で送る年寄りも多かった。
家では、トイレットペイパーとティシュ特売商品で週間的に安くなるので、半年分はあるから、
大丈夫だが。1年以上在庫すると、家の湿気等で製品劣化が生じ、「商品がくさる」とも言われるので、買いだめは
ほどほどにすべきだろう。
今週から、介護施設では、被介護者の検温が要請され、37.5度以上あれば、介護は引き受けないことになった。
体温計をドッラグストアに買いにいったら、なんと、体温計を買い占めている人がいた。さずがに、店の人が
数量制限を説明していた。こういう生命の維持管理に必要なものを、買い占めるのは、犯罪行為でしかないだろう。
2020/2/26 韓国からの入国制限レベル2
韓国の感染者が急増している。韓国の汚染地域からの入国者は、当然、入国拒否される段階にある。
韓国人の入国は、日韓関係の悪化により、急減しているし、世界各国も入国拒否しているから、
韓国内での発症者が0状態が2週間続けば、終息していると定義すると、パンデミック状態に入っている。
日本の場合、発症者が毎日出ているので、終息は程遠いが、汚染地域である関東地域への出張、観光は、
絶対避けるべくだろう。国会議員や政府関係者が全員マスクを着用していないのは、
報道関係者は、汚染地域の取材に行っているので、安倍さんも、ぶら下がり取材は安全とは限らない。
文大統領すら、マスクしているのである。
山口県、福岡県は、確か、フェリーがプサン間に就航しているから、ここ数日中に、入港禁止にすべきだろう。
韓国の対策が、日本以上であるとは、言えないようである。関東汚染地域への各道府県民の対策が進んでも
韓国における感染者が、日本人や米国人であることは否定できなくなる。伝染力が強力で、日本政府の水際対策でも
突破されているのであるから、韓国での企業関係者は、入国拒否にあう前にか、韓国での終息宣言が出るまで、
韓国国内で、巣ごもりするように、テレワークさせるべくだろう。
福岡県、山口県の入管は、韓国からの入国者に、2週間の健康確認を所在地の保健所に、メール、電話等で
毎日、連絡するように、指示し、追跡確認すべきだろう。 日本政府は、来週レベルを上げると思われる。
2020/2/24 新型コロナウイルスの生態
クルーズ船の乗員と乗客の対応が19日を境に、終わった。船内感染が600名以上になり、
感染症の専門担当者が船内に入り、船内管理できなかった結果だと言われている。
中国の医療関係者からは、エアゾル、大きさはPM2.5以下の浮遊物に付着すると、死滅しないという
情報もある。患者から空中に排出されたウイルスは乾燥して死滅するのだろうが、乾燥に耐えるよう
球体表面の突起物をイソギンチャクのように閉じて、乾燥を防ぐようだ。かなり、高等な生命体に
進化している。そのため、通常の2倍の大きさがあり、重い。細胞をコピーするのに時間がかかり
発症が遅い。患者をCTで、定期的にスキャンすると、肺臓の炎症が広がるスピードが計測でき、
突起完成までコピー時間が推定できるのではなかろうか。
北海道のがっこく給食調理室で、室内感染が起きたが、これも、感染者が肺臓で炎症を起こす前の
鼻、のど、肺臓までの気管に付着しているウイルスが排気され、北海道の密室暖房調理室の湿気エアゾルに
付着し、それを他の従業員が吸い込み、感染したと考えられる。生徒が感染したのも、調理終了後の
エアゾルに蔓延したところを吸い込んだのかもしれない。
クルーズ船の船内感染者が船内暖房中、水蒸気エアゾルに付着したウイルスを吸入し、鼻、のど、肺臓までの
気管内でのコピ-は時間がかかり、肺臓に定着すると、急増した状態を発症とすれば、
インフルエンザウイルスの2倍のコピー時間がかかるのだろう。それまでに、咳で排出されていそうだ。
病室の空気清浄機で、エアゾルをとり、加湿器はやめた方がいいかもしれない。
この重量級のウイルスは、春を過ぎると、密室空間に人がいなくなり、風通しの良いところで
皆が生活しだすと、終息しそうだ。「濃厚接触」という言葉どおり、宴会での大声、返杯は慎み
年配者はそれまで、たばこ、酒は控えた方がいいと思う。
2020/2/17 パレスチナ国家の樹立可能性
パレスチナ住民による、1987年インティファータから、オスロ合意に至って、確か、世界は、パレスチナ国家が
近いうち、樹立するのかと思っていたら、そうはならない。東エルサレムを首都とすることに、アラファト氏が
こだわったこともある。その間、イスラエル側は、パレスチナ側に移住させるし、テロ対策に壁を建設する。
イスラエルの移住地を見ると、ヨルダン西岸は、虫食い状態になっている。国家論議ではなくなっている。
圧倒的な軍事力を背景に、イスラエルが強行してきた結果、そのままでは、国家はできない。
エジプト、サウジアラビア・湾岸諸国に頼れなくなっているし、今後、サウジアラビア・湾岸諸国の原油、ガスを
アジア消費国で抜いたら、アメリカの安全保障に全く影響しないから、アメリカの中東地域の関心は薄れるだろう。
ヨルダン西岸は、移住地が広がっているが、アメリカ原住民の土地を略奪したと方法同じなんだろう。
アメリカ移住者が、そういうリスクをとりつつ、非課税地に着目して、移住しているのでは
ないだろうか。領土をガメる方法が、古来、ユーラシア大陸にはあるのであろう。圧倒的な軍事力が
背景にないと、移住しても殺されるだけだが。
日本は、島国なので、日本固有の島がとられた経験は、ロシアの北方4島、竹島占拠しかない。ともに武力制圧
である。北朝鮮には、拉致被害者がいるが、日本対策につかわれた機密をもつ日本人は、返さない。
そうでない人は、身代金とともに帰国できた。北朝鮮側では、機密保持の日本人問題は、かってに解決済み
としている。
ゴルバチョフ氏の時代は、2兆円で、領土問題を解決する提案をしたそうだが、海部首相のときか、分からないが
自民党は絶好のチャンスだと思わなかった。こういう領土問題は、占有している方が弱体しているときしか返還の
チャンスがないとつくづく思う。日本も軍部主導で、海外占領地域を支配したが、負けたら取替されてしまった。
スターリンが参加したヤルタ会談で、戦争終結後の日本の植民地と固有の領土について、連合国が
日本の占領地と固有領地をどう分割占領統治するかを話し合っているはずだ。ドイツが負けた段階で、連合国側が、総力で
日本軍の占領地域と植民地、固有の領土の分捕りを開始する。日本側も、沖縄を占領された段階で、
ドイツの負けた例から、想定していたと思う。
したがって、北方4島は日本固有の領土なのであるが、最近のロシアの主張のように、ソ連参戦と同時に、
占領された島であるとの認識はあるが、ロシアにとって、その軍事的重要性のため、2島の軍事力を増強している。
ロシアにとって、日ロ平和条約の締結にメリットがあるわけもなく、日本にとっても、日ロ関係の現状以上の意義が
あるわけはない。それゆえ、交渉はいつまでも実ることはないのである。また、同様な事例は、ウクライナであり、
シリアのドイツ軍基地であり、キプロスである。ヨーロッパにも2次大戦後、東ヨーロッパが占領され、
各国共産党統治を強制され、ロシアの占領政策にしたがわれされていたにすぎない。東ヨーロッパの
ナチス統治から、ロシア統治に代わっただけで、占領状態から解放されたのは、1989年になってからである。
その間、各東ヨーロッパ民族の自決は封じられていたのだと思う。
アメリカと逆に、シリア内戦を機に、中東に、ロシアが関与してきている。イスラエルもロシアとたまに会談している。
将来、シーア派連合国が成立し、その軍事力とロシアの核軍事力によって、パレスチナ暫定政府が
オスロ合意にもどることを、アメリカの軍事力に頼るイスラエルに譲歩させる道しかないのではなかろうか。
西エルサレムはイスラエル、東エルサレムはそれぞれの首都になり、ガザと西岸は連絡トンネルで
つながる。
2020/2/16 トランプ大統領イスラエル・パレスチナ和平案とイラン・サウジ対決
トランプ大統領は、米国のユダヤ人および福音派の支持を盤石にするため、イスラエル・パレスチナ
和平案を提案した。クリントン大統領のオスロ合意と後退して、はるかにイスラエル寄りになっているのは
言うまでもない。当然、パレスチナ暫定政府側は、受け入れるはずはない。トランプ大統領も不可能と
考えているだろう。
しかし、この案に意外な効果があったのは、エジプトとサウジアラビアである。
イランのサウジアラビア・湾岸諸国の包囲網に対抗するため、米国の中東軍事対抗布陣に依存せざるを
得ない。さらに、イスラエルに対して、同じ敵であるイランに、軍事力を割かせるために、和平案に賛同する。
エジプトは、イスラエルに対峙しているから、ガザ地区の帰属がパレスチナ国になるなら、負担が減る。
イランは、ホメイニ革命当時から、サウジアラビアがイラクをけしかけ、イラン・イラク戦争を10年間、続けさせた
と見ている。イラクが、1989年、停戦すると、サウジアラビア・湾岸諸国にその報酬を求めたが、
結局、クウェートに侵攻し、油田を取ろうとした。
すると、いわゆる有志連合が結成され、アメリカが主導、クウェートを取り戻した。結果、米軍は
クウェートに基地を設置する。そこから、次の湾岸戦争で、フセインは倒される。ブッシュ大統領は
大量破壊兵器保有が大義名分だったが、クウェートを南ベトナムと同様に、完全にコントロールしていて、
イラク南部は、シーア派住民が多く、フセインの弾圧に苦しんでいた。さらに、彼らはイラン戦争に駆出されていた。
米軍がクウェートに駐留、CIAがイラク工作しやすくなっているから、CIAは、湾岸戦争後、「イラク軍は
弱体化し、ソ連崩壊のため、ソ連からの軍事協力は、不可能になった、戦争能力は失われている」と
報告しているはずである。サウジアラビア・湾岸諸国では、イラク・イラン同盟でも結ばれたら、王国が倒される。
サウジアラビア・湾岸諸国は、当然、フセイン体制の崩壊を支持した。
ホメイニ革命は各王国にとって、体制を転覆させるリスクが高まるので、一貫して、イランは王国派の敵なのである。
第2次湾岸戦争後、イラク政治は、シーア派勢力が主導権をもち、シーア派の聖地は
自由往来できるようになったことで、ホメイニ革命の犠牲の少ない成果であった。レバノンのヒズボラ
ガザ地区、イエメンおよびアサド政権に対して、イラン革命防衛隊が軍事支援し、サウジアラビア・湾岸諸国は
ますます、イラン包囲網に取り囲まれている。イランの目的は、サウジアラビア・湾岸諸国に、ホメイニ革命に対する
敵対行動をアメリカとともに継続させないことだろう。イラン。・イラク戦争から、イランの犠牲は、
次第に減少している。しかも、北アフリカ、中東諸国と違って、軍備は自主開発が特徴である。
中東や北アフリカの地下資源を、抜き取ってしまったら、それで、再び、砂漠の民にもどってしまう。
イランは近代化成長を続けるだろう。また、自主防衛力で、中東や北アフリカへの影響力を
強めていくと想像できる。欧米も、「王国は抜いたらしまいだろう」と考えているに違いない。
中東や北アフリカを見ていると、パキスタンから東は、旧主国の搾取体制が変更ない。
他方、東アジア諸国は国家の樹立から、近代化成長に、国民の合意があるので、権力のすげ替えで
旧主国の搾取体制を続行することなく、国力を増強してきた。今後、資源搾取後、貧困になることはないだろう。
2020/2/11 新型コロナウイルス対策
新型コロナウイルスの水際作戦で、日本では、中国からの汚染地域からの帰還者が、隔離され、
1隻のクルーズ船が横浜に停泊中である。船内待機で2週間、要観察中であり、大半は、問診や
痰、咳、発熱等の外形判断で、症状が疑わしい船客が、上陸、肺のCTスキャンがとられ、治療の処置が
取られているという。
個室で待機している船客は、毎日、発症しているようで、政府も、全員、上陸、CTスキャン、サンプル採取
させないと、個室がウイルスバスターのような空気清浄機が設置されている、病室機能を持っている
わけはないので、船内感染が拡散しし出したて、やむを得ず、上陸させ、全員精密検査
することになったようである。米国人が400名以上いて、米メディアは、船内サービスが「監獄よりひどい」
と言い出している。
その最中、中国では、経済社会活動が動き始めた。新型コロナウイルスは、感染力が強く進化して、
80~160ナノメートル(10億分の1メートル)で、図体がその仲間では最大だそうだ。中国の微粒子PM2.5が
(1μm=1000分の1ミリメートル=100万分の1メートル)だから、ウイルスはPM2.5より一ケタ小さい。
中国では、PM2.5対策で、空気清浄機を買う人が多いと聞いているから、家庭で、春まで、稼働させれば
空中に漂うウイルスは、激減できると思われる。終息が遅れると、オリンピックに影響するだろう。
ロシアは、ドーピング問題で個人参加になりそうだし。検査キットは、タカラバイオが、増産に励んでいる
という。オリンピックのこともあるから、生産に、厚労省が関連会社から、増援をした方が
中国の惨状に貢献するのではなかろうか。CTの断層装置も増産に励んでいると思うが。
ウイルスは肺細胞に寄生し、細胞分裂を繰り返し、増殖するから、肺細胞に炎症の白い像が
映るのかなと思う。リンパ球を助け、ウイルスを抑制する抗ウイルス剤はないのだろうか。
筆者は、老人をケアしていて、先月中旬、肺炎をおこし、月末退院したので、医者に掛かって、入院、
退院を一部始終、体験したので、家も本人が触るところは、アルコールティシュで、ふき取り、エアコン
をかけて、洗濯物は分別洗濯、病院への替えタオルは、コインランドリーで乾燥させた。
インフルエンザの予防注射は10月末までに済ませたので、痰・粘液検査では、ウイルスは
いなかったのだろう。私は、3食を作っているので、手洗いは再々している。鼻が乾燥すると
市販の感冒薬を飲むことにしているので、忙しい面もあるが、風邪を引く暇がない。
ウイルスも遠慮しているのかもしれない。
それとは別に、米国では、毎年、インフルエンザにかかる人が2千万人以上、死者が1万以上だそうで、
病院に入院できない、しても、支払う保険がない人は、家で肺炎をおこして、死ぬしかないのだろう。
米国も先進国だから、公衆衛生の病気で、社会保険が国民全員に適用されない国だとは思えないが。
米国人が400名以上の処遇は、どうなるのか、海外旅行保険がきくのか、米国は
社会医療制度を完備させることを、国民が要求したことはないのかもしれない。
トランプ大統領の主張のように、米国では、生死も金次第という、リスクある非常な社会なのだろうか。
2020/2/3 新型コロナウイルスの感染拡大
新型コロナウイルスが、中国を中心に、諸外国に拡大している。その影響で、筆者の住んでいる田舎でも
マスクがスーパーに、特売だったものが、姿を消し、花粉症のシーズンになるから、マスクを買うように頼まれて
ドラッグストアを見たら、完売だった。年寄りもいるので、咳止めにマスクをさせているのだが、在庫は乏しい。
「中国人観光客が来るかなぁ」と思うが、中国を支援しようと、贈る人、団体もあるようだ。通常の生活で、必要な
時期なので、メーカーに、今月中の販売をお願いしたいなぁ。JR職員、市役所職員、町を歩く人、皆、マスクをしている。
タイで、インフルエンザとエイズの抗ウイルス剤混合を患者に投与すると、陰性になったと、今日はニュースに出ていた。
エイズウイルスとコロナウイルスが球形突起をもっていて、肺の血液で繁殖し、肺炎を発生させるメカニズムが
似ていて、その繁殖を抑える作用があるようだ。医者も、ある薬で対処療法をせざるを得ないのだろう。
中国の経済社会活動は、10日以降になるようだが、経済活動は、停滞するだろう。マスク、アルコール消毒用品、
抗ウイルス剤等の支援ができるようであれば、日本からも、救援すべきだろう。感染拡大の勢いが止まるまで
できることは、日本政府も支援した方が、日本経済への影響も軽減される。
豚コレラによって、中国の豚肉が不足しているとか、あのスモッグの中での、経済社会活動で、肺機能が
落ちているのでは、また、庶民の禁煙は進んでいないだろうと想像する。
子供には比較的感染しないといわれているのが、幸いかもしれない。
2020/1/19 シーレーンと日本の外交
トランプ大統領のイラン革命防衛隊指揮官殺害事件により、年初から、ペルシャ湾は緊張したが
イラク米軍基地のミサイル反撃後、トランプ大統領は、追加の反撃をしなかった。それを機に、原油先物は
下がり、株式市場も回復した。
その中で、安倍首相がサウジアラビア、UAE、オマーンを回り、自衛艦の関連海域派遣について、その意図を
説明に出かけた。米軍との関係は不明だが、日本商船護衛がその主たる目的であると説明しているのだろう。
トランプ大統領の暴挙により、イラクは米軍とイラン革命防衛隊との戦闘地域になるのを恐れ、米軍の撤退を
主張しだした。米国は、中東石油に依存しないと言明、米国経済には、もう影響しないのだろう。これは、オバマ
時代から、中東からの経済関係の撤収をするとみられている、また、2025年からの中東原油のピークアウトが
真実ならば、中東地域の原油に依存する財政は、破たんする。
イラク戦争後、中東が平和になったら、アメリカ不動産バブルがはじけ、米国大手金融機関の海外からの撤収
がリーマン・ショックだった。IS戦争が終結したら、米国の最終撤収をトランプ大統領は主張していたから、劇的な
司令官殺害もその表明の表れなのだろう。
シリアの難民は、空爆により破壊された町に、トルコ、ヨルダンから帰還できるか、アサド大統領の冷酷な意思
がある限り、容易ではないだろう。
米国が、中国に対して、貿易戦争を仕掛ける最大の理由が、米国の貿易を通じて、2025年には米国のGDP
を超えることが問題なのだ。これは、中東各国やリビアに言えることで、基本的には、玄祐マネーで工業国に
なっては、米国には困るのが原因であることは、しばしば、聞いたことがある。
1986年西ドイツに留学し、まず語学研修で、ボパードのゲーテ協会に2カ月居て、ビーレフェルト大学に移ったが
ゲーテ協会では、トルコ、ヨルダン、パレスチナ、ユダヤ人、そして、リビア駐在の日本人と多かった。
その滞在中、チェルノブイリ原発事故は起こった。ノストラダムスの大予言の時期だった。ハレー彗星は、爆発して
消えた。米軍は西ドイツから、リビアのカダフィを攻撃した。なぜ、リビアの日本人がいるかというと製鉄所を建設
するような話だった。エジプトカイロでは、エジプト人も魚を食べるようにすべきだというのが、新聞に載っている
ぐらいで、石油開発はする必要がないということだった。
私は、西側とソビエトとの関係に関心があるのだが、西側では平常では、イスラム圏に関心があるのだ。
ボパードは、ライン川の中流の両岸が氷河にえぐられたような町で、チェルノブイリ原発事故の放射能の影響は
ないだろうと思っていた。語学学校で、東ドイツをバス旅行するツアーがあったが行かなかった。いずれ、行くだろう
と思っていたからだが。1989年東ベルリンに、中国大連から列車で到着した。ベルリンに宿泊した。
その後、ライプチヒで泊まり、バッハの教会に行った。その後、ミュンヘンに到着した、帰国後、確か、ライプチヒのデモ
で天安門事件抗議があって、東ドイツ政権崩壊につながり、プーチン氏もそれをみたのが現在の強権政治の原点だ。
EUになっても、東欧はロシアが最大の関心国であり、イスラム圏は関心がない。やはり、根深く、イスラム圏に
関与しているのは、旧西側諸国のようだ。中東石油からの依存度を極端に下げているのは、欧米であり、中東原油に
依存していうrのは、1月12日の日経を見ると、日本、インド、中国である。何もしていないのは、日本だけ、中国さえリスク
分散している。と日経は主張している。かつての中東の時代は終わったなと思う人も多いいが、欧米が引くドライな関係
だったことがよくわかるが、日本の外務省、経産省、工業界は、近い将来、ピークアウト後の中東に、へばりつく理由が
ホワイトナイトなのか、国民に説明できなくなるだろう。
2019/10/6 関西電力の金品受領問題
関西電力の金品受領問題が公になり、関西の独占企業である電力会社は、原子力発電に、
過度に依存しており、福島原発爆発事故以来、稼働率は極端に下がり、他の電力会社や、
火力発電に依存するようになった。特に、原子力安全委員会の災害対策基準が高くなり、
それに伴う工事が増えた。そこで、会計監査における不正を取締役会や従業員が長年に
わたって行っており、結果、特定の会社と随意契約を結んでいた。
一方で、経済規模で世界第3位の日本では、第1位の米国が何もする気はないし、第2位の
中国は、パリ協定で計画的に、排出量を減少させる取り組みに入ったが、進捗度は、日本と
変わりはない。京都議定書の6%は達成したが、それ以降、達成した6%以上に、政府が
計画的に、排出量を減少させている事実はないように、思える。
米中の貿易戦争は、排出量について、中国鉄鋼の対米輸出が減少し、石油化学も減産、自動車
生産も減少しているから、排出量は減少しているはずである。米国は、通販が盛んになり、
ショッピングモールが不調で、閉鎖されそう。米国の人の移動も車と航空機が莫大な量のCO2を毎日
排出しているのだが、これも、景気後退になれば、減少に転じ、CO2が減少する。環境運動家にとって
経済大国2か国の貿易減少は、輸出輸入の排出量の減少で、好ましい傾向に映るだろう。
話題を戻すと、日本政府の原発依存度は、20%程度を想定しているが、関西電力は、最盛時、
45%依存していたから、その後の規制で、廃炉や延長しても廃炉になる。若狭湾では、さらに、
新規に発電所は建設できない。廃炉費用は、電力料金に上乗せされる運命にある。
火力発電は、消費地の大阪湾岸では、住民の反対を受けるので、石炭火力は不可能だろう。
この会社の長期計画は、国の基本計画にしたがって、残りの原発で20%依存しても、25%が発電
できない。消費者は、廃炉依存の電力料金を支払うより、再生エネルギーや他の電力会社から
買うだろう。
世界の電力会社は、環境規制に対応できる対策が取れない会社は、廃業する運命にあるはずだが。
2019年9月15日 ハリケーン・ドリアン
ハリケーン・ドリアンは、2019年9月1日バハマに多大の被害をもたらし、アメリカ東岸を
北上、熱帯低気圧となった。 その規模は、日本でも報道されたが、トランプ大統領の
アラバマ方向の予想は外れたそうで、人間関係論は強いかもしれないが、科学知識が弱い
と分った。彼には、地球温暖化は、天動説と同じで、信じられないのだろう。
バハマは租税回避地であるが、多くの利用者は、回避所在地の被害で
住所の建物が失われると、租税回避できるのかなと、余計なことを想像するが。
トランプ大統領の「ファーウエイ排除」問題も、強引な思い込みがある。
中国と交渉材料にはならない理由が、中国にはあると思う。
米国の主張は、中国との5G開発問題について、世界情報を中国5Gにシェアーを奪われると
米国の情報採集ができなくなるので、世界の紛争国の情報が米国に探知されなくなる。
インターネット自体、冷戦後、米国保有の技術を民間開放したのが始まりだから、
米国集中するシステムに初めから軍用として構築されている。
中国が米国に相談もなく、米国はずしの5G情報網を作ってもらうことは、非常に困るのである。
しかし、中国は、共産党の情報宣伝工作は、結党以来の内政政治政策であるから
中国国内で、5G網をつくれば、2,013年5月共産党の「七不講」通達の反対概念を学習する
「①中国人の普遍価値②報道の制限③共産党に指導された社会④共産社会人の権利
⑤党の歴史の無謬⑥党員資産階級の是認⑦共産党独裁のもとでの司法」ということで、
いわゆる西側社会と反対の社会が研究されている。
それだけに、西側社会に接する一般市民は、「七講」に染まる不埒な社会人が出てきて社会活動を
してもらうと反国家活動に当たるから、思想改造をする必要がある。若い時から、思想チェックするのに、
中国5G網を形成していると、中国共産党100周年をうまく迎えることができる。
トランプ大統領は、共産党の情報宣伝工作や党の歴史に無頓着であるから、5G網はdealにはならない
ことが分からないのだろう。中国には、米国集中するシステムによる戦時、平時での機能をよく理解している。
2019年8月1日 北極海の気象変動
7月2日から7月6日まで、CanadaのYellowknifeに滞在し、Vancouver経由で、帰国した。
北極海の漁業協定は10カ国で結ばれ、日本は5月17日の参議院本会議で承認された。
トランプ大統領は北極海の資源に関心があり、温暖化に伴う北極海の海氷の減少について
認識していると伝えられている。海氷が融けて、資源開発や海上交通が利用可能
という商業活動の国際協定が先に協議され、その結果が生物に災いをもたらすとは
考えないようだ。さもしい人間の「さが」の方が、先行して、議論されるという北極海協議会である。
私の関心は、北極海上空の気象が、温帯地域の気象変動に影響していることである。
海氷が融ければ、太平洋と大西洋に流れ出し、海抜が1メートル以上上がり、赤道では、
南極の氷と合わせて、それ以上になると想像されている。
そこで、Canadaの北緯60度以上のYellowknifeに行ってみた。温帯地域の海抜の上昇は
日本沿岸で計測可能なことなので、温暖化ガス削減、さらに、排出ゼロ化が、毎年、進めば
北極海、南極海の氷の海抜に対する影響は世界各国で計測されるから、南極上空のオゾンホールの
ように温暖化対策の成果の指標になるかもしれない。対策が無効であれば、海抜は情け容赦なく、上昇する。
2019年7月14日 半導体材料の対韓規制
日本は、日本軍事政権下、太平洋戦争に突入、日本政府が、国民総動員令を
朝鮮に適用したが、動員された朝鮮人に対する賠償、賃金未払い問題が、戦後
処理されていないという、双方に認識違いがあり、韓国では「徴用工の賃金未払い
企業への資産差し押さえ」に進展した。これに対して、安倍政権は、半導体製造に
必要な物質を輸出停止にしたことが、大きなニュースになった。日本の軍事政権下、
動員朝鮮人に対する個人賠償問題は、将来、北朝鮮のパルチザン本隊がソ連および
中国東北部から北朝鮮を占領したときの住民にも、適用される問題なので、双方の
合意は、日朝戦時賠償額の算定に影響を与える。韓国政府は、個人の賠償問題は何も
していないようで、徴用工が裁判に履行を訴えるのは当然だと思う。また、安倍政権が、
半導体材料の輸出規制を決めたことは、経済力の行使によって、この問題を清算しよう
とすることで、トランプ流の取引に影響されたのかと思う。
トランプ大統領が国際関係に登場して、アメリカの覇権行動は、自国の利益最大化
にもとづいて取られてきたと彼は理解していると思う。あるフランス人は、戦後、戦争
なしにはアメリカ経済が回らないと指摘した。私も、金融史を勉強するうち、1800年代、
イギリスで金融恐慌が頻発し、日本も開国後、1890年金融恐慌が発生、第1次世界大戦後、
日本で金融恐慌が発生した。1929年米国の大恐慌が発生、これは第1世界大戦後の資本
過剰がもたらしたものであり、戦争遂行のために、軍需にシフトする結果、戦後、平時
モードに、資源配分を移行できないからだろうと考えていた。第2次世界大戦後、日本は
米軍の空爆で、軍需生産の資本財が失われた。米国は、残ったままだから、米国の経済
学者も、いずれ、第2大恐慌が10年以内に発生すると考えてもおかしくない。そこで、
ソ連を敵国とする戦争のために、軍需産業は温存され、朝鮮戦争の勃発とともに、正当化
された。以来、アメリカの覇権構造は、温存されてきたので、フランス人が評するように、
戦争を構造的に取り込んだ資本主義といえます。
アメリカの覇権戦争を実行された国民は、殺害されて、敵意をもっているだろう。朝鮮
戦争もそうで、北朝鮮の日本統治時代の資本設備、公共の建物は、日本に対する空爆より、
徹底して破壊され、多くの民間朝鮮人が亡くなったが、アメリカは賠償しない。ベトナム
戦争では、米国は敗戦国になりましたが、ベトナムに戦時賠償はしていません。ホーチミン
市を訪問したとき、飛行機が翼をふって、地表をみせてくれたが、爆撃の跡が、多くの池
になったままだった。大統領府は、米軍の司令部があり、ニュースで見たとおりだった。
車で1時間余りのところに、地下トンネルが張り巡らされて、べトコンの基地があった。
サイパンみたいな戦略だ。こんな至近距離でゲリラと米軍が対峙していて、こんな戦争を
やっていたのかと思った。
米国経済では、軍事産業は、連邦予算で支えられています。国連で議論される紛争に
対して、介入を決定すると、勝っても負けても、戦争を仕掛けて、出征し、勝てば、米国
の兵器体系を購入させ、負ければ経済制裁するというスタイルが定着している。
こういう国に、国連をおいていると、ある国がクーデターを起こすと、国連に通報され、
直ちに、安全保障理事会で議論され、米国が介入するのが利益になるか、支援して、米国に
利益が還元するか、計算し、プラスであれば、介入するシステムになっている。崇高な国連
の理想は、大義として、全加盟国は承認するが、覇権国が拒否権をもつ制度である限り、
人類の生存に最重要な課題である、核廃絶はなく、パリ協定は離脱、多国間貿易協定は、
経済制裁の政策手段を失い、自国の産業が競争にさらされるので、拒否するという
歴史的経験を繰り返す、アメリカの実像が浮かび上がってくる。
アメリカを侵略する国はないのだが。
アメリカの国際関係において、2国間の政治問題処理は、それぞれの国力差で、不利が
どちらかに生じるように、決定される、押し切られる、不平等取引でしかない。取引が
成立する場合、経済学で言う独占利益がアメリカの政治取引にあるので、アメリカの
勝利になる。取引が成立しない場合は、その国を経済制裁し、国際的に不利益にするので、
消極的な勝利になる。
日本は、平和憲法下、第1次世界大戦まではあった戦時賠償責任を果たしてきた。戦後の
国連制度のなかで、敗戦国としては、アメリカの覇権国の振る舞いはできない。戦時賠償
責任を日本軍の侵略国に対して果たしてきた。韓国に対しても、同様な戦時賠償責任を
果たしたと、両国は合意したと、日本人は理解している。しかし、日本に個人賠償に対して
責任が残っているという韓国の裁判所の判断は、企業の個人賠償責任は、政府間の賠償とは
別だとしているのかもしれない。
トランプ大統領が、米中貿易戦争を始めたのも、米国の覇権構造が、中国の製造大国25で、
破壊される予想が米国の産軍支配層に浸透しているのか、いまだ、取引は成立していない。
対イランでは、覇権構造を機能させているが、戦争宣言できないため、戦時予算が組めず、
有志連合を募って、有志に戦争予算を負担させること要請している。ハメイニ師は「トランプ
大統領は信用できない」と認識しているから、トランプ大統領任期中、いかなる取引にも応じる
はずはない。
2019年7月1日 社会主義と経済発展段階説
ソビエト連邦が崩壊したのは、経済発展段階説は間違っていた証拠である。中国は、
鄧小平から、経済発展のためには、資本主義経済を取り入れることもやむをえないという
ことで、開放政策を取り、中国経済は確かに発展した。今世紀に入ってから、社会主義
理念による政治統治に、重点が置かれるようになり、資本主義の自由な経済活動に、
IPOや金融面で、国有企業優位を保つよう、制約をかけている。経済発展段階説は、
間違っているとは認識していない。そのようにしても、中国の市場経済は発展すると
考えている。しかし、実際、社会主義に力点をおいた市場経済を運営、
管理していくと、中国経済は成長しなくなる。
社会主義の理念のもとでは、企業等の個人資産が国家によって、成長するように、
国が民間企業に利便を図ることは、社会主義理念に反する行動であり、厳しく処罰される
べきである。したがって、国の財政は、公共インフラを整え、公共サービスを充実し、
最低生活保障をすることに、向けられる。確かに、中国は、一帯一路、製造大国70%の
スローガンのもとに、一帯一路の進路にある国々に対して、財政支援をして、公共
インフラを整え、公共サービスを充実している。そして、製造大国の製品を供給しよう
としている。その製品は、中国の労働者を雇用した他国の企業が製造したものである。
民主主義の政治手段でなくとも、共産党独裁のもとで、国民大多数の公共福祉の増大
を図るのであれば、よしとすべきであると、共産党は主張しているように見える。
2019年6月4日 プラスチックごみ
昨年12月末、転居したとき、親の入院と退院後介護することになり、この研究所の活動を
ぼつぼつ、しつつ、日本の介護システムのご厄介になり、
生活も支えている。ゴミ出しの仕事は、私の担当で、3食、提供している。
料理は、好きで、献立を立てて、毎日、替えている。
生ごみは、1日で、食パンの袋1つ分でる。完食してもらっているので、食べ残しはほとんどない。
ところが、プラスチックごみは、1週間分で、45l分は楽に出る。この分別が最初は、難しかった。
プラスチックは分解しないので、集めたプラごみは自治体では焼却している。
そのシステムに入らないごみが河川、海洋を汚染しているので問題になっている。解決法は
分解できるプラスチックを生産するしかない。
岡山県の真庭で、木質の燃料化の試験施設を学生と見たことがある。その分解の中で、
昨年、プラスッチックにすることができる技術の進捗状況の研究発表を聞いたことがある。
油成分の藻を栽培する試験施設もある。
我が国は67%森林であり、過疎化して、ますます、雑木林となり、荒廃してきた。
原油から、プラスチックが生成されるわけだが、いずれ、原油はなくなり、再生エネルギー
やバイオテクノロジーで代替物質の開発に移行する時代が来つつあるのかもしれない。
産油国からの原油依存の中で、動力については、原発廃止でも、脱化石燃料は
可能だろう。再生エネルギーの多くは、直流だが、交流に変換して使っている。
電流は、一方方向に電子が流れるのが動力が直流モーターで動けば、
効率的であり、電線も地上で張っているが、光ファイバーのように
地中を這っていくのではなかろうか。
また、すべての家電、車、電車、船舶は、直流になるだろう。
しかし、プラスチックはどうなるのか気になっていたが、
大阪サミットで、プラスチックの脱原油原料の方向へ向かうことになる。
ちなみに、プラごみの排出大国は米国で、二番目が日本だそうだ。
トランプ大統領は、温暖化は否定し、パリ協定からの離脱を
表明し、今度のプラごみの処分について、これも賛成しないだろう。
しかし、世界は、脱化石燃料に時代に、技術革新が進行して行く中で
米国の火力発電、自動車、航空機のCO2排出量削減に、旧来の
技術のままで、対応していかないならば、世界の製品は、すべて
環境対応になってしまい、だれも、アメリカ製品を買わなくなるだろう。
2019年4月4日 イギリスのEU離脱
イギリス議会で、EU離脱の手続きが進まない。国民投票でEU離脱を決めているのであるから、
その決定の法的拘束力は、議会の決議を超えている。粛々と、EUと交渉し、国境管理をもどし
悪くても、準加盟国並みのFTAをEUと結ぶという、国民の総意を速やかに実現するのが
議会の仕事である。
離脱の結果は、経済学の教えることによれば、EU内の資本、労働、モノ、カネ、サービスの
自由移動はなくなり、関税等の取引コストが発生するから、イギリスの経済厚生は悪化する。
離脱後の経済・社会政策の負担は増大し、イギリス経済は景気後退する。他方、EUは、
イギリス国内の外国企業は、EU内に資本移動するから、雇用は増大する。
イギリス議会の議員たちは、その離脱ショックによる経済・社会政策をどうするかを考えている
のか、その財政負担が増大することに、暗い予想をもっているのか、いずれにせよ
しっかり汗をかかないと、ショックから立ち直れないことは、間違いない。
アメリカも米中貿易戦争で、似たようなことをしているので、今年から、米経済に
ショックが効果を与えるはずである。
WTOが資本、労働、モノ、カネ、サービスの自由移動に進めなくなって、久しいが、
モノだけでも、米中戦争から、自由貿易は難しい時代になった。
2019年3月2日 今年度の当研究所の事業
昨年退職後、「ようこそ西村和志ゼミナール」のサイトを引き継いで、大学で研究途中の課題を
中・高校生レベルの数学でわかる『資産形成論』および『金融論』で公表しました。
特に、マンデル・フレミング・モデルに、労働市場、為替市場を明示することは、ドーンブッシュ・モデル
と違っているので、苦労しました。計量経済モデルで、短期、中期、長期均衡の推移を実証することは
環境政策の経済活動に与える影響を短期、中期、長期で推測する役に立つと考えます。
もう一つは、太陽光パネルの調査ですが、大阪府島本町の結果は、このホームページに載せています。
現在、高槻市の半分近くを終わっています。2018年6月18日7時頃、高槻市茨木市を震源とする地震が
ありました。時々、JR線から、ブルーシートで屋根を覆って、修理が進まない家屋があるのを見ると
胸痛みます。その後、台風で、大阪市、尼崎市の方もブルーシートがかかったままでした。
太陽光パネルの個人住宅への普及は、中所得者以上では、将来、環境税を負担するよりは
パネルを設置する方が、合理的であると思います。高槻市は、工場誘致よりは、農地、里山を
住宅開発し、ベッドタウンの人口増で、市政の財政を維持しようとしてきたと言われます。
確かに、高槻市の北部は、開発がはっきりしています。茨木市は、低地の農地を残し、工場、倉庫
を誘致、駅前は、社宅、農家の貸アパートに利用されています。農地が北部でも残り、高槻市は
市バスがありますが、茨木市は民間のバスです。戦後、ともに、3万人台で市政を開始しましたが
明らかに、土地利用に差があります。高さ制限もはっきり違いがあります。
この研究所の今年度の事業内容は、以上でしたが、来年度も、①計量経済モデルの設定と実証
②『資産形成論2019年』および『金融論2019』改訂③北摂地域の調査④地方自治体の環境目標達成
以上を事業内容とし、本ホームページで公表します。
2019年2月15日 米中の貿易交渉
3月1日に米国は中国製品に関税をかけることになっている。その前に、米中首脳会談はない。トランプ大統領の
当面の課題は、米朝首脳会談と壁の予算を執行することのようだ。
昨年の前半で、資産形成論、後半で金融論を本ホームページで公表しているので、FRBの利上げと
トランプ大統領の対中国政策が、世界の金融市場に与えた影響は無視できない。
FRBは、トランプ大統領が望んだように、さらなる利上げは中断された。残る対中国貿易に25%関税をかける
決定が3月まで延期されたことが残っている。
日本は、おかげさまで、先の25%品目に対しては、対米輸出が減少し、日本の部品、機器製品も20%減少したと
伝えられる。3月に全中国製品に25%関税が課せられると、米国の汎用製品の価格が25%上昇する
とともに、伝統的な対米生産拠点である、上海、広州-深圳-香港の輸出品が減少する。品目によっては
東南アジアの競合品に米国市場がとられる事態になるかもしれない。この地域の権力者は李克強首相であるので
習近平主席の権力基盤に影響が出てくるかもしれない。
ともあれ、米国の知的財産権の保護と、25年製造大国の戦略目標に関連する技術をもつ企業にたいして
技術移転を強制することをやめ、技術導入したいなら、公正に知的財産権に対価を支払うことを中国が
法制化、損害賠償に応じることを確約することに、焦点があるようだ。
ただし、25年の戦略目標は、中国としては、多大の予算を投入することになる5ヵ年計画なので、
米国がその計画の実施に変更を迫ることは、論外だろう。日本では、米国の戦略、といっても、技術独占で
競合国を引き離し、米国独占利益をいつまでも維持するという、路線は、日本が追いつきそうな半導体
PC、航空機、ロケット、原発開発には、中国と同じように、脅しがあったのだから、米国の産業政策は
変化はないのだろう。
しかし、米国の汎用品の生産基地が、中国にある現状では、たとえば、香港フラワーや、家具、食器
工具、1$雑貨に関税をかけることは、アウトソーシングをやめ、自国生産するという、産業政策を
最終的にしたいのか、その先、米国製造業をどうしたいのか、トランプ氏にはないような気がする。
米国独占利益をいつまでも維持するというのが目的であれば、対中国協議は成果はない。
中国も、米国を追い越し、中国国家独占利益を目指しているのであれば、このような衝突は
当然ありうる。米国協議が決裂しても、国家戦略は、中国国会で承認されているので、
実現するために、資金および人財を投入するだろう。
4月になれば、日本に対しても、貿易の不均衡に対して、米国が協議を持ち込んでくる。
中国と内容が違うが、経済大国2か国が、官民挙げて、技術独占の覇権競争に入っている
現状で、日本企業は400兆円の手持ち資金をもちつつ、安倍政権は、消費税を選挙目当ての
教育費無料化に流用する政策をしていると、米中の技術独占の覇権の結果を独占価格で買わされる
時代になるだろう。
2019年1月26日 全情報インフラの国家集中管理か分権自主管理か
米中貿易戦争は、開始当時の双方の思惑は、米国が貿易赤字の許容できる範囲まで、全貿易項目に
対して、25%関税をかけるという、外交交渉なしのトランプ流直接取引で始まった。
30%以上、貿易依存度の高い中国は、「製造大国」を政策目標にしているから、対米取引の重要性は
国際通貨としてのドルを稼ぎ出す中国金融資本の調達源でもあり、発展途上国との国際政治戦略の
実玉でもある。米国が長年、世界各国の共産党と実戦を含め戦ってきた戦歴から、貿易依存度を上げて
それを下げさせる戦略をとることは安価な手段である。
軍需産業に係る技術については、ココム規制が有効であるから、共産党政権でない国に対しては
協力が得られているはずだ。ところが、米国の体質として、移民国家であり、戦前はアジア系に対して
移民制限があり、中南米諸国に対しても制限があった。戦後は、開発途上国に対して、共産化対策として
政治、軍事介入をして、戦争に敗れると、協力者を移民として迎えている。あちこち、手を出すもので
米国が政治軍事両面でほとんどボロ負けしたため、ソマリア人まで移民させている。
さすがに、IS国に迫害されたイラク人、リビア人、シリア人、イエーメン人、スーダン人は、軍事介入しても、
難民として、引き受けるつもりがないというのが、トランプ大統領の主張だろう。ごもともな大義があるが
そのためには、今後、政治軍事両面で、一方的に、米国の国富と国民を投入しないことを世界に示さない
と実現できない大義でもある。米国に不利益をもたらす国に対して、たとえば、キューバ、北朝鮮のように、
経済面で一切、協力しないだけでも、有効な政策でないかという、至極、常識的な主張でもある。
米国は、移民国家であり、1世では、母国語の影響は半分以上残る。それゆえ、多言語の影響が強く
コミュニケーションが、単一民族、単一言語の国と違って、非常に、重要である。そのために
情報インフラが、発達し、やがて、冷戦時代の軍事インフラであるインターネットが解放された。
共産圏である中国でも、スマートフォンを通じて、PC設備や電力線がなくても、インターネットに
接続できる。その器機の製造、世界販売しているのが、中国であるから、自国製品を技術革新で
開発し、輸出しようとしているのが、2025年までの「製造大国」構想の中核をなしている。
また、通信スピード、容量を上げることにより、独占的商品を育成したいのであろう。
中国では、単一言語国であり、全情報インフラは国有であり、情報管理をしっかりやってきている。
米国の主張は、昨年後半から、この点に集中してきた。ココム規制が効かない分野において、世界ネット化した
情報インフラの主導権を中国がとろうとしている点である。テレビでは8Kが日本では流行っている。
中国では5Gが目標だ。5G対応の器機を開発販売するのが、ファーウエーという。
中国では、国家情報管理でありから、中国を通る製品情報は、国家管理ネットに入る。
米国のバカラ掃除機は、中国委託製造とすると、米国市場で大当たりすると、その情報が
中国でキャッチされ、製造計画が変更される。その売れたわけを分析、中国ポーカー家電
に漏れて、まねをする。中国国内でバカ売れする。そういう製造大国のゆるぎない国際的地位を
えられ、中国経済が安定成長を続けるという、下絵が描ける。
この辺が、米国、中国の覇権国の国家理念が、日本と違う点であろう。日本は、太陽光発電パネルを
研究助成して、性能を上げてきたが、普及の段階に入ると、日本政府には、経済覇権性がないから、
家計に対して、普及の補助金は打ち切った。2011年の震災で、復活したが、三洋電機はパナーソニック
に吸収され、量産化か海外進出に踏み切らず、ドイツ、中国、米国に生産を譲ってしまい、小規模
メーカーは撤退している。京セラで聞いた話では、家電は5%普及の法則があり、現在、日本では
そこまで、一般に普及していない。大型パネルは輸入品である。なぜなのか、京セラは当時、部品メーカー
なので、半導体の余りを合成し、結晶を引き揚げ、ワイヤで切断、表面磨きをすると言っていた。
パネル結晶棒そのものを製造しているのは、現在の輸出国である。国策的に電力が安い国でもある。
モンゴルでは、風力発電を利用し、電力供給を、中国東北部の工業地帯に送電する話もある。
再エネ電力利用で、スーパーPCを回し、大量電力を食う結晶生産、電炉を操業、石炭火力
に頼る民生部門のエネルギーを再生エネ化していくことができる。そういう、モンゴルの夢を描いている。
結局、多くの開発投資を税金で賄い、高級なパネルを実験的に作ったが、大量生産には
向かなかった。同じ液晶パネルでも、シャープは失敗し、ソニーは有機パネルから撤退している。
パナーソニックはプラズマから撤退している。
日本国家のエネルギー政策のために、始めたサンシャイン計画の一部であるが、やはり、
当時の日本政府の直感は正しく地球温暖化の災害が頻繁に発生する時代になり、化石燃料に頼らない
再生エネルギーが世界的に支持されるようになっている。日本メーカーには、パネルはただの家電でしかない。
しかし、いまもって、日本の電力は伝統的な火力に頼っているである。動き出した原発も、燃料サイクル
が完成せず稼働中の原発で、手じまいで、原発は日本では全廃するだろう。関西電力は、廃炉分を再生
エネルギーに替えることになるだろう。
地球温暖化対策で、何もしなくてよいわけはない。災害の頻発で、家電、車は廃棄物になり
昨年の災害損害保険は、1兆円支払が超えた。損害保険会社は、当然、自動車保険と同様に
使用者に寄り添う保険額になっているように、ハザードマップと風の通り道にある建物、駐車場は
所有者に寄り添う損害保険料に、変更しようと計画中である。
米国も、フロリダのハリケーン被害、カリフォルニアの山火事で、同様な保険料の引き上げがある
はずである。関西でも、地震保険料と風害の保険料は必ず上昇する。
2018年12月8日 覇権国間の世界秩序
プーチン大統領、習近平主席の権力基盤が確保されて、ユーラシア大陸のロシア、中央アジア諸国、中国の経済圏の
対話が進展しつつある。中国は、覇権に反対する立場をとっているが、故郷周辺では、現在の国勢に対応した
覇権は、進めている。ロシアも同様であるが、資源生産に依存していて、会社組織による経済活動は発展していない。
1983年3月初めて、中国をグループ旅行で、西安、北京、上海を回ったが、皆、人民服で、通りは自転車の洪水
だった。1980年代、日本企業の中国駐在所を見ると、日本の上場企業はほとんど来ていた。これが不思議に思った。
日本型中国進出は、日本の上場企業によっている。そのうち、中小企業も進出するようになった。
最近は、中国の労働集約的産業の賃金上昇で日本中小企業の撤退が進んでいる。all Japanが、欧米の進出と大きな違いがある。
「一帯一路」の交通路を中国からロンドンにつなごうという計画が進んでいる。その巨大市場に中国製品を供給するという計画である。
ただ、スリランカ、モルジブ等で、中国の資金は、国内政治勢力に影響を与えている。覇権国の国内政治介入が
発生している。南欧経済危機で、ギリシャの港に進出を図っている。いずれ、旧ユーゴスラビア諸国は、中国と友好関係があったからか
この手で、進出を図ると思う。ただ、中国が覇権国の国内政治介入の歴史と同じ行動をとるかは、不透明である。
中国は時代、時代で、中国国力に応じた勢力圏が軍事安全保障可能な国境という中華思想があるといわれている。
現在、中国の製造製品を必要としている国々があり、それらの国に安定供給する製造国責任があり
世界第2位のGDPをたたき出している。「製造大国」を確立し、「軍事大国」が「製造大国」に伴うのが、中国共産党の夢
なのだろう。明治維新の「富国強兵」の政治理念と変わりがないと思う。列強に「圧し込まれ」た時代が長い分
中国はその思いが強い気のである。
オーストリアに、モンゴルが攻めてきたときのヨーロッパ軍の城があり、ここで、押し返したと説明してくれたが、
中国の「一帯一路」は、「無償愛の道」や「和平道」でもないようで、日米に覇権道と誤解されている。
イギリスのEU離脱投票やアメリカ大統領選挙のクリントン氏排除に、ロシアのフェイク操作が使われたというし
覇権国同士で、情報開放国が、情報操作国にサイバー攻撃を受け、歴史的政治判断を圧し込まれている時代だ。
日本の政治は、そのような高度な技術を使って、国政選挙に外国から政治介入を受けていないが
来年の国勢選挙では、お試し攻撃があるような政治でもないのをよろこんでいいのか。
2018年11月6日 「津波防災の日」
11月5日は津波防災の日で、太平洋岸の各地で、避難訓練などが行われた。今年は、水難の年であり、
北海道厚真町地震もあった。多くの方々が、亡くなった。多くの教訓を残されたため、防災の対応に役立つことが多い。
津波については、東海、東南海、南海とプレート型地震が、東北地震のように起きると予想されている。
それに対する対応であり、夜間の場合もあるので、地震発生後、高台への避難の進路に、感知したLEDの矢印が、出て、
「稲むらの火」の代わりに、住民を誘導するようになるかもしれない。
高知大学の先生が、ため池をボーリングして、津波による海砂を鑑定し、南海地震の履歴を研究されているそうだ。
もう、2回テレビで紹介されたのを拝見した。多分、和歌山県の紀伊半島では、断崖が多いので、ため池はないだろう。
三重県の伊勢平野、愛知県の濃尾平野には、古代のため池があるかもしれない。ところで、大阪府では
松井知事は反応が薄いが、堺市に仁徳天皇陵があるし、堀がある。盛り土なのか、丘なのかわからないが
堀は、南海津波の到達した事実があるなら、その痕跡は、ボーリングすれば、はっきりするだろう。
高知のため池のデータと合わせれば、各時代の津波の伝播の規模が科学的に確定できるのではなかろうか。
大阪市、神戸市、芦屋市、尼崎市に、4メートル以上と予想されているが、関空を襲った高波より、1m以上の規模
と予想されている。
さて、いつ起きるかは、東京の地震学者も、東北地震を予想していたようには思えないし、
貞観869年の地震記録が京都で残っていたことも、彼らが意識していたか、定かではない。
200kmが直線的にずれるようで、南海のどの海底がずれたのか、その断層崖が見えるものなのか、
東北の海底を200km、記録しているわけでもない。この日本列島で起きることは、インドネシア、
チリ、メキシコ、カリフォルニア、カムチャッカ、千島列島でおきることでもある。
地震対策は、建物の強度で膨大できるが、津波力には、防災対策は地震ほど進んではいない。
2018年10月19日 中国の対米輸出商品
中国がWTOに加盟して、米国が中国からハイテク製品に強く依存している。それは、米国の情報・コミュニケーション
が、それらの製品に依存するようになっためでもある。日本も、米国同様に、情報・コミュニケーションに、おかげさまで
携帯から、スマホへ、一方方向から、双方向、集団化に拡散してきた。それらの変化に対応する機器が、中国産
であったという時代の変わり目に、製造場所が中国だったというだけである。中国も、もともと、人民の口は遠慮なく自由に政府批判を
しているのだが、中国において、同時に手段が手に入るようになると、その手段さえも多大なコストとかけ言論統制をせざるを
得なくなっている。
対米の貿易差額が拡大している製品は、米国の情報・コミュニケーションのツールであるから、それらに関税をかけるのは
米国の文明の進歩に課税する政策だろう。世界貿易の中で、中国の情報ツールで独占できるわけはなく、
米国企業の世界戦略は、競争力を失っていく。中国は、25%より、輸出価格を下げる努力をするはずである。
今の米国には、米国の情報発展には、中国の出血輸出は
必要である。半導体事業は、投資リスクが高く、日本メーカーは撤退、米国企業の世界基地としての中国産は、
投資リスクを中国政府がかぶってくれるので、助かっていたのだ。
トランプ大統領は、北朝鮮との敵国関係を解消して、ICBM開発を中止させ、対中国と安全保障を
含めて、中国と2国間で対応したいのだろう。
中国経済としては、対米貿易は、縮小するだけのことで、特別に、2国間交渉で、米国に譲歩するわけがない。
ただ、米国のホーム・センターやデイスカウント・ストア、one dollarショップの価格が少し上昇する程度だろう。
米国車、米国の農産品、石油製品、米製航空機は売れないだろう。
中国政府は、トランプ大統領が中国の覇権を望んでいないとみているので、トランプ後でも、
米国が、今回の措置を取り下げ、もとにもどることは期待していないのではないか。出血輸出
までして、米国社会の発展に寄与する気はないだろう。中国の通商原則は、双(喜喜)である。
2018年9月10日 新関西国際空港株式会社の特別損失
安倍首相と松井大阪府知事が、再開について、1週間で部分再開を明言された。あの巨大な設備は
少なくとも、四半期はかかるだろうという現実的な巷の見通しもある。巨額な特別損失が発生し
雇用4千5百人と関連会社の事業休業で、3カ月で、パラパラと飛ばしてもしても、営業損失だ。関西国際空港
関連株は、売り上げ減で、下落するだろう。たとえば、JRはるかは、運行していないし、機内食の会社はどうなるん。
貨物機は、空港を変更し、そのまま、サプライチェーンができると、もどしは難しい。阪神大震災で
神戸港が横浜港に顧客を奪われた後、戻しはできなかった。
もろもろの損害は、国と府と民間会社で負担することになる。国の災害資本補助もあるが、高潮対策
が地盤沈下空港では不十分で、滑走路のかさ上げは、沈下が止まっていないのであれば必要だろう。
変電施設は、最上階にあるのが一般的だが、地下だ。太陽光パネルで屋根に張れば
停電リスクは軽減できただろう。排水ポンプも自動運転できたのではなかろうか。
日本の脱化石エネルギー政策と技術革新
イラン、イラク、ロシア、湾岸諸国、サウジアラビアのエネルギー覇権戦争が激化している。
ドバイ原油は2014年は100ドルだったが、IS戦争が終わり、70ドルを超えている。シリア政府は、
反対派を排除し、領土回復に精を出している。イラン友好国とサウジアラビアとの覇権対決になってきた。
中国は、海洋進出を計画的に進め、中東までの陸海空の燃料を
確保するための安全保障を軍事基地の確保で、覇権政策を進めている。
中東資源がなくなれば、国富の無駄遣いになるが。
日本は、地勢的重要性が衰退する中東に中国に対抗して、海路防衛にコストを払う覇権主義はない。
その割には、中東依存は9割を超える。運搬コストを支払っても、伝統的に、調達先は変えない。
温暖化のスピードと温暖化ガスの削減スピードは違いがあるので、北極海は夏季氷が消滅するだろう。
日本は、通行料を徴収するすると言っているが、北極海航路を活用する。陸路は、
伝統的シベリア鉄道を利用しているが、ロシア鉄道の高速化で、ヨーロッパ市場へのアクセスを強化する。
中国リスクがある、中国の中央アジア線に備える。
その中で、米国伝統の経済制裁は、まさかの中国に対して発動されている。中国にとって
米国は経済リスクのある国になった。今となっては、米国と中国は疎遠になる始まりだろう。
中国は米国産シェール輸入を促されているという。日本も、米国のガス、原油を輸入する方向にある。
日米開戦の原因の一つは、米国の石油経済制裁である。
米国依存経済構造を作らせて、言うことを聞かなければ、経済制裁で卓袱台返しをする米国の性格は、
治らない。米国発のリーマン金融恐慌に、日本の製造業は一番ひどい被害を受けた。
トランプ大統領は、米国市場を縮小させるという通商交渉を2国間で行っている。相手国の貿易収支と
個別品目で交渉して、貿易収支を調整する。全世界の貿易相手国と敵対関係になってきた。
トランプ後のアメリカ経済は、貿易の縮小で衰退するのではなかろうか。
国内森林資源と排他的経済水域を代替資源とし、各火山帯のマグマ熱を利用して、恒久的に
化石資源のから脱却し、自前資源で、温暖化ガス削減に貢献する技術進歩させるべきだろう。2050年まで、
時間と能力は十分ある。国際的に非難されている石炭火力発電所の停止で、ブラックアウトした
北海道の報道で、発電所の前に、黒い石炭が映っていた。石炭火力発電は、炭酸ガス排出を処理する
技術等を使わないと、2050年以降は無理がある。
国、地方自治体の新規公共施設は、すべて、再生エネルギーで賄うよう義務化
し、周辺地域の民間住宅、オフィス、商業施設、製造業施設、運輸に、転換を促すモデルを
示すべきだろう。航空燃料も水素ガスに転換されるかもしれない。
2018年9月6日 関西国際空港の閉鎖
台風21号の関西直撃で、関西国際空港は閉鎖された。第Ⅰ期の滑走路が高潮で浸水した。空港は午前中に
台風が近づき、関西の交通網は早々と運行中止になっているのに、台風通過の時点で、避難しようがない。
約3千人と従業員は、関空関係者と高速道路関係者との協議が、不調なのか、緊急対応の想定がないのか
約3千人と従業員は5日朝、フェリーと反対車線から、救出された。航空券のキャンセルもあるが、
あのままもたもたしていたら体調不調者が続出して、関係者は損害賠償を請求される多だろう。
タンカーも連絡橋に衝突し、鉄道橋にずれている。台風の最中、燃料を運びに来るという危険なことを
危険物運搬船がよくやると思う。会社はリスクを背負った。
仙台空港が2011年津波で浸水したが、9月には、空港は復旧していた。関空第Ⅰ期滑走路自体は、配線が
問題なければ、復旧は早そうだが、浸水した空港ビルの1階、地下施設は浸水しているようで、海水に浸かっただけに
設備を取り替えるので、1カ月以上はかかるだろう。
連絡橋は、衝突部分を台船に大型クレーン船で載せ、取り替えるとしたら、半年以上はかかる。
列車橋は衝突による損傷がなければ、撤去後、復旧は早い。もう1本の連絡道路を双方向に
車線を引き直し、復旧工事を進めることになりそうだ。
空港ビルと関連施設が復旧する工事次第で、国際線だけ半分以下の運行が開始できるだろうが、鉄道橋が
使えるまで、半年以上かかるだろう。
この影響は、関西経済に与える影響は相当大きい。国内線は大阪空港と神戸空港があるので
代替できるが、当面1カ月は、国際線は代替できない。福岡、名古屋、羽田、成田を利用するしかない。
アクセスが他の空港より2倍かかるので、利便性がいいわけではないから、利用者にとっては
西日本地方に住む人は、福岡・仁川で、国際線に乗り換えると思う。
今後も、台風の発生回数と、その強さは、海水温に比例するが、IPCCの報告から、温暖化は海水温の上昇が、
気温の上昇より早く進んでいると報告されているが、海水温度の測定所は、沿岸か衛星か船舶以外にはないので
全地球の測定は、始まったばかりである。岩石と違い、温まるとさめにくいので、台風の強度は
増していく見込みである。関西国際空港の高潮対策は、排水設備と地上設備の防水、耐海水化は
進めないと、今回の事態は、関空、大阪万博会場に対する高潮対策が万全であるという証明にはならない。
2018年9月3日 米中貿易戦争の終結はいつ?
9月から、25%完全の品目が増加し、理論的な米国の目標は、貿易収支の均衡で、純輸出=0であろう。
資本収支は、米国の黒字なので、均衡は狙っていない。むしろ、製造業の国内回帰を狙っているので、
中国への直接投資はゼロにしたい。他の国も、貿易収支は同様に、均衡である。メキシコとカナダは、
関税を復活することで交渉中である。メキシコについては、製造業の進出で、不法移民が減少しつつある。
米国が中南米国民の不法移民で悩んできたのは、わかるが、米国の対外通商政策では、ともに繁栄する
ことが、安全保障になるという考えがない。それが、全南北米の経済繁栄圏が形成できない理由である。
日本は、第2次世界大戦後、10年で、生産力を回復したが、アジア諸国に対して、賠償と援助を、乏しい
国富から、継続してきた。中国、韓国に対しても、同様に、経済発展への協力してきた。
その結果、一人当たりの国民所得は、日本を超える国も出てきている。中国が一人当たりの国民所得で
日本を超えるまでには、時間がかかるが、中国が日本を超えて繁栄すれば、日中戦争はない。
米国の世界警察官は、貧困層をいつまでも放置すれば、犯罪者になるものも出てくるし、非合法取引に
手を染める犯罪組織も作るようになる。全南北米の繁栄圏を、米国の政治理念として、実現できるよう
諸制度を改革すべきだろう。
米国の支配層にとって、中国に対する感情は、中南米に対する感情と同じだろう。交渉に対する
礼儀はいささかもない、砲艦外交と変わりはないだろう。中国にとって、貿易収支の均衡が、米国の落としどころ
であれば、当然、「政策には対策」という中国流かわしに入っているが、製造業の縮小は避けられない。
アフリカ外交で、需要を振り替えるように見える。開発投資銀行を立ち上げたが、自前では、国際金融部門の経験と
十分な米国資産が貯まっているわけでもなく、中国元は変動為替制度でもない、管理バスケット制度である。
ちょっと、米国が赤字削減を要請するのが早すぎたかなと思っているだろう。
石炭火力、石炭原料をふんだんに使う、CO2削減には、効果は早く出るだろう。新興国の生産鈍化で
アフリカへの鉄鋼、セメントなどインフラ資材の押し込みも、中断するだろう。
世界貿易には、来年から、米国の対外取引で貿易収支の改善が進めば、米国経済の資源浪費型
使い捨て消費は、資源節約的リサイクル経済に転換するよい機会かもしれない。全南北大陸の
繁栄が、第一主義の目標であればよいが。
資源のないパキスタン、アフガニスタンまで、アジアの繁栄圏が、隣国の武力衝突を回避する一つの方法である。
まだ、北朝鮮が、米国の方法にまともに付き合っているし、キューバ、ベネゼーエラが伝統的に、米国の
思う壺になっている。アジア大会を見ていると、アジアの繁栄圏が今世紀実現するように思える。
プラスチックの回収焼却か、生物由来のプラスチックに転換する運動が、フロンガスと同じように
立あっがてきた。バングラデッシュでは、プラスチックのレジ袋は禁止だと、日本に帰国して、知った。
ダッカでコンビニで買い物をすると、日本ではオレンジ色の玉ねぎネットがあるが、麻のネットに入れてくれた。
雨季には、陸地が海になるようで、プラスチックの害は確かにあるのだろう。生物由来のプラスチックに転換は
国連の環境条約になると思う。
2018年7月28日 北中南アメリカの原住民の人口増加と雇用
トランプ大統領の主張で不法移民と中東の難民対策が特に印象に残っている。
私は、1985年日航ジャンボ墜落事件の夏、ハワイ・サンフランシスコ旅行を準備していたが
事件後、シアトルで入国し、バンクーバー・ビクトリアに1週間以上滞在し、ビクトリアでシアトルの
テレビを見ていただけだった。次は、ベルリッツで英会話を訓練しつつ、サププライム問題で、ロスアンジェルスに
その事情を視察に以降と準備していたが、結局、2011年2月ハワイにいった。当時、太平洋では、反時計回りで
地震が起きて、津波があるし、気になっていたからである。2月22日12時頃、カメハメハ像の写真を撮ろうとしていると
日本人の夫婦がその周りを10分以上回って写真を撮っているので、待っていると、頭に真っ赤な鶏冠のような羽が
生えている鳥が、地面に降りてこっちをしきりに見ていたのが、印象的だった。ニュージーランドで地震が起きていた。
日本人の観光客は、たいてい、アメリカに行くのであるが、私には、なかなか、はるかに、遠い国である。
日本の政治家も、アメリカの友好関係にある都市を訪問し、議員同士で、親密な交流があるのは、まれだ。
日本の官僚は、大学院に留学するが、先生との関係を作るか、安倍氏と加計氏との友人関係のように
帰国後の人間関係を作るのが主要な目的であるといわれている。要するに、普通のアメリカ人とは
付き合う気はないエリートな人々なのであろう。
話がズレたが、本題に戻ると、アメリカにヨーロッパ人が移民として来る前に、北中南アメリカには、
北はインディアン、中米にはアスティカ、マヤ、南米にインカ、べネゼーラ、ブラジルからアルゼンチンまで原住民が
生活を営んでいたわけである。民主主義の時代となり、奴隷制度はなくなり、国民主権は平等に付与
されている。しかし、差別はあり、言語は公的には使用されない。今も社会の下層にあれば、
犯罪組織に入ったり、アメリカに不法入国するようになるのであろう。
彼らは、工場労働者として訓練すれば、非常に有能であるのは、メキシコの対米輸出のために
世界の大企業が進出していることからもよくわかる。そのせいか、メキシコの国民所得が
増加し、不法移民が減少したといわれる。
アメリカ国内で、スペイン語を話す人々の人口が増加し、米国人の半数を占めるようになるといわれる。
血統からいえば、アスティカ、マヤ、インカの人々ではなかろうか。もともとは、彼らの土地であり
米国が世界一の国民所得を稼げば、低所得者の仕事は、周辺の人々に頼るようになる。
しかも、その気候環境で生活してきた人々であり、何も問題はなく、低所得層の人口増加が
一族のの所得に比例するので、米国に入れば、ますます、カソリックの教えでは中絶できないので
居心地がいいのである。
トランプ大統領は、メキシコとの間に壁を作るといわれている、また、中国に仕事を丸投げし
国内製造業を支えるはずの、良質な労働力がヒスパニックであるが、見向きもしない。
根本的な差別意識が、アメリカの上層にあるのは間違いないだろう。北中南アメリカは
民主主義の時代では、抑圧者と被抑圧者の関係はできないのであるから、支持者を
獲得できなければ、任期中の権力は獲得できない。
シリアのように、アサド大統領が地位を民主主義で奪われるような怖れが出ると反対勢力の生命財産を
壊滅させて、反対者を追い出し、国土を縮小し、支持者で固めるようになれば、分国化する。
アメリカの上層では、今でも共産主義は敵であり、ロシアは世界一の領土をもっているからか
敵なのである。上層部の意識改革をし、世界関与の肥大化した国防費を減らし、核兵器を放棄するように
他の保有国を削減交渉をしていけば、トランプ大統領の上層部の杞憂は、上層部以外の
普通のアメリカ人がうまくやっていく気がするが。流れとしては、国民を平等に博愛する
政治家が増えれば、ふたたび、アメリカの黄金時代が訪れる気がする。いずれにしても
米国は、American Spiritから、American Mindに重心が移る時代かもしれない。
2018年7月11日 日本の集中豪雨
西日本で、台風崩れの熱帯低気圧と梅雨前線が合体して、筋状の雨雲が連続して、北東に流れていった。
その結果、広島県と岡山県、愛媛県に、人身被害が集中した。日本は、地震、雷、火事、津波、火山と
毎年、日本のあちこちで発生する災害国家である。そういう国土なので、文句を言う人は誰もいない。
私の60数年の記憶からすれば、最近の梅雨開け時期の集中豪雨は、あの流れ雲と雨量がすぐ500mlを
超えることである。西日本では、わずかの平野は、弥生時代からの日本国民のたゆみない稲作
団地を人為的に築き上げたものである。
毎年、平野部で、堤防が決壊し、里山で、新興住宅地が土砂崩れで、人身被害が出ている。新幹線で眺めてみると、
その団地が住宅地に代わりその間に田が残り、、農業を廃業する人々が瀬戸内海各市で多くなっている。
個人農業で、戦後、国民を戦争に駆出し、80%農林漁業従事者に、農地をただで分配し、その補償措置だと
理解している。敗戦国、西ドイツでも、どうような政策がとられたと理解している。そうしないと、国の再建に立ち上がる
気概が国民に出てこない。封建時代からの不在地主はその土地を小作人に無償で分配したのである。
高度成長が1970年に終わり、低成長に入って、バブルの1988年まで、まだ、農地の方が優勢であったが
バブル後、農民が農地を宅地に転換しだした。その結果、西日本の弥生時代からの平野部は
宅地化された。これは、有史以来、日本の産業上の大転換が生じた結果である。さらに、脱工業化が国際競争の激化で、
進み、西日本の工業地帯は衰退しつつある。その従業員が、農地転換の住宅地に残されている。
他方、今回の集中豪雨に見られるように、ゲリラ豪雨とか筋状の雲とかいわれる積乱雲が連鎖的に
移動していき、2~3時間で2~300ml雨を降らせる。原因は、地球温暖化である。
しかも、夜間、1時から4時までに、雨量が激増する。その時間帯、積乱雲は山岳地帯にぶつかり
夜間の気温低下で、水蒸気が大粒の雨粒に成長し、バケツをひっくり返すような雨が降るのである。
その筋を外れる地域は、何も対策を取らなくてもよいほどだ。私は筋状の雲が家の上空を通過するか、
スマホの雨雲予想で確認して、寝ている。あまりにも、法則的に、現象が生じるので、気象庁の発表
も同じことを考えているのだろう。
結論は、弥生時代以来の農地に住宅がある場合は、堤防が決壊するリスクは高い。ハザード・マップ
に氾濫水域に指定されている、あるいは、土砂崩れの危険区域に指定されている場合は、
夜間、筋状の雲が通過し、山岳地帯がある場合は、ハザード・マップ指定地域では、車で、その地域を
夕方までに対比するべきである。被災者も0時に避難指示が出されても、高齢者や介護者、障害者では
二階に上がることはできない。真備町では、その人たちが亡くなられていると思う。堤防が切れる
数時間前に、ディケアのマイクロバスか、タクシー会社の福祉マイクロバスで、避難所に収容しないと
市役所の指示では、無慈悲な結果になる。筋状の積乱雲が深夜から4時までに、雨粒は極大になり
落ちてくるので、誰も避難はできない。実行不可能な指示は、役人のアリバイでしかない。
2018年7月7日 洞窟の少年たちの救出
タイサッカー少年とコーチが、洞窟内に閉じ込められて、発見された。チリの銅鉱山での閉じ込められた
鉱山労働者も励ましの声を届けている。毎日、日本でも報道されている。日本の技術者が排水について
助言しているとも伝えられている。軍事政権以前に、洪水で、なかなか排水できなかった事態を思い出す。
日本の福島原発も、原発の地下コンクリートが割れているのか地下水を放射能汚染させつつ、排出、貯水している。
洞窟の排水は、一日2センチとも聞く。少年たちが洞窟に入った時は、まさか、すべての洞窟に
水が満水になっていたわけではない渇水時の水準は、コーチも認識しているはずだし、
地元の人も、入ったことある探検家も知っている。雨季に入ると、洞窟は水没することも、分かっている。
その水量を、洞窟順に排出するには、パイプが小さすぎる。大型電源をヘリで輸送、大口径のパイプと
水中ポンプを投入し、計算された水量を一気に排水する方法で、洞窟を前進することになる。
少年も、次の洞窟まで、移動させるように、第2洞窟にスペースをつくり、前進させる。
少年に水中を酸素を吸入して、前の洞窟の空間まで進ませる訓練させると報道している。
ダイバー1名が死亡した。少年とコーチも体調を壊しているそうだ。緊急を要している。
チリのように、洞窟の上から、トンネルを掘る案もあるらしい。そのときはカプセルに入れて引き上げた。
あの技術は、掘削機が必要だ。訓練どころではないなら、酸素ボンベと少年をカプセルかかごに
入れて、反対から引っ張り、次の空間にボートを浮かべ収容するしかないようだ。
日本では、山崩れで川がせき止められると、直ちに、大型電源、大口径のパイプと水中ポンプを投入し
下流にてきぱきと排水している。バンコクにそのような機材は、あの洪水のあと、輸入されている気もする。
2018年6月9日 日本企業の稼ぐ力
安倍政権になって、企業減税があり、日本企業は、世界企業間競争では、稼ぐ力が
努力せず、上昇した。、また、トランプ政権の保護主義と国内企業の減税で、
米国に進出している企業は、制度的に稼ぐ力がアップしたはずだし、輸入関税が
アップしても、米国内の生産を増加させればよいだけのことだ。
税制的な刺激は、企業の製品の競争力を上げ、開発投資することとは関係ない。
最近の日本企業の品質劣化が、表面化して、リコールも多い。
企業倫理が堕落しているのだ。リーマンショック以来、売り上げが落ち、国際競争に
さらされ、品質低下に目をつぶる、競争負けの経営の結果なのだろう。
安倍首相は、就任以来、中国の開発途上国外交に対応して、同じように
後追い外交を展開し、それなりに、政府援助とたまに、企業団をともない
経済外交をしてきている。中国の共産党体質による産軍協働外交ではなく
対象国に企業進出し、その国の産業を育成し、経済発展に寄与し
日本の成長モデルを参考にしてもらう取り組みである。
アセアン諸国、インド、中国、ロシア、韓国、台湾を訪問してみると、その国の指導者
および権力機構が、望む産業構造、産業組織がある。中所得国の隘路といわれるものは
それが原因だ。また、宗主国の統治機構の影響が大きいだろう。
中国は、社会主義市場経済で、天安門事件以降、鄧小平氏は、国営から国有へ、
資本主義制度である株式会社を取り入れた。中国の歴史では、大英断であり
今や、零細企業を含めると、全土で有限責任の組織が、4千万社をはるかに超えている。
日本は450万社ぐらいで、今後、人口の減少とともに、400万社を割るだろう。
人口14億人を割ると、3.5人、日本は、1億2千人に対し26.6人である。
韓国の証券取引所を訪問した1988年よりは、上場企業は増加しただろうが、
財閥を形成した。日本とよく似ている。中国は、基幹企業は国有であり
中国政府が支配している。
イスラム圏のインドネシア、マレーシアは、同様に、証券取引所はあるが
イスラム会社組織は、日本では、あまり研究されていない。コーランが
最高法規であるから、イスラム会社も厳密には、最高法規から導かれる。
会社内では宗教にもとづく労働に配慮がある。
この株式会社という組織で、雇用を維持し、社会を形成するという仕組みは
中所得国では、その国が更なる発展をするためには、必要な制度改革だろう。
ところで、日本の企業は、アジア諸国で、生産拠点を移し、国内製造業の空洞化を
招き、政府は不作為の野放しをしてきた。
トランプ大統領のように米国の製造品はすべてアウトソーシングで、輸入し、サービス業だけが
産業であるのは、いかがなものかと、保護主義を掲げて当選するのは自然な流れだろう。
大阪平野をGoogleで調査しているが、住宅とオフィス、商業施設で埋め尽くされ
工場は閉鎖されている。代わりに、大型配送倉庫が建設されている。
大阪府民は、個人労働サービスで今後生活するのだろうが、このサービス料は
上昇に限界がある。大阪のマクロ推計では、貯蓄を食いつぶしている。
例えば、スマートフォンを大阪で製造し、それを世界に販売するならば
雇用も増え、利益も大きい。最近は、日本製アパレルも減少している。
京都の西陣織産業のように、平成から、高級品に特化したら
生産量は10分の1以下を進み、消滅するだろうと言われている。
2018年5月16日 米朝首脳会談
2018年6月12日、シンガポールで米朝首脳会談をする段取りになっている.
ここまで至るまで、驚くことが多かった。半信半疑の人が多いと思う。
北朝鮮は、多数の拉致被害者の安否確認すら満足した回答がえられない国であり
戦争状態優先の国には国際法の遵守は言えない。
今回、南北朝鮮が、終戦宣言に、前向きであるというのは、内戦統一を
望んでいないということである。朝鮮戦争史を米国のジャーナリストが
まとめた本を読んだが、朝鮮を完全破壊し、結局、勝負は引き分けだ。
今回、米中ロ南北朝鮮で、勝負は引き分けだったという終戦宣言を
承認し、国連軍を引き揚げさせるところまで、今年中に、交渉が
進展するのではないかと期待する人々は多い。
ところで、その間、イランに対する核合意は、米�国は離脱し、
エルサレムに大使館を移転した。イランは反発し、イスラエルに
攻撃を仕掛けた。イランの覇権主義が、シリアに浸透している
ことを明白に示している。シリアもロシアとイランにより、軍事・経済的な支援を
得ている証拠でもある。単なる米国の中間選挙ねらいの成果を
狙っているのかもしれないが、宗教指導者により、イランが中東覇権をめざしているので
あれば、その勢力圏は、もうすでに、パレスチナのイスラエル西岸およびガザ地区まで及んでいる。
米国は、国費から毎年、イスラエルにつぎ込み中東地域に、とどまり続けるならば
米イ100年戦争になるだろう。
2018年4月22日 米国の保護主義のはじまり
昨年の12月まで、極東は緊張したが、平昌オリンピックに絡んで、南北の統一チームができ
トランプ大統領の対話の具体化に動きが伝えられるようになった。5月か6月に、米朝会談が
あるようである。北朝鮮は核実験、ミサイル実験は中止すると発表している。
オバマ大統領が、キューバとの国交を回復し、第2次大戦後、米国が社会主義国を敵視した
軍事外交政策は、冷戦後、米国の政策見直しか、共存策か変化してきた中で、最後に残された
国である。毎年、米韓軍事演習をして、米国の国防費を費消しているのだが、韓国経済とFTP
をむすび、貿易額が増加し、米国の赤字だ。朝鮮半島に北に軍事費をかけ、南と貿易をし
韓国は為替操作をしている。この戦略は、累積的に米国の国富の減少を招いている。
米国の覇権主義の失敗だろう。キューバは米国の金権享楽の極致で不道徳な旧体制よりは
経済制裁の中、配給で低所得者の生活扶助、公的サービスの無料化を指示してきた。
スペイン、ポルトガル系の植民地は、宗教的秩序を重んじる傾向があるから、
金があればなんでもできる米国文化は、なじめないのだろう。
北朝鮮がICBMを廃棄すれば、米国の敵視政策が終わり、朝鮮半島への軍事関与が、
米国が望む通常のパトロールに転換され、極東の軍事的緊張は緩和される。その分
米国の赤字の垂れ流しははるかに減少する。
中国、ロシア、日本も極東での軍事費をつられて増加させてきたが、通常のパトロールに
転換される。
それと同時にトランプ大統領が仕掛けてきた、東アジア貿易戦争は
貿易収支の赤字を関税で削減しようとしている。サプライチェーンのある品目は除外される。
米国も製造業がもともと、重化学工業中心で、第1次産業の原料を強みに貿易を
してきたので、伝統国と違い、雑貨、衣料等の軽工業が弱い。ITバブルのあと
第2次湾岸戦争で、強みの重化学工業と金融派生商品で、米国の国際収支の赤字は
目立ったなかったが、リーマン・ショックショックで、金融業が脱落、軍需が減少
価格競争力のある中国・韓国・日本からの輸入が目立つようになった。
また、トランプ大統領は米国のインフラの置換投資を予算化しているので、
その需要を食われたくないのだろう。輸入制限をとらないないだけましかもしれない。
政権の公約実現だけは、なんとしても成し遂げたいので、この政策は
降ろしようがないだろう。
中国も製造大国で、世界の70%の製造品を生産するのが目標である。
そのための通商路を陸路、海路、空路を確保し、重火器、船舶、航空機、ミサイル等
武器輸出を妨害されないよう、中国軍の陸海空をそれに合わせて強化する戦略である。
ゆくゆくは、米国にも販売しょうかと商魂たくましいような気がする。
米国艦船も、ヘリコプターもよく不具合で破損しているから、米国産では
品質に問題があるのではなかろうか。その部品が国防省の調達で
中国に発注していたりするのではなかろうか。その注文を取ろうとして、
米国軍需産業のサイトをしっかり研究しているのかもしれない。
トランプ大統領は軍需産業が寡占産業で、暴利をむさぼって
単価2割、寡占価格で8割粗利益をたたき出しているのではなかろうか。
アメリカ経営学の歴史を勉強する機会があり、これは軍需産業の経営学
ではなかろうかと思うことがある。アダム・スミスは、価格が「見えざる手」で決まるという。
米国では、「見える手」で決まる。
2018年4月12日 アジアの持続可能成長目標
筆者は2018年3月5日から8日までバングラデッシュのダッカを訪問した。
市内の国立博物館において、全国の地形模型が展示されていて、興味深かった。
市内は交通渋滞で、トヨタ車が多かった。ビジネス街を見て回った。
どこでも、警備がきつかった。テロ事件のせいだろう。乾季なので、雨季の状態は
歩道の高さで想像するしかない。
ASEAN諸国とNIES諸国を回った後、イスラム圏は久しぶりである。中東のイラン・イラク
戦争から、イラクの湾岸諸国への反攻、第1次湾岸戦争、イラク戦争をへて、シリア内戦から
IS国戦争、そして、サウジアラビアとイランの断交、再び、アサド国と反対勢力との内戦
にもどった。IS国がらみのテロは減少していくが、サウジアラビアとイランの忠誠代理戦争は
ホメイニ革命から、根深く、サウジアラビアの周辺国を巻き込んで、シーア派の包囲網が
拡大しつつある。ほぼ40年間、石油資源に依存して、女性の社会進出をともに、抑制しているため
人口が増大してしてしまったようだ。他に産業はないし、食料は輸入に依存しているから
石油資源では、人口増をまかえない。その結果、シリアでは、選挙すれば、アサド体制は崩壊する。
アサド体制維持できる人口比率にするには、内戦をいとわず、シリアから排斥するしか
方法はないのだろう。ロシアは第2次大戦後、ウクライナの国境協定がなったクリミア半島
とシリアの占領地を維持するために、アサド体制を援助している。そのため、反体制勢力は
今後も苦戦する見込みである。欧米がアサド排除に踏み切れば、ダマスカスは消滅するだろう。
総じて、イスラム圏において、資源依存国は、女性の社会進出を促進し、家事育児に励んでいると
リーマンショック後、地中海の経済崩壊による、中東の春のような民主化運動で、男性の失業者
対策を要求したのだろうが、若年層は失業だ。社会がまわっていかないのだろう。
バングラデッシュでは、主要農業は農業であり、マイクロ金融が女性の家内労働を企業化する試み
があるように、女性の社会進出があり、また労賃の安さから、海外の製造小売業が進出で、
出生率が減少に転じたといわれている。1億5千万人で減少に転じるだろう。
その後、国民所得が上昇に転じるはずである。
インドが中国を抜いて、15億人に突入するといわれている。インドネシアも5億人になると
予測されている。一人当たりの所得増加にならない。
北アフリカ、中東諸国で、持続的成長目標を人口成長としたら、伝統的な生活のままでは、より貧しくなる。
成長目標を雇用にしたら、所得は増加するから、伝統的な生活は変化し、その雇用が生まれる。
国民所得は増加する。